法隆寺四仏浄土図の如来倚像

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 猫と一緒に、いろいろと歴史を調べていくと、過去の研究結果から定説とされているものが、ネット上や報道などで、まるで「絶対真実」であるかのように扱われている危うさに気づくことが多い。

 私たちが学生の時に教科書で教えられた源頼朝足利尊氏の画が、いまでは別人説が濃厚になって、外されたのと同じように、定説でも鵜のみにしてはいけないのだと思い直したところなので、この傾向、危ないなあと感じる。

 諸説のうち、現段階で一番真実に近そうなものが、定説扱いされているのだ、という位の余裕を持った見方をしないと、ボタンが掛け違って、とんでもない思い込みにつながるように思う。

 

 今回も同じだ。ヨーロピアンスタイルの仏像を探していて、出くわしたのが、法隆寺金堂の壁画だった。見つけたと思った。終戦後、火事で焼失したが、このなかに如来倚像があったのだ。

 

 法隆寺金堂壁画の「四仏浄土図

 調べると、もう確定したかのように、

 

 東側の1号壁=釈迦浄土図

 西側の6号壁=阿弥陀浄土図

 北側左の9号壁=弥勒浄土図

 北側右の10号壁=薬師浄土図

と記されていた。

 

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 如来倚像は10号壁。薬師浄土図と断定されているかのようなので、天平の頃、弥勒如来以外に薬師如来の倚像が存在する証拠なのだ、と初めは大変興味を覚えたのだ。

 

 ところが、である。小山満氏「仏教図像の研究 図像と経典の関係」(2011、向陽書房)に行き当たった。

第十号壁を北方弥勒浄土とする説は古くからある」。

 10号壁は薬師浄土でなく、弥勒浄土図なのだという別説が、長い間唱えられていたのを知ったのだ。

 1925年望月信成氏、36年小林剛氏、49年小林太市郎氏、65年水野清一氏。小山氏も、弥勒浄土図と見ている。

 

 49年の小林太市郎説は、私のように「中国では弥勒を垂脚あるいは倚坐に作ることを常としたとする見解から、これを弥勒像とするのである」(上掲書)

 それに対し、小山氏は、「たしかに弥勒の場合は倚坐像が多いけれども、文献のうえで倚坐像が弥勒であると断ずることはなかなかむづかしい」と先走りを牽制。

 同氏は「観弥勒菩薩上生兜率天経」のうちの一本に、10号壁に関連していると思われる描写などをいくつか探り出し、文献面で10号壁=弥勒浄土図説を補強していた。

 

 私は、古代史の中で最も関心を抱いている人物、藤原不比等が生前に弥勒如来を信仰していたことを知った。

 平安時代に書かれた「扶桑略記」に、養老5年(721)8月3日、不比等の一周忌法要で、生前の本人の信仰に従って、元正天皇興福寺北円堂に「弥勒三尊像」を安置、不比等の妻の橘夫人三千代が中金堂内に「弥勒浄土変」を供養したと記されていたのだった。

 

 今、興福寺北円堂には鎌倉時代弥勒三尊像が安置されているが、元正朝の弥勒像、浄土図とも残っていない。

 私は、法隆寺金堂壁画第10号壁から、今はなき興福寺弥勒浄土変、弥勒三尊と、不比等が信仰した「倚坐」の弥勒仏を想像してみることにした。

 

法隆寺金堂壁画について、小山氏は707-734年の間に描かれたとしている。)

 

 

 

 

猫にジャマされ乍らなお弥勒仏を

 古代の弥勒仏を調べ出すと、膨大な資料を読まないとならないことが分かった。せめて、要点を掴もうと試みると、早速邪魔が入った。

 

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「一緒に遊んでくれ」と、猫がデモンストレーションを起こしたのだ。パソコンのキーボードの上に坐り込んでしまった。追い払うと、また机の脇からこっそりと上ってきてキーボードへ。

