とみ・とらんの「狼」印「狽」印

 「サン」「ロク」「イチ」

 真夜中に合成音声がリビングに鳴り響く。我が家の猫が、私たちを起こそうと電話機の上に飛び乗って、番号ボタンを踏んで押すのだ。

「タダイマ留守ニシテオリマス」という大きな音も聞こえる。どこを踏んだのだろう。

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 それでもこちらが我慢して動じないと、猫は我が部屋にやって来て、書棚の天辺に登り、次々と前足で本を下に落とす。こうなると、起きるしかない。

 そんな猫の被害を受けて、「康熙字典」はボロボロになってしまった。

 その康熙字典で今、「狼狽」の「狽」を探している。

 

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 先ごろ、江戸時代の京都に俳人で戯作者の「富土卵」(とみ・とらん)をいう人物がいたことを知った。はじめは「ふじたまご」と読みそうになった。

 大坂で飛脚商を経営していた俳人の大伴大江丸については、前にも触れたが大変興味深い人物だ。手に入れた彼の俳書「秋存分」を読んでいると、土卵の名が記された萩の挿絵に出くわして、彼についても少し知りたくなったのだ。

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 与謝蕪村や炭太祇ら京に住む天明期の俳人たちと交流していたらしい。「秋存分」には、大江丸が淀川を京都まで登り、京の俳人を訪ねては、句会を開く様子が描かれている。京では土卵も同行しているが、句会での土卵の句は一句も出てこず、この絵が掲載されているだけなのだった。

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 画の落款に「狼」と「狽」の二印を用いている。土卵は、「狼狽山人」「狼狽窟」とも称していたので、「狼狽」の落款と思われる。ただ「狼」と「狽」をなぜ別々にしたのだろう。

 改めて「狽」はなにかと気になって、康熙字典のお出ましになった。

 

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 「狽」の項を見ると、宋の「集韻」からの引用で、≪獣の名で、狼に属す。子が生まれ、足が1つ欠けていた。群れについてゆくが、すぐ離されてしまい、動顛する。故、うろたえることを狼狽という。≫といったことが記されていた。

 

 日本の辞書は少し違っていて、「狼は前足が長く後足が短い。狽は逆。常にともに行き、離れると倒れてしまい、あわてることから、狼狽といわれる」とある。ちょっと不可思議な説明だ。

 

 「狼」と「狽」が同じオオカミの仲間の、違う動物だということは同じだが、3本足と、前後の足の長短の違いがある。

 もともとの謂われがあって、それぞれが変化して2つの話の派生となったのだろうか。

 

 さて、「狼」「狽」にこだわる土卵は、どう見ても面白そうな人物だ。

 残念ながら、いまのところ手掛かりはないが、きっとだれかが調べているような気がしている。

 

 

 

マチスの狛犬について

 猫のいる古レコード店にまた出直して、買い物をしたが、レコードもストラヴィンスキーの「夜鳴きうぐいす」(Le Rossignol)など買って帰った。

 

 アンデルセンの原作を元に、ストラヴィンスキーが作曲した3幕の短いオペラだ。

 

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 LPのジャケットに、狛犬が描かれていて、興味をもった。マチス作「うぐいすの歌」(Le Chant du Rossignol)のカーテン、と記されていた。「うぐいすの歌」はバレエの舞台で、オペラ「夜鳴きうぐいす」(1914年初演)をもとにストラヴィンスキーが手を入れ、後にディアギレフ主宰のロシアバレエ団がパリで上演したものだ。

 おそらく、この絵は、同バレエのパリ公演時の舞台緞帳の下絵だと思われる。

  

 ディアギレフは、当時ピカソ、ドランとともに、マチスの才能に目を付け、1920年のパリ公演にあたって、マチスに舞台美術を1万フランで依頼している。その時に、舞台美術の一環でマチスがデザインした舞台幕がこの狛犬だったようだ。

 

 第1部:中国の宮殿の祭

 第2部:2羽のうぐいす(本物のうぐいすと機械仕掛けのうぐいす)

 第3部:中国の皇帝の病気と回復

 

 中国の皇帝が、宮殿でうぐいすを愛でていたが、日本からの使者が機械仕掛けのうぐいすを持ってきたため、珍しいからくりのうぐいすばかりを聞くようになる。本物のうぐいすは宮殿から逃げてしまい、やがて皇帝は病気になってしまう…。

