鷹飼家の俳人土卵

 先に触れた天明期の京都の俳人で洒落本作者「富土卵(とみ・とらん)」を調べていて、土卵が下毛野氏の末裔であることが分かった。

 

 下毛野氏といえば、前に度々触れたように、古代から中世へ「鷹狩」の技術を伝承した一族で、平安時代には、摂関大臣家の大饗で「鷹飼渡」という庭で鷹を飛ばす行事を勤めたことで知られる。

 

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「鷹飼渡」は、「特に正月に行われる大臣家大饗の中で、客に供するためのキジを鷹飼が提供する儀式のこと」(大塚紀子「鷹匠の技とこころ」)で、鷹飼は大臣らの前で鷹を飛ばし、あらかじめ鳥柴に結んで用意したキジを渡す。鷹狩を形式化した行事だが、犬を連れた犬牽きを従えて、神経質な鷹を狭い庭で飛ばすことは、相当鷹狩の技術に長けていないと難しいと、鷹匠の大塚氏は語っている。

 

 土卵の「粋庖丁」(寛政7年)が、「洒落本大成16巻」に収録されているのを知って、目を通したところ、解説に経歴が記されていたのだった。

本姓下毛野氏、名敦光。『地下家伝』巻十五によるに、調子家の下毛野武音の次男として、宝暦九年五月二十六日に生れ、明和八年、一旦絶えていた崇神天皇皇子豊城入彦命の後胤である富家に入って、これを再興したのである

 

 下毛野氏は、調子家、富家に分かれているが、江戸時代の末まで京都で、「左右近衛府」の地下官人(じげかんじん)を世襲していた。継承者が絶えた富家を再興するために、調子家の次男坊の土卵に白羽の矢が立ったと思われる。

 

 土卵は近衛府の役人として、禁中警衛行幸警護などの職務に就いたようだ。順調に昇進して、近衛将監(しょうげん)、つまり現場指揮官となり、位も従五位下にまで上がったという。

 

 その傍ら、東山の雙林寺の前に住まいし、向かいの家の、西村定雅らと俳句を作り、洒落本を書いて暮らしていた。ちょっと不思議な人物である。

 

 彼の「粋庖丁(すいほうちょう)」に目を通してみた。

「心地よき物」「気味の悪き物」「にくき物」「きたなき物」など、それぞれの題に、つぎつぎと例を挙げて、書き進めていく。今でいう「あるある」風に読み手を頷かせていく感じだ。

 

「気味悪き物」の題なら、

「宿坊(たのみでら=菩提寺)の和尚に、薬貰う病人」

「闇の夜船の便事」

「盗(ぬすびと)の入たるあと」

「釣鐘の下」

「孟八(たいこもち)の目礼」

と、薄気味悪いものを並べていく。

 これらの途中に、京都の色里での粋な話や、無粋な逸話やらが、「気味悪き物」「にくき物」などに分類され、それぞれ差しはさまれている。「粋庖丁」は、土卵26歳の作。2年前には「花實都夜話」を出している。

 

 土卵は鷹飼の儀礼と全く関係がなかったのだろうか。

 京都・乙訓郡の調子家には、「鷹飼に関する口伝」が現在まで伝わっており、富土卵の時代にも、鷹の神事などの伝承や、一族の来歴についての知識は継承されていたに違いない。

 富土卵の本名、下毛野敦光についても、鎌倉時代大臣大饗で鷹の「渡り」を披露した人物の名前に「下毛野敦利」があり、「敦」の字は、一族で継承されてきたものではないか。

「下毛野氏は江戸後期に至るまで近衛府官人、御随身を維持したというが、残念ながらその技術は今に伝えられていない」(大塚氏、上掲書)。

 

 天明期の俳人には、興味深い人物が多いが、土卵については、まだまだベールに包まれているように思われる。

 

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 土卵の句「更衣綿ふき出セし戻り哉」を見つけたが、解釈が出来ない