 余計なことを考えるより、猫と遊ぶ方がいいかとも思うが、猫をうっちゃりながら、少しは手がかりを得たい。

 

 さて、台座に腰かけた倚像の古代仏だが、その後次々見つかったのだった。7世紀から8世紀の「押出仏」、「塼仏」というジャンルの小仏像として、作られていた。

 

 浮彫(レリーフ)の小さな仏像であり、元の仏像(雌型)に、薄い銅板、あるいは粘土を乗せ上から叩き、あるいは押し付け、複製をつくるものだ。コピーなので、短期間に多くを製造することが出来る。

 

 法隆寺當麻寺奥院に伝わる鋳出仏(雌型)、押出仏を見て、前回の表に上げた奈良・桜井市の石位寺の石造浮彫「伝薬師三尊像」と、同じ様式だったことが分かった。共通する元のデザインがあったことは間違いない。

 奈良県名張市の夏見廃寺で出土した塼仏には、同タイプながら、さらに装飾を加えた如来三尊倚像がある。

=これらを一応Aタイプとする。

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 興味深いのは、奈良の長谷寺に伝わる国宝「長谷寺銅板法華説法図」にも、如来三尊倚像の浮彫があることだった。(長谷川誠氏「長谷寺銅板法華説法図の荘厳意匠について・上」駒沢女子大学研究紀要第8号、2001)

 説法図の上部左右に、上記の三尊像に似た2つの「方画三尊倚像」があり、長谷川氏によると、これらが、説法図の「弥勒龕」に当たる位置にあることが明快に記されていた。

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 同像がまぎれもない「弥勒仏(弥勒如来)」であることが知れた。=Bタイプ  

 

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 A、Bタイプの違いは、印相の違い。

 Aは、定印(法界定印)。

 両掌を上にして膝上で上下に重ねた印相で、如来が思惟、瞑想する姿とされる。

 Bは、施無畏与願印

 右手を挙げて掌を前に向け、左手は下げて掌を前に向ける印相で、衆生の願いを叶える姿とされる。

 

 ともに、如来の印相であるが、釈迦か薬師か弥勒か種類の識別は出来ないのだった。Aタイプもまた、弥勒仏である可能性は十分ある。

 

 深大寺の釈迦如来倚像に戻ると、衣紋、頭部などAタイプの夏見廃寺の三尊倚像に近く、印相は、Bタイプであることが分かった。

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   塼仏には、壺坂寺出土の如来倚像のような独尊のものもあるが、深大寺の「釈迦如来倚像」は、弥勒三尊倚像であり、脇侍の法苑林菩薩、大妙相菩薩、そして光背、蓮台は散逸してしまったのだろう。と、とりあえずの結論を出してみる。

 

 

 

八王子の仏像の薬壺

 考古学者で、文化財調査でも業績を残した柴田常恵氏について、いままで度々触れてきたが、深大寺の「釈迦如来倚像」についても同氏が明治時代に撮影した写真資料を残していた。

 WEBで「國學院大學学術フロンティア構想柴田常恵写真資料目録Ⅰ」の東京の部をクリックすると、白鳳仏の正面、左右、後方など5点を見ることが出来る。実にありがたい。写真には、「武蔵深大寺釈迦銅像 高 二尺七寸 鍍金ノ痕跡アリ」とキャプションがついている。

 

 というのも、柴田氏こそ、この仏像を発見した人物だからだ。明治42年(1909年)、深大寺を友人と訪れ、同寺の元三大師堂の壇下でゴロンと横たえられていた金銅仏に気づいた。それがキッカケで、調査が始まり、貴重な文化財であることが判明したのだった。

 

 私が今回この資料を見て気にかかったのは、柴田氏のこの写真資料「東京」の部に、深大寺仏とともに、別の「倚坐の仏像」の写真があったことだ。

 