 

 中国の宮殿の左右の守護獣として、マチスが石獅子を描いたつもりなのだろう。ただし、正面を向いた1対の石獅子は、どうみても日本の狛犬である。中国の石獅子は、東京国立博物館の東洋館前の北京のものや、沖縄・首里玉殿の屋根の江南地方の形式のものが知られるが、マチスの像とは違っている。

 

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 マチスには和服姿の夫人を描いた「着物を着たマチス夫人」などの作品があり、能面も所有していたという。マチスは、石獅子を描くのに、日本の狛犬をモデルにしたようで、図らずもマチスの日本趣味を伺わせることになったといっていいのではないか。

 

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 思い出したので、祖父の遺品の小物の銅製の狛犬を探し出した。戦前はこんな小物が作られていたようだ。

知人の庭の猫と花

 休日に、家族で知人の珈琲店へランチを食べに行った。奥武蔵の山並みが間近で、空気もいいので、気持ちがいい。

 

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 孫娘もつれていく。冬以外は庭に花が咲き乱れているので、花摘みを楽しみにしているのだ。私は、駐車場の横で、ホオズキを見つけてひとつ摘み、赤い実を出したところ、孫娘は、「ミニトマト!」と声をあげた。

 

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 我が家の猫は、子猫の時、ここの庭に徘徊していたノラだった。知人家族は、この猫に目を付けて、夜間に庭に面したガラス戸を開けて、餌箱にやって来るのを待ち受けた。何回かトライし、なんとか猫を捕まえることに成功したのだが、明かりをつけると別のノラ猫だった。

 トラネコで、知人は当てが外れたが、結局、この猫を飼うことにし、今も一緒に暮らしている。

 

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 その後、捕えそこなった子猫の方は、足を骨折して衰弱していた。このままでは、死んでしまう、と隣家の夫婦が心配し、知人家族と協力して、子猫の捕獲作戦を敢行。4人がかりで回りを囲み、なんとか捕まえて、動物病院に連れて行ったのだった。

 

 隣人夫婦がしばらく飼っていたが、他に3匹の飼猫がおり、知人も2匹飼っていて手一杯。事情もよく呑み込めないまま、我が家が引き取ったのだった。

 

 譲り受けてしばらくは、猫の写真をスマホで撮って、知人宅に送って、隣家の夫妻にも見てもらっていた。時間がたつと、ついつい、報告の間があいてしまう。

 この日、知人から、隣家の奥さんが、どうしているかなあ、と猫のことをつぶやいていたよ、と教えられた。4年経って、まだ気にかけてくれているのだった。

 

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 猫の近影を📧で送って、見てもらうことにした。

 

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 帰り際、孫娘が、庭で自分で摘んだ黄色い花を、髪に留めているのに気づいた。

 我が家は、知人の庭からたくさんのものをもらっているのだった。

 

 

 

 

猫用にショールを購入した

 コロナ自粛が緩和されてから初めて、神保町の猫の古レコード店に顔を出した。

 少しずつ、お客さんが戻って来たという。猫は奥の棚の中でじっとしていたが、呼ぶと出てきた。撫でられるのが好きな猫なので、しばらく撫でて過ごした。

 主人によると、コロナ自粛の時も、ヤクルト販売のお姉さんが毎日のように猫を撫でに来てくれたという。

 

 気温が下がり、冬のような午後の陽気だったので、レコードと一緒に店で売っているネパールのショールを買うことにした。冬を前にわが家の、ソファの背の上の猫用スペースに敷こうと思ったのだ。

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 古レコードは、数枚買った。

 帰宅してチェックすると、その一枚のレコードジャケットは、イエスが猫を抱いた聖母子像のスケッチだった。猫の頭が大きめなので、犬のようにも見えた。「バロック・ギター音楽選集」という63年の邦盤で、クエトがバッハ、ヴィヴァルディを演奏している。

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 最近教わったスマホのアプリ、「レンズ」で絵を検索すると、レオナルドダ・ヴィンチの「猫を抱く聖母子像の習作」だと判明した。やはり猫だったのだ。