 

 

 

 

 

 

猫と食事する淡々の屁理屈

 うちの猫は、食事中テーブルに飛び乗ってくることがある。細は、叫び声をあげるが、猫は堂々としていて、尻を押しても、踏ん張って降りようとしない。私が注意して下ろすと、床でケロッとしている。「貴方が甘やかすから、こんな猫になってしまったのだ」と細。

 

 息子が来て、食事中ではないがテーブルに乗っている猫を見て、仰天していた。

 

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 やはり、私が甘いのだろうか。

 

 江戸時代の俳人大伴大江丸の「俳懺悔」に、京阪で活動した俳人松木淡々(1674-1761)の逸話が紹介されていた。淡々が猫と一緒に食事をしていたのを、門人が見て注意した話だ。

 

淡々、猫を飼けるに、我喰けるめし夜菜などを我箸に分遣し、膳の脇にてくはせけり

 

 江戸時代にはもちろんテーブルはなく、畳の上に、脚のついた膳を置き、食事をしていた。淡々は膳の横に猫を坐らせ、御飯やおかずを分け与えていたのだった。

 

門人の曰。先生餘りなる不行跡の飼せられやう也。猫のくせあしく成候半と……

 

 門人は、目に余るひどい飼い方です。猫に悪い癖をつけてしまいます、と意見した。

 

 淡々の言い訳は、こうだ。

 

私も初めの二、三匹まで行儀をしつけて、首輪の鈴なども綺麗にして、食べ物も賄の女性に頼んでいたが、だれかに盗まれてしまい、十日と家にいなかった。美しく飼われている猫は人が欲しがるものだ。この猫は、こんな育て方のため、一、二度盗まれたが行儀が悪いと追い返され戻って来た

 

 猫を盗まれないように、行儀を教えずに育てている、という屁理屈だ。師匠の説明が続く。

 

猫は所詮鼠が書物を荒らすのを防ぐ役目が一番と考えるなら、その他のことには構わず、鼠の監視の役割に目を向けなければならない

 

俳諧も又かくのごとし。ここが眼字、それが其題の専という事を見さだめたし

 

 猫を飼う本来の目的を忘れないことは、句会の「題」についても同じことで、その題のかなめ、ポイントを見定めないといけないのだ、と結論している。

 

 猫と食事する様を弟子に注意された話が、猫を飼う目的に変わり、句題に対する秘訣伝授となるのだった。

 

 文芸辞典などを見ると、淡々の文学的評価は、低いようだ。大坂出身で、上京して其角らに学んだが、京都で多くの弟子を抱える俳人を見て、自身も京の洛東に庵を構え、大量の弟子を集めることに成功した。弟子たちから集めた財などで、豪奢な生活を送り、大坂に移った。作品は俗臭があり、経営の才能だけが認められる、といった風だ。

 

「俳懺悔」には、他にも淡々の話が掲載されていた。

淡々曰。詩は長刀、和歌は刀、連歌はわきざし、俳諧は懐剣也。こころ切におもひつむれば、其利事はやく始皇の胸先をさすにいたる。刃長くば其所にいたりがたらむか

 詩は長刀

 和歌は刀

 連歌脇差

 俳諧は懐剣

 刀に例えれば、短詩型文学のなかで最も短い俳句は懐剣に相当する。

 匕首をもって、始皇帝の暗殺を謀った刺客・荊軻の例があるように、懐剣ならば素早く始皇を胸先で刺そうとすることが出来る。(実際は、逃れた始皇が長剣を抜いて、荊軻を殺したのだが)

 そして、結論ー。

≪私は、昔、恋という題を与えられ、

夏痩と問はれて袖のなみだ哉

、といひけむも、即懐剣の切味なり≫

 私はかつて、句題に恋が出た時、夏痩せかと聞かれた女性の袖に浸みている涙の句を作って、恋を描いたものだ、懐剣の切れ味のように、胸にぐさっとくるだろう―。

淡々は、自句を自賛している。

 