武蔵南多摩郡横山村散田 真覚寺薬師銅像」とある。調べると、八王子市郷土資料館に寄託展示されている高さ22.5㌢の「真覚寺薬師如来倚像」だった。現在は、八王子市指定文化財で、薬壺を思しきものを、右掌で持っている。これも伝白鳳仏なのだという。

 

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 ヨーロピアンスタイルで坐る古仏は、どれだけあるのだろう。ざっと調べてみた。

 

場所

 寺院

名称

像高

東京・調布市

深大寺 銅造

釈迦如来倚像

83.9cm

奈良・桜井市 

石位寺 石造浮彫

伝薬師三尊

118cm

奈良市

正暦寺 銅造

薬師如来倚像

40cm

東京・八王子市

真覚寺 銅造

薬師如来倚像

22.5cm

山形・真室川町

山神社薬師堂 銅造

如来倚像

53.5cm

 

 

 とりあえず5像だけ見つけた。大和国2、武蔵国2。出羽国真室川町の仏像は、戦国時代に近江国鯰江から招来したとの言い伝えがあるという。

 

 5像あるうち、薬壺を持っているのは、先の真覚寺の仏のみだが、他の2点も「薬師如来」として伝わっているのだった。なにか訳があるのだろうか。

 

 薬壺を持った薬師如来についても、調べる必要が出て来た。

 Webで見つけた興味深い論文が、奥田潤氏「薬師如来像の薬壺の研究から私が学び得たもの」(薬史学雑誌、2014年)だ。

 論文によると、日本では、最古の法隆寺法輪寺薬師如来は薬壺は持っていない、奈良時代以前には持つ仏はなく、まれに宝珠を持った像がある。平安時代の913年の醍醐寺の国宝の薬師如来が薬壺を持つ早い例で、平安後期以降続々と薬壺が登場する。

 さらに、鎌倉時代になると薬師如来の古仏に、薬壺だけ後補して付け加えた。法隆寺西円堂、新薬師寺神護寺如来(いずれも国宝)は、いずれも後で付けたものだった。

 

 後補したものでなく、しかも平安時代以降のものでないとすると、真覚寺薬師銅像の右手の薬壺は、大変珍しいものであることになる。

 

 調べてゆくと、謎が増えてくる。

 

深大寺と深沙大王

 深大寺に話が飛んでしまった。

   同寺の白鳳仏「釈迦如来像」は、「弥勒仏像」ではないか、と中国唐代の大仏を調べて居て、行き当たったのだ。

 

 「釈迦如来」として当寺で伝えられたのだが、釈迦如来の深い根拠はないようだ。

 

 私は、深大寺に残るわずかなシルクロードの香りが気になっている。寺伝に登場する砂漠の鬼神「深沙大王(じんじゃだいおう)」の存在だ。明治維新廃仏毀釈までは、深沙大王を祀る「深沙大王祠」も近くに存在した。

「関東古寺」(1948)のなかで、井上政次は、深大寺(じんだいじ)は、深沙(じんじゃ)から取った名であるらしいと書いている。

 じんじゃじ⇒じんじゃいじ⇒じんだいじ、ということらしい。

 

 唐代、シルクロードを遥かインドまで取経の旅に出た玄奘三蔵が、中央アジアの砂漠で危難にあった時、救ったのが深沙大王だった。

 

 寺伝によると、寺は天平5年(733)満功上人によって創建された、この満功上人はこの地に移住してきた者と、土地の者が恋愛で結ばれて生まれた子供で、恋愛成就は「深沙大王」のおかげだった。寺ではその礼に深沙大王を祀ってきた、ということだった。

 

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 考古学者の甲野勇氏は「一般に寺伝縁起の類にはマユつばものが多いのであるが、これにはかなりの真実性がありそうに思える。奈良時代創建というのは、金銅仏の存在や、近所にわずかながら布目ガワラが出ることで裏付けられるし、よそ者との恋物語帰化人が移住しているのだから、頭から否定することはできない」(「武蔵野を掘る」1960年、雄山閣