 13cm×9.4cmの紙片にスケッチしたもので、6点あるもののうちの1点。黒インクのペン画で、1478-81年ごろ描かれたものという。大英博物館所蔵だった。

 Da Vinci /cat でさらに検索すると、ダ・ヴィンチは他にも、猫とライオンと竜を一枚の紙に描いたスケッチがあるのだった。小片に猫の様々な生態が描かれ、メスライオンか、ヒョウのように見える動きのある動物が同居している。そしてなぜか、中央に、不気味な西洋風の竜が一つ。猫を参考に、架空の獣を描いたのかとも思われた。

 猫が登場する聖母子像は、野鳥のゴシキヒワを調べているうちに、1575年のバロッチの作品に行きついたことを、前に書いた。猫が悪魔の使いとみられていた16世紀によく猫を描いたものだ、と画家バロッチの猫好きぶりに感心したのだった。

 その約100年前にダ・ヴィンチは習作ながら猫を多数描いていたのだった。

 しかも、聖母子と猫を組み合わせているのは、すごいことかもしれない。聖母子と共に描かれたヨハネが猫を抱いているスケッチもあった。

 

 ダ・ヴィンチと猫についても知りたいが、今は手一杯の状態だ。

 

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 古レコードから、得られる情報は他にもあった。

 スペインの作曲家、アントン・ガルシア・アブリルのギター協奏曲のLPも択んで購入した。家に帰って聴くと、美しい旋律。調べてみると、作曲家は、今年3月にコロナ感染で亡くなっていた。(ジャケット写真の右端がアブリル氏)

 マカロニ・ウエスタンの映画音楽などを手掛け、王立アカデミーの院長などをしていた。87歳だった。コロナが世界中で猛威をふるったことを、あらためて認識した。

 

 買って来たショールを猫は気に入ったらしい。その上でちょこんと座っている。そばで、細が、私それ欲しかったのに・・・とつぶやいた。ひざ掛け用らしい。

 

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 古レコード店の猫にまた、会いに行かないとならないようだ。

 

 

 

 

 

 

女帝たちと法相宗、華厳宗

 休みの日に、孫娘を預かることが増えた。私の部屋が気に入って、部屋にある物を弄りまわす。

 朱肉と黒スタンプで手を汚しながら十種類の印鑑を押しまくり、旅先で拾った石や、外国コインを瓶や箱からベッドにぶちまけては、また戻して楽しんでいる。ネクタイピンにも興味をもって自分の服に挟み、巻尺の中身を引っ張り出しては身体に巻き付けようとする。

 その間、猫は押し入れに潜り込んでじっと隠れている。孫は「猫を見たい」と言って、押し入れを開けて、「こんにちわ」と挨拶して触り、すぐ閉める。

 

 嵐のような時間なのだ。

 

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 息子しかいなかったので、孫娘のパワーに驚いている。

 

 今、調べている白鳳時代には、女性が大活躍している。中国の則天武后、我が国の持統天皇元明天皇元正天皇

 前後に広げると、前には推古天皇、皇極(斉明)天皇、後ろには権力をふるった光明皇后がいる。

 

 興味深いのは、則天武后持統天皇が、ほぼシンクロしていることだ。

 

    持統天皇       則天武后

 

687 天武天皇歿

689            実質的に帝位に就く

690 持統天皇即位     即位し聖神皇帝を名乗る

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703 持統天皇歿       

705            武后歿

 

 持統天皇は同時代の武后を意識していたのではなかったか、と思うほどだ。

 大陸の動きと、日本の動きは時間差があると思い勝ちだが、一概には言えないようだ。

続日本紀」の文武天皇慶雲元年の記載では、701年遣唐使粟田真人が中国に到着して、初めて、今は唐でなく則天武后が建国した「大周」であると知った、とある。建国後10年以上たっても隣国の情報が入ってなかったと、正史には書かれている。

 

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  那須国造碑(尾崎喜左雄「多胡碑」67年)

 

 しかし実際は、栃木県那須に現存する700年建造の「那須国造碑」には、689年の表記で「武周」の年号「永昌」が使われている。

「永昌元年己丑四月 飛鳥浄御原大宮 那須国造大壱那須直韋提評督被賜歳次康(ママ)子年正月」

 689年4月、持統天皇から那須直韋提が「評督(こおりのかみ)」を賜った年が、なぜか則天武后の武周の年号で記されているのである。粟田真人遣唐使出帆前に、下毛野国には、武周建国も、その年号も伝わっていた。正史だからと言って、正しく伝えているとは限らない。

