深大寺に話が飛んでしまった。
同寺の白鳳仏「釈迦如来像」は、「弥勒仏像」ではないか、と中国唐代の大仏を調べて居て、行き当たったのだ。
「釈迦如来」として当寺で伝えられたのだが、釈迦如来の深い根拠はないようだ。
私は、深大寺に残るわずかなシルクロードの香りが気になっている。寺伝に登場する砂漠の鬼神「深沙大王(じんじゃだいおう)」の存在だ。明治維新の廃仏毀釈までは、深沙大王を祀る「深沙大王祠」も近くに存在した。
「関東古寺」(1948)のなかで、井上政次は、深大寺(じんだいじ)は、深沙(じんじゃ)から取った名であるらしいと書いている。
じんじゃじ⇒じんじゃいじ⇒じんだいじ、ということらしい。
唐代、シルクロードを遥かインドまで取経の旅に出た玄奘三蔵が、中央アジアの砂漠で危難にあった時、救ったのが深沙大王だった。
寺伝によると、寺は天平5年(733)満功上人によって創建された、この満功上人はこの地に移住してきた者と、土地の者が恋愛で結ばれて生まれた子供で、恋愛成就は「深沙大王」のおかげだった。寺ではその礼に深沙大王を祀ってきた、ということだった。
考古学者の甲野勇氏は「一般に寺伝縁起の類にはマユつばものが多いのであるが、これにはかなりの真実性がありそうに思える。奈良時代創建というのは、金銅仏の存在や、近所にわずかながら布目ガワラが出ることで裏付けられるし、よそ者との恋物語も帰化人が移住しているのだから、頭から否定することはできない」(「武蔵野を掘る」1960年、雄山閣)
深沙大王に戻ると、中野美代子氏が「孫悟空の誕生」(1980)で詳しく触れている。入唐八家の一人、常暁が承和6年(839)に国内に持ち帰ったものに、深沙神王像があり、それには7つのシャレコウベを首に巻いている姿が描かれていると紹介している。
「玄奘三蔵がはるか五天を渉ったときに感得した神であって、北方多聞天王の化身である。いま唐国の人はみなこの神を重んじ救災の御利益をもとめているが、霊験あらたかなので、この神に頼らぬものはなく、どの寺や家にもみなこの神をまつってい」ると画を解説している。晩唐に人気の神となっていたことが伺われる。
中野氏によると、「西遊記」に登場する深沙大王は、タクラマカン砂漠の最東端の「莫賀延磧」で玄奘を救っているが、じつは玄奘が前生に2度西天取経の旅に出た時は深沙大王が2度とも玄奘を食べていたと書かれている。深沙大王は、その時食べた玄奘のシャレコウベを2個袋に入れて持っていたという。
まるでSFである。玄奘の前生が語られる時間のスパンは、過去仏-釈迦牟尼-未来仏の悠久の時空と似たものを感じさせる。
敦煌石窟から唐・長安に広がって行った「弥勒仏」と、玄奘がインドの経典とともに西域で拾ってきた「砂漠の鬼神」深沙大王。
まんざら離れた存在ではない。もっと考えを進めてみようか。