 

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 深沙大王に戻ると、中野美代子氏が「孫悟空の誕生」(1980)で詳しく触れている。入唐八家の一人、常暁が承和6年(839)に国内に持ち帰ったものに、深沙神王像があり、それには7つのシャレコウベを首に巻いている姿が描かれていると紹介している。

玄奘三蔵がはるか五天を渉ったときに感得した神であって、北方多聞天王の化身である。いま唐国の人はみなこの神を重んじ救災の御利益をもとめているが、霊験あらたかなので、この神に頼らぬものはなく、どの寺や家にもみなこの神をまつってい」ると画を解説している。晩唐に人気の神となっていたことが伺われる。

 

 中野氏によると、「西遊記」に登場する深沙大王は、タクラマカン砂漠の最東端の「莫賀延磧」で玄奘を救っているが、じつは玄奘が前生に2度西天取経の旅に出た時は深沙大王が2度とも玄奘を食べていたと書かれている。深沙大王は、その時食べた玄奘のシャレコウベを2個袋に入れて持っていたという。

 まるでSFである。玄奘の前生が語られる時間のスパンは、過去仏-釈迦牟尼-未来仏の悠久の時空と似たものを感じさせる。

 敦煌石窟から唐・長安に広がって行った「弥勒仏」と、玄奘がインドの経典とともに西域で拾ってきた「砂漠の鬼神」深沙大王。

 

 まんざら離れた存在ではない。もっと考えを進めてみようか。

 

 

 

唐代の巨大弥勒仏

 唐代の楽山大仏をどこから理解していこう。坐り方から考えてみるか。

 

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 楽山大仏は、台座に腰かけていて、両脚は前に下ろしている。我々が椅子やベンチに腰かけている姿と同じだ。

 この坐り方の仏像は、ガンダーラ地方で古く登場したことで知られる。アレクサンダー大王等に象徴される東西混淆のヘレニズム文化の一つの表現と考えていいようだ。倚坐とか、善跏趺坐といわれるが、「ヨーロピアンスタイル」の坐り方の仏像ともいわれているのだという。

 

 調べると、唐代に作られた大仏は、その多くが倚坐であり、その一群とともに楽山大仏も解釈すればいいのだった。

 この時代の大仏は、シルクロードの「敦煌」から、唐の首都「長安」を結ぶ古代交通路に沿って石窟寺院とともに造られた。ガンダーラから敦煌へ伝わったヨーロピアンスタイルの坐り方の仏像が、石窟寺院とともに長安への道筋に生れたのだ。

 

 では、この坐り方をするのは、どんな仏なのか。地上に現れた「弥勒仏」なのだった。法隆寺五重塔初層に、須弥山らしき山岳を背景にした四面の塑像群があり、南面に弥勒塑像群があるので調べてみると、やはり、中央の弥勒仏はヨーロピアンスタイルの坐り方をしていた=写真下=。

 法隆寺の塑像は、敦煌の石窟壁画との共通点が認められていて、小さい弥勒仏ながら、敦煌石窟の唐代の文化が日本にも届いていることが分かるのだった。(参考・斎藤理恵子「法隆寺五重塔塑像の主題構成と塑壁の意義」南都仏教1997)

 

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 弥勒菩薩は日本の寺院でよく見かけるが、「弥勒仏」の印象は薄い。WEBで大変わかり易い論文を見つけた。宮治昭氏の「弥勒と大仏」(オリエント31-2)。

 

 私は、仏教は「釈迦」の存在が絶大なのだと考えてきた。ところが、仏教には過去―現在―未来という時間軸を取り入れ、釈迦を相対化する別の考えがあるのだった。

 釈迦誕生の前、毘婆尸仏はじめ6代の過去仏がいた。

 今から約2600年前に釈迦が誕生し涅槃した。

 そして、釈迦の後には「弥勒仏」という未来仏が現れるのだという。

 