 

 689年の持統紀によると、4月8日、帰化してきた新羅の人を下毛野に住まわせた、の記述があり、大陸の情報は、彼らから得たのだと推測される。

 

 663年白村江の敗戦後、政権は揺れ、672年壬申の乱が勃発。勝者の天武天皇側が、藤原不比等など若手官僚に支えられながら、2度の遷都を遂行し、律令による支配体制の構築へ進んだのが、白鳳時代だった。この間、高句麗新羅からの亡命集団の入植が続いた。彼らによって大陸の動きがもたらされたのだった。

 

 則天武后が没して、武周が倒れ、唐に政権が戻ると、中国では、武后が信仰した法相宗が衰え、新たに華厳宗が隆盛になって来る。

 

 日本には、約30年遅れて、736年に華厳宗が伝わった。大仏の建造は、聖武天皇光明皇后によって、743年から華厳宗東大寺で始まった。本尊は廬舎那仏として建立された。

 法相宗から華厳宗へ。政権の移り変わりが、宗派の盛衰につながるわかりやすい例だ。

 

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    黒田曻義「東大寺」(昭和16年、近畿観光会)

 東京都下の深大寺如来倚像は、以前は寺院が法相宗であり、玄奘三蔵とつながりがあることから、白鳳時代作だと言っていいような気がするが、寺の縁起にある天平年間の寺院創建まで下る可能性もある。

 法隆寺金堂壁画の弥勒如来倚像の制作年代が、707-735年と絞り切れていないのと同様で、法相宗から華厳宗への移り変わりが、唐より30年遅れているのに対応している。

 

 深大寺如来を探るには、倚像から離れて、深大寺仏と表情がよく似ている他の「白鳳仏」のことを調べないとならないようだ。

 

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 嵐の後の猫



 

 

 

ヨーロピアンスタイルの役行者

 人間に抱かれるのを断固拒否する我が家の猫も、淋しいのか、ベッドに上がって来て、身体を私の脚にくっつけてくるようになった。

 

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 猫が寝ている間に、手に余って来た「弥勒仏」について、フィニッシュを目指して考え続けてみた。

 

 十三重塔から、始めてみる。十三重塔といえば、鎌足、定慧、不比等と、藤原氏とのつながりが深い奈良・多武峰談山神社妙楽寺)の塔が一番よく知られている。

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 私は、若いころ、多武峰(とうのみね)は、「藤」の峰。

 十三重塔は、2+1+10=13

 つまり、藤原不比等。ふ(たつ)=2、ひ(ひとつ)=1、と(とお)=10。名前の数を足した13ではないか。

 などと空想をしたのだった。世が乱れると山が震える「御破裂山」の伝説もあり、多武峰藤原鎌足親子の霊が漂う、神秘に包まれた存在に思えたのだ。

 

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 実業家・原三渓は、明治時代、十三重塔の左手に巨大な弥勒の摩崖仏が描かれた曼荼羅図を見、多武峰の十三重塔の横には巨大な摩崖仏があるはずだと、発掘したという。成果はなかった。

 だれでも、このような立派な十三重塔をみれば、多武峰談山神社と思ってしまう。笠置寺にもこんな十三重塔があったのだった。

 

 私は、笠置寺のことを知りたくて小林義亮氏の「笠置寺 激動の1300年」改訂新版(2018年、ミヤオビパブリッシング)を手に入れた。波乱に満ちた笠置寺の歴史を網羅した、地元生まれの著者がものした力作だった。

 

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この曼荼羅はかつて多武峰曼荼羅といわれていた。多武峰談山神社には山の斜面に拝殿があり、十三重塔があってこの曼荼羅の画に似ていたためである。しかしこの神社にはこのような石像はなかった。笑い話のようだが、この曼荼羅を手に入れた原三渓はこの像を求めてひそかに談山神社の境内を掘ったという。この曼荼羅笠置寺を描いたものであると判明したのは、昭和十一年、国宝に指定されたとき行われた文部省調査の結果で、国宝指定時にその名称が「笠置曼荼羅図」に改められた

 

 笠置寺奈良県境の京都府相楽郡笠置町にあり、寺の縁起では683年に創建されたという。摩崖仏はその前、天智朝に彫られたと言い伝えがある。

 