 句はまずいし、切れ味もないのだが、この論法が大衆受けしたのだろうと、想像できる。俳句より屁理屈が面白いのだ。

 大江丸は、自句ばかりか、江戸時代の俳人たちの人柄が伺える逸話を「俳懺悔」で多数記していた。

 

f:id:motobei:20211124182819j:plain大江丸

 

 で、猫はどうしたらいいのか、鼠を捕る役目のない我が家の猫の、本質的な役割はなにか。家族の一員?。それなら、淡々のように一緒に食事したほうがいいような気がしてくる。

 

 

 

 

 

恒友装幀本の下弦の月

 天明期の俳人大伴大江丸の句集を読みたいと思い、探すと見つからず、「俳懺悔」を収録した昭和3年刊の「日本名著全集 江戸文芸之部 第27巻 俳句俳文集」(日本名著全集刊行会)まで遡らないとないことが分かった。

 

 注文した本が、四国の古書肆から届き、包を開けると、コンパクト判(112×174㍉、小B6判ともいうらしい)のサイズで、1200頁あった。いっぺんで気に入る装幀だった。

 

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 表紙には、金の輝きが充分残った月と柳の絵。

 なんと、これまで追いかけて来た画家森田恒友の作品だった。見返しには、水郷のスケッチ。思いがけない恒友作品との「出会い」にうれしくなった。

 

 函には、烏2羽を従えた怪鳥の可愛らしいイラストが印刷されていて、こちらは小杉未醒作で全31巻を通した装幀のイラストだった。全集本の装幀を小杉が請け負って、各巻は仲間の恒友ら画家たちに振り分けて依頼したのではないか、と想像した。

 

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 恒友の表紙の月は、下弦の半月だ。

 

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 気になって、恒友の月の絵をさがすと、大正15年11月に発表された「秋郊雑画稿」の「月」も下弦の半月だった。さらに同年「半月」(東京国立近代美術館蔵)の代表的な水郷を描いた作品も下弦の半月だった。

 

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 下弦の半月は、夜遅くなって東の空に現れ、朝方南中して、昼頃西に沈むのだった。だから、下弦の半月には、夕月も、浅い夜の月もない。

 深更の月、明け方の月、昼の月に限られるのだった。

 

「秋郊雑画稿」の「月」には、

「月の下、岸邊の葦の中に、ぽつりぽつりと點ぜられる屋根舟の中に、めそ捕りの親父が寝て居る。サッパ舟の親父、通りすがりに「居るけい」と声をかける。「おーォ」と返事が聞える。」

 と恒友の文章が添えられている。

 

 めそは、しらすうなぎの稚魚で、夜釣りの対象だ。この絵は、深更、あるいは未明にかけての水郷の光景と推測される。屋根舟には、夜釣りを前に、あるいは終えて、親父が仮眠していたのだろう。(サッパ舟は、笹舟のような小型の舟)。

 

 恒友は、深夜、未明にも、野外にスケッチに出かけていたことが伺われる。

 

 見返しの絵は大きな満月(左ページ上)で、川面も明るく輝いているのだろう。

「河畔秋月」は「満月もよし、半月もよく、弦月亦惡しからず」と恒友は書いている。

 半月と弦月を区別しているのは、訳があるのだろうか。恒友流の解釈がありそうだ。

 

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 月と言えば松だが、表紙絵に、柳を択んだ絵柄も面白く、大江丸にたどり着くまで、随分寄り道をしてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