弥勒経」などの経典によるとー。

 過去仏の毘婆尸仏の頃は、人々は8万歳(あるいは8万4000歳)の長寿だった。

 釈迦の時代100歳になった。

 未来仏の「弥勒仏」が下生すると、過去仏の時のように8万歳(あるいは8万4000歳)が回復する。

 

 寿命ばかりか、仏や人間のサイズも変化する。

 初代の過去仏の毘婆尸仏は、身長が16丈(48.5M)あった。

 釈迦は、身長が丈六(4.85m)と10分の一に縮まった。

 未来仏の「弥勒仏」が下生すると、過去仏のように16丈に復活するー。

 

 以上の事から、唐代の大仏建造は、身長が復活した未来仏を象ったものだと理解できた。唐代の敦煌莫高窟、天梯山石窟、炳霊寺石窟などの高さ20-30m台の巨大仏像同様、楽山大仏も、地上に出現した未来仏なのだった。

 

 どういう条件で弥勒は出現するのか。弥勒経では、「シャンカ転輪聖王が出現することが前提となっている」「弥勒は単に未来の仏陀というにとどまらず、転輪聖王という理想的な王権と結びついて、聖俗両界において理想社会を実現するユートピアの象徴として信仰されることにもなる」(上掲論文)

 地上に聖王が現れ繁栄がもたらされるとき、弥勒が下生する条件が整う、ということらしい。(私は弥勒仏は56億年先にしか下生しないと思っていたのだった)

 

 唐代の楽山は、塩の生産、流通で富が集中した地域だったという。支援者の莫大な資金提供で、大仏やら石窟寺院の建設が果たされたのは間違いない。唐代の繁栄を象徴する90年がかりの「弥勒仏」の建造だったようだ。

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 未来仏への熱い思いは、日本には届かなかったのか。ここまで書いてきて、東京・深大寺白鳳時代作といわれる銅造「釈迦如来像」を思い起こした。これはまさにヨーロピアンスタイルの「弥勒仏倚像」ではないか。

 

 

 

100年前の大仏写真

 猫と一緒に、1908年発行の本を引っ張り出して、確かめてみる。

 

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 英国の女流作家アリシア・リトルが著した清の時代の中国紀行「In the Land of the Blue Gown」(Mrs. Archibald Little)。この本に掲載された巨大な石仏の写真を思い出して、開いてみたのだ。甘えん坊になった猫が身を寄せてきて、隙あらば本の上に坐って、邪魔をする気配がする。古い本だから、猫にバラバラにされる恐れがある。

 

    写真の巨大な仏の顔は、頭や鼻の下に草が茂っているが、半眼の左目と筋の通った鼻が仏の風格をたたえている。崖の上に登って、巨大な顔が間近に見える撮影場所を見つけたらしい。キャプションは「KIATINGの巨大仏」とあり、撮影はOlin Cadyとある。

 

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 KIATINGは、嘉州だろうか。とすると、この仏は、ユネスコ複合遺産に指定された中国・四川省の「峨眉山と楽山大仏」の大仏ということになる。

 先ごろ、この世界遺産の磨崖大仏の写真を見て、100年前の本の大仏写真を思い出したのだ。

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 楽山の大仏は、唐代の713年から803年まで90年をかけて完成した超特大の大仏で、高さ71m、像高59.98mもあるのだった。中国にある同時代の他の大仏でも、最大が33m(敦煌莫高窟北大仏)。桁違いの大きさで、アフガニスタンバーミヤン石窟の西大仏(55m)よりも大きいのだった。

 もともと、木造建築で保護されていたが、明末に焼失し、彩色されていた大仏は風雨にさらされ、雑草に覆われてしまったのだという。

 

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 本を読むと、この大仏の図版がある章は、著者が岷江沿いの中国内陸に入り、細々と布教活動を続ける各教派のキリスト教宣教師たちを描く下りだった。

