江戸時代に、大和薬師寺の東塔の屋根に登った屋代弘賢の「金石記」を探して、アーカイブを覗いてみると、同書に合わせて松崎慊堂(こうどう)の「大和訪古録」が収録されていた。
「大和訪古録」には、屋代が屋根に登った37年後に、慊堂一行もまた東塔に登っていた事が記されていた。
2人の行動を比較すると
屋代 松崎
年齢 34歳 57歳
訪問年 1792 1829
月 12月 8月
随行 自ら銘を写す 弟子が拓本とる
「大和訪古録」で、慊堂は、「余往親睹使佐藤生搨摹」(私は行って近くで見、佐藤生に拓本をとらせた)
「仰瞻搨者、在露盤上、心悸足顛、至今猶未已也」(拓本をとる様子を仰ぎ見、露盤の上で、心臓がバクバクし、足はガクガク震え、今も思い出すと震えが止まない)と記している。
弟子が拓本をとるのを、慊堂も相輪の露盤の上で仰ぎ見たと私は解したのだった。
屋代の時のように、冬の小雨の中でなく、8月(太陽暦9月)の良い季節に、佐藤安器という弟子を伴って登り、拓本も弟子に取らせたとはいえ、協力して墨、刷毛、紙、タンポ、水と道具を持って上がったものだと解釈した。
50代後半ながら危険を冒して地上23㍍の露盤の上に登ったのは驚くべきこと。屋代を諫めた柴野栗山と、同じような歳で、正反対の行動をとったわけで、同じ儒者ながら、考証学に進んでいった慊堂の探求心のなせるわざなのだろう、と感心した。
=「大和訪古録」(右)と「慊堂日録2」(東洋文庫)=
念のために、慊堂の日記「慊堂日暦2」で、文政12年8月23日の項を見てみた。
「招堤を経て薬師寺法輪院に入る。院主の接待は頗る厚し。導かれて六層塔を観る。塔上の刹柱に銘あり。佐藤安器は上り搨す。余は和田生と仏足石碑及び歌碑を搨す」
弟子の佐藤が東塔の上で拓本をとる間、慊堂らは地上で仏足石や歌碑の拓本をとっていたとだけ記している。