 だが、1331年南北朝の戦乱で伽藍は十三重塔もろとも焼失。火に弱い花崗岩弥勒摩崖仏もボロボロと崩れてしまった。今は、巨石に彫られた二重光背が残るだけだが、高さ15mもの摩崖仏の迫力は十分伝わってくる。近くにある少し小ぶりの線刻の虚空蔵石(弥勒菩薩説が有力)が当時の様子を偲ばせる。十三重塔は焼失後、石塔として再建され今に伝わる。

 

 幸い、15世紀創作の笠置曼荼羅図や、1209年に後鳥羽上皇の勅願で模刻された13.8mの大野弥勒摩崖仏(奈良県宇陀市)が現存するため、焼失前の弥勒仏は伺うことが出来る。

 この弥勒仏は立像で、私が探している倚像ではなかった。

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 ここでハッと思ったことは、笠置寺多武峰に共通する「十三重塔と弥勒信仰」の関連である。弥勒三尊倚像のある奈良・正暦寺にも十三重石塔がある―ではないか。

 

 奈良盆地周辺で、過去も含め、奈良時代まで遡る可能性のある十三重塔を探すと

 

 京都府相楽郡笠置町  笠置寺 

 奈良市長谷町の山上 塔の森十三重石塔

 奈良市多武峰    談山神社妙楽寺

 大阪府南河内郡太子町  鹿谷寺 十三重石塔

 

 笠置寺の一縁起に、私年号の白鳳12年4月(672年、或は683年)修験道の開祖、役小角が入山して修行したと伝えられているように、これらには、役小角山岳仏教の匂いが漂ってきた。

 小角は道昭と同時代の人物で、634年ごろに生まれ、701年ごろ亡くなったとされる。葛城山中で修行し、吉野から、奈良盆地の東側の山岳地帯、多武峰―長谷-塔の森―笠置へと修験道の拠点を拡大していったようだ。

 

 持統女帝が度々訪れた吉野は、当時「弥勒浄土」の地とされていた。小角は吉野金峰山とも深く関わっていたのだろう、葛城と吉野を空中架橋でつなごうとした伝説が残っている。鎌足の病気も治した話があり、まるで魔術師である。

 小角には、法相宗を日本に伝えた道昭とのつながりを示す話が残っている。道昭が唐に留学する途上、新羅の山中で講義をしたが、その時、その聴衆の中に、小角がいたというものだ。

 法相宗の教義で考えると、A)学問としての唯識 B)修行としての瑜伽の、2つの要素があると前に書いたが、B)の瑜伽を、役小角修験道という形で展開したのではないか。と仮説を立ててみたくなる。

 

 道昭は、天武、持統の信任を得、薬師寺など法相宗寺院を建立し、地方寺院にも勢力を拡大する一方、実践では社会的な土木事業参画(弟子の行基に継承)を行ったことは間違いないが、山岳修行の拠点の開拓もまた、瑜伽修行と関連して進めたのではないか。

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 山岳仏教のネットワーク作りは、役小角が行ったのだろう。葛城山の北の二上山の山中には、鹿谷寺という石窟寺院跡があり、石窟内には、石造の如来三尊が残され、山中には岩を彫り出して作った十三重塔も立っている。如来弥勒だろう。(山麓當麻寺には、古い弥勒仏坐像がある)

 

 小角が創始した修験道は、密教流入する前には、「弥勒仏」の信仰が背景にあったのではなかったか。

 後世造られた役小角の像は、いずれも、弥勒仏のように、ヨーロピアンスタイルの「倚像」として残されていることも、このことと関係があるのではないか。

 

 

 

 

 

 

帝王=弥勒説

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 猫を横目に、弥勒仏に就て気が済むまで、探索することにした。

 

 インドから経典を運び、漢訳して弥勒信仰を中国に伝えたのが、「西遊記」でもおなじみの玄奘三蔵玄奘は、中国法相宗の礎を築いたとされる。この教えは、「唯識」といわれる。

 

 法相宗のことも少しは齧っておかねばならないと、義兄から譲られながら手付かずの「仏教の思想」12巻から、第4巻の「認識と超越〈唯識〉 」を抜き出したが、難しくて歯が立たない。

 