ヨネ少年の1882年彗星体験

 通勤帰り、駅を降りて休日の料理のために買物をして帰ろうと、ビルとビルをつなぐ歩道橋を行くと、東南の空にスマホを掲げる老若男女の混雑に出くわした。

 月蝕をスマホで撮影しているのだった。月全体が薄暗くなって、右下に小さな三日月型が輝くだけになっている。

 ここ数日、車窓から西の空に沈みかける金星や、家路を歩きながら、東の方角に月と、その近くのスバルがよく見えた。冬になれば空気が凍てついてもっと星が見えるようになると思っていたが、月蝕のことは忘れていた。

 

 ふだん夜空を眺める人は少ないが、天体「イベント」ともなれば、関心がこうして一気に盛上がるのだった。

 

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 神保町の古本店の100円コーナーで見つけた、野口米次郎ブックレットの第3編「松の木の日本」(大正14年、第一書房)に、詩人のヨネ・ノグチが少年時に目撃した、天体の大イベント、大彗星のことが出てきたのを、思い出した。

 

 愛知県津島で生まれたヨネの実家は、弘浄寺という寺に隣接し、幾百年も経った本堂前の松の木が、2階の丸窓からよく見えたという。妹を亡くしたヨネ少年は、四季折々、表情を変える老松を独り眺めて過ごしながら、雪舟、探幽が描く「風雨を呼ぶ」「百難に堪へる雄姿」「植物界の大蛇」のような「周囲を睥睨する」老松に、敬意と恐怖心を抱いたと書いている。

 そんな時、彗星がやってきた。

 

私の忘れることの出来ない追憶がもう一つある。私の追憶は九尺以上もあったと思はれる彗星に関係して居る。世界が終局に近づく印として彗星が現はれるのだと聞いた時、どんなに私の小さな胸は戦慄(おのの)いたであらう。」

 

 1882年(明治15年)9月の大彗星を目撃したと思われる。16日には、彗星が昼間も肉眼で見えるほどの明るさになり、27日ごろ、最も大きく見えたと伝えられる。

「9尺」は約2㍍70。彗星の尾が、6歳の少年の目には、それほど長いものに見えたこと、そして、彗星の出現が「世界の終局」の暗示として世間で受け止められていたことが伺われる。

 

 彗星というと、それから28年後の1910年(明治43年)5月のハレー彗星騒ぎが思い浮かぶ。彗星が近づくと、地球の酸素が消滅し、人類が滅亡するとデマが流れたが、1882年時にも大きな不安が広がったようだ。

 

夜も三更に近い時、母は眠れる私をゆり起こして二階へ連れ出し、例の丸窓を開けて弘浄寺の松の木を見よと語った。私は恐る恐る青臭い呼気を吐く老龍の松を見た……。老龍の角とも思はれる辺に妖魔の彗星が引懸つて居た。」

「私は、むしろ私の心眼は彗星の光に輝されて松葉の針がぎらぎら光って居つたやうに感じた。私はどうしてこの物凄い深夜の光景を忘れることが出来よう……それを思ふと、私は今も身振ひをして其夜の恐怖に撃たれる

 

 と、詩人は恐怖体験として回想している。普段から恐れを抱いていた老松に、妖魔の彗星とが重なって、少年の恐怖が二倍にふくれあがったようだ。

 

 おそらく、いま大彗星が来ても、天体ショーとして、子供たちもまたスマホを掲げて動画撮影することだろう。

 

 大人や世間の無知から来たとはいえ、恐れ慄きながら大彗星や松の木を眺めた、感受性豊かな明治の子供の体験がなんとも愛おしく思えてくる。

 

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(ヨネ・ノグチは、彫刻家イサム・ノグチの父親。渡米先の米西海岸で山暮らしをする詩人ウォーキン・ミラーの家に住み、自らも英語の詩集を出し、英ロンドンで高い評価を受け、国際的に著名な詩人となった。「野口米次郎ブックレット」は、100ページほどの小型本で、30集刊行された。1875-1947)

 

 

角力俳句と高田屋の俳人たち

 天明俳人、高井几董について触れてきたが、代表句は、勝った後の相撲力士を描いた次の句だろう。

 