 彼女は、岷江が増水し、家が流され、犬が溺れるのを目撃し、渡河が3日遅れるなか、峨眉山にたどり着き、清らかな空気、美しい緑の光景に出会うのであった。三つの川が合流する地点楽山の、赤い砂岩の段丘に建てられた美しい堂宇、塔、そして巨大な崖に彫られた300フィート(90m、実際は71m)の仏像を見物。さらに2つの石窟寺院も訪れていた。詳しい印象が書かれていないのが残念だ。

 写真のキャプションには、「草が生えて眉毛、口ひげのようになっている」とある。

 

 革命後の2度の修復で、稚気あふれる容貌の大仏に変えられてしまった楽山大仏と、雑草まみれながら威厳のあった100年前の仏像の印象の違いにいささか驚きながら、大仏の本来の姿に関心がわいてきた。

 

 

 

 

 

 

 

埋もれているムクドリの才能

 ムクドリの大群が、郊外の町でうるさい声をあげ、住民が迷惑していると報道があった。一度、郊外の駅前でムクドリに出くわしたことがあり、道に落ちているその糞の量にびっくりしたことがある。 

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 その後、本を読んで、なんだかムクドリの扱われ方もかわいそうに思うようになってしまった。3年前に翻訳が出た「モーツアルトムクドリ」(ライアンダ・リン・ハウプト著、青土社、原著は17年「Mozart’s Starling」)。

 米シアトルに住む女性の作家(nature writer)が1尾のムクドリを自宅室内で飼って観察したものだ。

 

 本によると、ホシムクドリは、米国でも憎まれっ子で、「保護しないでよい」駆逐の対象なのだった。そもそも米大陸には生息していなかったが、NYの薬剤師が1890年、英国から80羽を購入。野に放ったために、全土に広がり2億羽まで繁殖してしまったのだった。

 

 農作物を食い荒らし(毎年8億ドルの被害だという)、群れが航空機のエンジンに吸い込まれ墜落事故を起こす。在来種の野鳥を駆逐するため、頼みの愛鳥家からも目のカタキにされる始末。

 

 ハウプトは、世間の目を気にしながら、夫とともに公園の公衆トイレの屋根の下の巣から雛を手に入れる。寝ずに雛に餌をやり無事成長したメスのホシムクドリは、なんとモノマネの天才だった。コーヒーミルで珈琲豆を砕く音、チンという電子レンジ音、家で音がするものは、全部再現して見せた。飼い猫の鳴き声もそっくりに真似るのだった。

 それも、やみくもに音を出すのではなく、著者やその家族へのあいさつ、コミュニケーションをとるために、発声していることが分かってくる。

 

 ホシムクドリは相当賢い動物なのだった。

 

 そして、この鳥を飼っていた18世紀の作曲家モーツアルト(1756-1791)に思いをはせ、著者はウィーンの旧居「モーツアルトハウス」を尋ねて行く。モーツアルトは、ペットショップでホシムクドリが彼のピアノ協奏曲17番の第3楽章のメロディーを歌っているのに驚き、購入した逸話が残っている。

 旧居には、当時の間取りを再現する模型があり、モーツアルト夫妻、2人の幼児、猫とともに、ホシムクドリの鳥籠が置かれているのを発見して、著者は喜ぶ。部屋の間取りを確かめながら、モーツアルトホシムクドリがどの部屋、どの空間で暮らしていたのか想像を巡らせるのだった。

 おそらく、ホシムクドリは、モーツアルトの飼い猫の声も真似したのだろう。ホシムクドリと暮らした時が、モーツアルトのもっとも脂が乗っていた時期に重なり、傑作を量産したのだった。

 欧州のホシムクドリと、日本のムクドリは見た目こそ違うが、同じようにモノマネの天才として資質は持っていると推測できる。群れなければ、こんなに嫌われないのになあ、と思いつつ、彼らの才能が認知されていない現状が実に残念に思えてくる。

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 我が家の猫の、モノマネも聞いてみたい。