わが家のカウチ猫

 

 夜10時ごろ、BSで岩合さんの猫歩きの番組(たいていが再放送)が始まる時間になると、猫のためにテレビをつけることがある。

 

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 猫番組が好きな、わが家の猫は、ほっておくと、1時間まるまる見ていることがある。

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 以前は、テレビに前足を押し付けて画面の猫を触ろうとしたり、テレビの裏を覗いて猫を探したり、凶暴そうな猫が登場すると逃げて横の家具に飛び乗ったりしていたが、最近はもうテレビというものを理解したらしく、ソファの背もたれの上に、MYスペースを作り、ゴロリ横たわったまま、テレビを眺めるようになった。

 

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 ついに、わが家の猫は、カウチ猫になってしまった。

 

 床に寝転んでいる猫を呼ぶと、ニャーといって立ち上がり近寄って来ることもあるが、そのまま寝ころび続け、頭だけ後ろに倒し、こちらを眺めることも目立ってきた。

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 顔が逆さなので表情がよくつかめない。スマホで撮影して、上下を反対にしてみると、「うるさいなー」といった表情であることが判明した。

 

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 ついに、わが家の猫は、手抜き猫になってしまった。

 

 家に籠りがちな御主人さまと、慣れ親しむ時間が多くなったせいか。コロナ自粛期間中に、

猫かく変わりき、である。

 

ハッダの仏頭のこと

 アフガニスタンは行ったことがないし、遠い存在だと思って居たら、我が家のテレビの前のチェストが、アフガニスタン製の家具のはずだ、と細が言い出した。

 

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 テーブル替わりに使っている。数十年も前に、近所に家具屋が出来たので覗きに行って、珍しいこのチェストを買ったのだった。一人では持ち上げられないほど重く、がっしりとした立方体。蓋を開けて箱の中に物を入れる単純な構造だが、正面下には小さな引き出しが2つあって、引き出しを取り出すと、奥に貴重品を入れる隠しスペースの箱があるというものだった。

 

 首都カブールの近郊で制作されていたらしい。

 

 アフガンはまた、バーミアン遺跡など仏教聖地の遺跡も多い。カブールの南東、パキスタン国境の近くのハッダで発掘された仏像は、世界で最も優雅な表情をした仏ではなかったか。

 

 1977年に出版された「砂漠と幻想の国-アフガニスタンの仏教」(佼成出版社)で、同地を訪問した仏教学者の金岡秀友氏は、パキスタンガンダーラ仏が「見るからにたけだけしい感じ」なのに対して「ハッダの仏さまのお顔はなんともいえないほど優しくて柔らか」で、心にしみたと語っていた。

 ハッダは「インダス河の支流を背に控えているので灌漑がよく行き届いて農産物などが豊かです。アフガンの経済を支えている穀倉といっていいでしょう」。優しい仏の表情も「ハッダをとりまく自然環境の反映だと私は思うんです」と分析していた。

 

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 昭和の初め、ハッダで発見された仏頭が2つ、フランスのギメー博物館長と発掘者から京都帝大考古学陳列室に寄贈されたのを、浜田耕作東洋美術史研究」(昭和17、座右寶刊行会)を読んで知った。

 十数センチの小さなものだが、表情は優雅で見事なものだ。フランス滞在中だった考古学者梅原末治氏が仲介したのだった。=写真上、下=

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 フランスの考古学探検隊は1922年からアフガンで発掘調査を開始した。ハッダは、バルツーが26年から大規模発掘をし、発掘品をギメー美術館に送った。京都帝大に届いた仏頭はその発掘品だった。

 

 「砂漠と幻想の国」には、仏頭だけ削り落とされたハッダでの無残な写真が掲載されていた。金岡氏と旅行を共にした仏教学者の菅沼晃氏は上掲の本で、現地に残るハッダ仏についてこう語っていた。「心が痛んでならないんです。というのもそのやさしいお顔をした仏さまの石像が心ない人のために、片っ端からはぎとられて持ち去られてしまっている

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 金岡氏も「仏頭のほとんどはヨーロッパに持ち去られたといわれます。博物館ならともかく、大半が個人の所有物になっているというのですから、憤りがこみ上げてきます。とにかくいいものは根こそぎといっていいくらい失われてしまっている」。

 

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    ライン赤-カブール / 茶-ハッダ / 紫-バーミヤン /緑-ジャララバード

 

 アフガンから外国がはぎとってきた行為とは正反対に、アフガンで暮らし、「灌漑」による豊かな農地作りをすすめた医師の中村哲さんの志は、やはり立派なものだ。2019年ジャララバードで銃撃にあって亡くなったが、中村氏は、先ごろ読んだ「アメリカ探検記」の著者で、兵隊シリーズの作家、火野葦平の甥っ子だった。

 2人が北九州若松で、親族と一緒にとった写真では、野球帽を被った中村少年の後ろで葦平がにこやかな表情で立っている。義弟になる中村氏の父と葦平は、若松で港湾労働者の権利のために身体を張って活動したことがあるのだった。

 人情家で面倒見がよく、兵隊の体験小説で人気を得、そのため戦後は激しい批判を一身に浴び自殺した葦平と、アフガンでの活動で命をかけた中村氏との、精神的なつながり、あるいは性格的に共通するDNAのようなものをふと感じたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1900年代のNY摩天楼

 神保町で手に入れた古書に、図版を印刷するのでなく、白紙のページに貼り付けている体裁のものに出くわすことがある。

 

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 例えば、柳宗悦が発行した雑誌「工藝」(昭和14年2月号)。図版はみな、和紙に貼付されている。

 

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 絵の一枚一枚がなんだか、大切なものに思えてくる効果がある。

 