 やはらかに人わけゆくや勝角力

 

 以前、神保町交差点近くの中華料理店で食事をしていた夜、ふれ太鼓が店内に入って来たことがあった。

 太鼓を叩いた後、明日、国技館で大相撲の興行が始まることや、初日の取組を、呼出しと思しき男が告げるのだった。

 江戸の名残りのふれ太鼓が、神保町界隈にも巡回するかと、意外に思いながら、いい体験だった。残念ながらその後出くわさない。

 

 近頃、だんだん相撲が好きになってきた。今場所は、小結に上がった霧馬山に注目しているが、初日から4連敗。

 

 十日ながら負けつゞけたる角力かな 

 

 明治初めに正岡子規門下の俳人中野其村が、10連敗の力士を描いているので、まだまだ4連敗という思いもある。

 

 其村は、あまり知られていない俳人だが、今私が通う事務所のすぐ近くに明治時代暮らしていたのだった。

 元前橋藩士の大畠豊水という人物が、官吏を辞めて、明治20年代後半に神田淡路町1丁目1番地の角地に開いた「高田屋」で、下宿住まいしていたのだった。

 

 この高田屋には、大物となる若き俳人が2人、明治29年ごろから暮らしていた。「キヨさん」高浜虚子、「カワさん」河東碧悟桐である。

 2階は10室ほどあり、階下も6、7室と、大きな下宿屋だった。3人のほかに、青木森々、下村牛伴、石井露月など、子規の門下の俳人が暮らし、連日俳句の議論をしていたという。

 内藤鳴雪、五百木瓢亭、梅沢墨水、吉野左衛門らも顔を出し、「俳句下宿」と言われていた。

 

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今の淡路町交差点。左手の角に高田屋があったと推定している



 明治時代に「野球」を紹介して野球殿堂入りした子規だが、相撲の句も多い。

 わづらふと聞けばあはれや角力取/相撲取ちひさき妻を持ちてけり/

 年若く前歯折りたる角力

 

 子規門下の俳人たちも其村のほか、瓢亭が

 入念の仕切らち(埒)なや負相撲 

 

 と、入念な仕切りをしても効果なかった負け力士を描いている。(虚子も碧悟桐も露月も、相撲句を残しているが、略)。

 

 以上の高田屋での俳人たちについて、寒川鼠骨の「新俳句時代の思ひ出」(句作の道 第4巻、目黒書店、昭和25年)を読んで知った。

 鼠骨は、この高田屋で繰り広げられた恋愛ドラマのことも書いている。

 下宿屋の2階の6畳、日当たりのいい部屋に住む虚子、床の間のある部屋に暮らす碧悟桐との間の出来事だ。

 豊水には2人の娘がいて、長女は婿とともに炊事を担当、二女は客室の世話をしていた。その二女糸子をめぐってのことー。

 

「(糸子は)初め碧悟桐に意を寄せてゐた。碧悟桐が天然痘で入院した留守中に虚子へ靡いた。

  虚子病んで糸介抱す火鉢かな 其村

 当時同人間でもてはやされた句である。虚子は糸子と結婚し此処を出て根岸芋坂近くの音無川沿の家に借間し」た。

 

 高田屋の主人豊水は心を痛め、傷心の碧悟桐の縁談を探した。「幾もなく碧悟桐は主人の世話で、月兎の妹茂枝と結婚し猿楽町に家を持った。」大阪の俳人、月兎が妹との結婚を申し出る手紙を碧悟桐に送ったのだった。

 

 高田屋での恋愛沙汰は、これだけでは終わらなかった。「虚子病んで」の句を作った其村が、失踪してしまった。「高田屋の玄関右側の部屋で縫物を専門にしていた」女性に恋焦がれて何度か言い寄ったのだが、拒絶されたのが原因だと鼠骨は書いている。

 結局行方知れず。明治の俳句揺籃期の期待されていた才能が一つ消えてしまった。

 