 収録されている服部正明氏と上山春平氏の対談で、少し輪郭が見えてきた(、気がした)。

 唯識は、認識論なのだった。外部の世界は、人間が認識して初めて存在するに過ぎず、そもそも存在するものではない、ということらしい。世界は「空」なるもので、そのことが認識できるようになると、今までの常識にとらわれた世界観から脱却し、本当の実存の境地が分かるようになる。(A)

 そのためには瑜伽修行をし、人間の潜在意識下に残る阿頼耶識の煩悩をも取り去る必要がある、といったことらしい。(B)

(A)の学問と、(B)の修行、実践と2つがセットなのだが、分離する傾向にあったらしい。(A)からは、禅の思想が派生したとのこと。

 

 その難しい学問を、唐に留学して学んだ2人の僧侶がいる。玄奘に見込まれて一緒に寝泊まりしたという道昭。そして、玄奘の弟子神泰に学んだという定慧

 定慧は、謎に包まれた僧侶で、藤原鎌足の長男である。14歳で、道昭らと共に渡唐したが、天智4年(665)に帰国してすぐ変死を遂げる。弟にあたる藤原不比等はその時6歳だった。

 彼の没後のことにもかかわらず、「多武峰縁起」では、鎌足の遺体を多武峰に移したのは定慧だとされている。孝徳天皇落胤とも伝えられ、多武峰談山神社妙楽寺)ともども、謎めいている。

 

 この唯識の哲学は、中国の為政者には、わかり易いところだけ利用されたようだ。先に記した「釈迦仏の後継、弥勒仏は、転輪聖王=理想君主が出る時に地上に出現する」という教えから、自分が理想の君主、転輪聖王だと僭称する権力者が出、やがては、自分が弥勒仏そのものだ(「帝王=弥勒」)という短絡した物話が作り上げられていった。

 

 典型例が、一時唐を倒して即位した則天武后。「大后は弥勒仏の下生なり。唐に代わりて帝位に即くべし」と、武周(690-705)を建国し、帝位を奪った根拠を法相宗のこの教えに求めた。

 則天武后は自ら、転輪聖王=金輪聖神を越えて、弥勒=慈氏となった皇帝という、尊号「慈氏越古金輪聖神皇帝」を名乗ったのだった。

 

 法相宗、定慧より3年前の斉明7年(662)に帰朝した道昭によって、日本に本格的に伝えられた。天武、持統天皇の支援を受け、薬師寺を建立、法相宗寺院の拠点を作った。

 先に、述べた塼仏、押出仏は、鍍金され金色に輝く弥勒仏等を百、千と集め、千体仏として、寺院の空間を埋めつくしたものだった。

 塼仏が発見された夏見廃寺は、大伯皇女が亡き父天武天皇のために建立したと伝えられる。

 

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 興味深いのは、先に触れた長谷寺の「銅板法華説法図」の銘記に、則天武后の尊号に似た表現が認められることだ。

「飛鳥清御原大宮治天下天皇」(天武天皇)を、「聖帝は金輪王(転輪聖王)をも超えて、逸多(阿逸多=弥勒)に等しい」と謳い上げているのだった。天武天皇逝去後、早い時期に制作されたらしい。

 天武天皇弥勒仏である、と宗教側も「帝王=弥勒」の考えを利用していた様子が垣間見える。

 

 藤原不比等は、持統女帝の相談役として、藤原京遷都を進め、若き文武天皇の後見役として活躍した。この人物が、弥勒仏を信仰していたというのは、当然と言えば当然ではある。

 唐で法相宗を学んだ兄定慧とのつながりばかりでなく、「帝王=弥勒」説を、飛鳥浄御原宮藤原京天皇に、道昭とともにすり込んだ側としても、重要な存在だったかもしれない。

f:id:motobei:20211015111036j:plain 小林義亮「笠置寺激動の1300年」

 

 私は、藤原鎌足、定慧と因縁の深い多武峰談山神社妙楽寺)で、明治時代に横浜・三渓園で知られる実業家の原三渓が、「弥勒仏の大摩崖仏」がここにあるはずだ、と境内で真剣に発掘して探した逸話を知った。(上掲書)

 定慧と不比等弥勒仏のつながりを思えば、実に興味深い話だが、残念ながら三渓の勘違いだった。

 間違ったのも、無理はない。同じ十三重塔のある笠置寺と混同してしまったのだったー。