「虚子去り碧悟桐出て後の高田屋は亦旧日の盛観がなくなった」と鼠骨。其村の失踪もそれに輪をかけたと。

 

 明治時代、俳人たちの青春ドラマが、事務所の近くで繰り広げられていたのだ。

 

 恋愛にも勝ち負けというものがあるといえばある。

「十日ながら負けつけたる角力かな」

 其村の句は、なんとも哀しく思えてくる。

 

 

 

 

住吉で出会った天明の2俳人

 林業に詳しい人物から、江戸時代江戸の町は大火事が多かったので、江戸の再建に大量の木材が必要だった、そのため幕府は奥多摩の森林資源と秩父方面の森林資源の2地域を確保していた、と聞いた記憶がある。

 奥多摩地区で100年間伐採、その後は秩父で100年と、100年のサイクルで供給地を交替する構想だったそうだ。森林育成には時間がかかるため、幕府は長い時間軸で将来の対策を考えていたというのだ。江戸時代の森林行政は大したものだと感心したのだった。

 

 江戸時代の京都の俳人を調べていて、京都でも「天明の大火」があったことを知った。天明8年(1788)正月30日(新暦3月7日)。鴨川の東の宮川町の町家から出火し、火は鴨川を越え、御所、二条城、京都所司代も焼き、2日後やっと鎮火した。町の8割が被害を受け、応仁の乱より広い地域が灰になった。

 

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 京は、江戸初め、豪商角倉了以大堰川改修、東高瀬川開削を行い、河川による流通のインフラが整備されていた。大火後の木材も、丹波材が嵯峨まで筏で運ばれるルート=写真=と、駿河材、木曽材など全国の木材が、商都大坂から淀川、東高瀬川のルートで運ばれたようだ。それでも材木は不足し、幕府は丹後の天領の村へ木材供出のお触れをだしたという。(本吉瑠璃夫「近世の京都と木材」=「京都の林業423」平成6年)

 

 復興の目鼻がつくまで3年はかかった。御所から焼け出された光格天皇は避難先の聖護院で3年暮らした。京の俳人では、蕪村はすでに鬼籍に入っていたが、後継者の高井几董(当時47歳)が御所近くの椹木町通りの家を焼かれ、岡崎の塩山亭に鴨川を徒渉して避難した。予定していた句集「井華集」の版木も焼かれた。

 

 几董は大坂に転居してしのいだ。消沈した几董を元気づけようと、門人たちが駆けつけ、気分転換の旅に誘い、秋に須磨明石、翌春に吉野山へと繰り出すのだった。

 

 須磨明石から戻った後、几董は、月見に住吉の浜へ向かい、住吉大社に参詣。茶屋で偶然、大坂の俳人大伴大江丸(66歳)と出くわした。

 大江丸は、大坂の飛脚問屋を継いだ経営者の俳人だった。江戸と大坂を何度も往復、高崎など上州の拠点を足しげく回り、奥州福島に出向いて東北ルートを確保整備した優秀な企業家だったようだ。

 当時の飛脚業は、取次から取次へとネットワーク化が進み、依頼荷物を町や村の指定場所まで届ける便利なシステムが構築されていたという。飛脚取次所が主要街道ばかりか、脇往還でも営業されるようになったためで、大江丸も出張して取次所の管理指導に奔走したようだ。(参考・巻島隆「江戸の飛脚」2015年、教育評論社

 

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 几董と出会った時、大江丸は地元の住吉大社のために一肌脱いでいた。天明年間に住吉の境内の松が枯死した。再生するために、松の苗を植えて、もう一度見事な松の林を作るしかない。相談を受けた大江丸は、松の苗木の寄付集めのため、寄付者の和歌、俳句、漢詩など御自慢の作品も奉納してもらい、「松苗集」にまとめて発刊することを考えたのだった。

 アイデアは的中し、その後、松苗集が14巻まで出るほど成功した。

 

 几董は、そんな事情は知らず、住吉まいりに寄ったのだった。几董の「遊子行」(天明8年)によると、あいさつもそこそこに、大江丸は茶屋の媼(事務局の高齢女性といったところだろう)を呼んで「とちふみ」(松苗集)を出させて説明する。

 話を聞いた几董は、「さはやさしきことなめり、おのれも苗のぬしに加はらんと、やかてそのふみにかいつく」(それはたやすいこと、私も松苗の主に加わりましょうと、ちょっと経って句を書き付けた)。

 

 松苗やゆくゆく月のかかる迄

 

 大江丸は「旧國(ふるくに)」の名で

 

 誰植し松にや千代の後の月

 

と続けたという。

 

 今も大江丸を顕彰して住吉大社では4月に俳句を奉納する「松苗神事」が行われているが、大江丸ばかりか、几董ら同時代の俳人たちも協力していたのだった。

 天明期の俳人たちもまた、植林した松苗が育つ数十年、百年先のことをイメージできる、いたって健全な精神を持った人物であったことが伺われる。

 

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7年後に大江丸が描いた住吉の松と月「松に月松に月これすみよしか」の句が添えられている(「秋存分」寛政9年刊)

 

 

 

 

 

 

天青堂と「栗山」印

 神田小川町で仕事するようになって6年ほど経った。幾つかの神保町界隈の古本、古レコード店、小川町周辺の飲食店、和菓子店に通って、馴染みになったのが、なにより嬉しい。気心が知れてくると、お互い掛け値なしで普段着で話が出来るようになる。

 

 そして、裏道にある、とある古書店の100円本コーナーの発見。他店とは決定的に違う。このコーナーで見つけた本で、目を開かれたことが幾度もある。私の秘密スポットだ。

 

 大正末期に大阪・天青堂から出版された「古俳書文庫」の存在も、このコーナーで知った。文庫の第7篇、京都の俳人・高井几董の紀行文「遊子行」「よし野紀行」が置いてあったのだ。四六判で100頁ほど。手頃なサイズで、オレンジ色のカバー。大正13年9月の発行だった。

 

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 几董は天明期に、蕪村と共に京都で活躍した俳人だが、私は猫の句(河豚好む家や猫迄ふぐと汁)探しをした程度で、俳書などは、頭の外だった。それが、読みだすと当時の俳人との交流や、名所の様子が知れてとても面白い。 

 

 古俳書文庫は20篇出ていて、件の大伴大江丸の俳日記も第10篇で出ているのを知った。

 

 版元の天青堂は、大阪・東天下茶屋にあった。創立者筑豊の資産家一族の栗田二三という人物。鞍手銀行の飯塚支店長をしていたのだが、炭鉱経営者に巨額融資したのが焦げ付き破産。筑豊有数の地主だった実家にも累が及んだ。二三氏は大阪に転居し、天青堂を設立して捲土重来をはかったのだった。

 父が篆刻家であり、古典文化に親しんで育ったようだ。自らも出版社経営が行き詰った後、篆刻に生涯をささげている。出版も、蕪村、芭蕉の大冊など、採算を度外視したようなところが見受けられる。それゆえに、今でも価値のある本が生まれたのだと思う。

 

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 彼の篆刻も見てみたいものだ。

 本には著者検印がなかったが、他の古書肆で手に入れた「秋存分」の方には、蔵書印があった。「栗山」と読める。

 裏表紙をめくると、「広島文理科大学 栗山理一」と万年筆での署名があった。

 俳句評論の国文学者、栗山理一氏(1909-1989)が学生時代(広島文理科大)に購入して読んだ本らしい。

 

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 同氏の「蕪村」は私もアテネ文庫(昭和30年)で読んでいる。

 

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 栗山氏が学生時代にこんな立派な印を持っていたというのも、ちょっと羨ましい。