 米国の古本でも、そんな体裁のものを神保町のY書房で見かけたので手に入れた。

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 1900年代のNYの摩天楼を描いた版画家ジョセフ・ペネルのスケッチ集「The Great New York」。ボストンのLe Roy Phillipsという出版社から1912年(大正元年)に初版が発行された。

 

 摩天楼が描かれているので、てっきりエンパイア・ステートビルか、と思ったが、300m級のエンパイア・ステートビル(1931年)や、クライスラービル(1930年)は、30年代に入ってからの建築なので、この頃のNYの摩天楼は、シンガータワー(187m)だと思われる。

 

 ペネルという版画家は、1857年にフィラデルフィアに生れ、23歳でフィラデルフィア版画協会を設立。NYの画商と契約し、建設中のパナマ運河や、欧州へスケッチ取材をした。1904年にNY摩天楼シリーズを発表すると、NYを旅行者に紹介するヴァン・ダイクの本に用いられ、一躍売れっ子になった。海外訪問客が、船上のデッキから初めて目にするマンハッタンのファンタジックな摩天楼を、その後も次々にスケッチして発表する。

 

 版画は今も米各地の美術館で展示されているが、この古本の版画の数点が本来のものと違って左右反対に印刷されているのではないか、と疑問を持つようになった。

 

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 本に貼られていた、湾内からNYを見渡す1908年の「The unbelievable city」

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   展示作品は、上のように左右逆。雲を見ればよく分かる。

 

 23階建ての米国保証会社ビルを描いた1904年の「The Golden Cornice」

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 これも、下のように展示されているものと左右反対。左側のビルが、スケッチ集では右に建っている。

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  収録された23点のうち少なくても、2点がこんな風になっていた。理由がつかめない。

 貼り付けられた図版を見ながら、裏焼き状態のものもまた、貴重な気がしてきた。

 

 たまたま手にした一冊の古本から、20世紀初頭の米ボストンの本づくりの様子を想像し、時間を潰した。

「いつまでいつまで」と怪鳥の声

「いつまで いつまで」。新型コロナ感染が収まらず、まだまだ続く緊急事態宣言に、ため息交じりに、こうつぶやいてしまう。

 

 疫病が流行していた時、「いつまでいつまで」と鳴いた怪鳥の話があることを思い出した。「太平記」巻12に出てくる「広有射怪鳥事(広有怪鳥ヲ射ル事=ヒロアリケチョウヲイルコト)。

 

 後醍醐天皇鎌倉幕府を倒し「建武の新政」を開始した建武元年秋、御所・紫宸殿の上に夜な夜な怪しい鳥が止まり、「いつまで いつまで」と鳴くのだった。

 その年は、天下に疾癘が流行し、病死する者が甚だ多かった。

 

「いつまで いつまで」と響き渡る恐ろし気な声は、止む見通しのない流行病の終息を急かす声にも聞こえただろうし、また、武家から政権を奪い返した新政が、いつまで続くのか、という不吉な未来を予測する声にも聞こえたに違いない、と私は思った。

 

 鳥を退治するしかない。

 太平記によると、弓矢で鳥を打ち抜く武者を探したという。

 過去の例を見ても、

 古代中国では、9つの太陽が昇り炎暑で困っていた時、8つの太陽を矢で射ち抜いた羿(げい)がいた。

 堀川天皇が御所で毎夜怪しい気配で気絶した時は、弓の弦を3度鳴らして、気配を鎮めた源義家がいた。

 また近衛天皇が御所で気絶した際は、黒雲に潜む鵺(ヌエ)を射止めた源頼政がいた。

 

 故事に倣って、武者を探し、弓にたけた隠岐二郎左衛門広有が択ばれた。広有は怪鳥を目の前にして、雁又を外してから鏑矢を放った。見事命中。喝采する見物人たちは、なぜ広有が弧状の刃=雁又を抜いて射たか不思議がると、紫宸殿の屋根に刺さっては禁忌に触れると思ったと答えたのだった。

 

 鳥は、頭は人、身は蛇、嘴の先端が曲がって鋸歯、両足の蹴爪は劔のよう。羽根を広げると一丈六尺(4m85)あったとある。

 広有は褒賞を得、天皇から「真弓」の姓も賜った。おそらく、疾癘もやがては収まったのだろう。

 

 しかしながら、後醍醐天皇の新政は、わずか2年で崩壊。天皇は吉野へ逃げることになり、南北朝時代がはじまるのだった。

 

「いつまで いつまで」のなき声は、現代に引き付けても不気味である。

 

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 「御霊神社」(福知山)で見つけた怪鳥退治。こちらは剣で退治していた

落ちた堀から怒鳴る上人について

 辺りを観察し上から見下ろす猫の眼、足元で上目遣いに甘える猫の眼。  

 見下ろす眼、見上げる眼の表情は全く違う。かわいい猫をしたたかな動物と思う瞬間だ。

 

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 上から目線    

 下から目線  

 

 以前から気になっている「徒然草百六段」の話も、目線で解釈すると別のおかしさが見えてくると、思った。

 

 百六段の話とは―。

 

 高野山の上人が馬に乗って京都に出かけた時の事、狭い道で、女の乗った馬とすれ違うことになった。女の馬は馬引きがひいていた。その馬引きのミスで、上人の馬は堀に落ちてしまった。

 上人は、烈火のごとく怒って、女性を罵る。

 

≪仏に仕える者にも位がある、

男僧の比丘より尼僧の比丘尼が劣り、

比丘尼より男の在家信者優婆塞が劣る、

女の在家信者優婆夷はそれより劣るのだ、

優婆夷が比丘を蹴落とすとは未曽有の悪行だ≫

 

 さらに、馬引きが、上人の言っている意味が分からない、と返事すると、上人は馬引きを無学なものが、と罵倒する。

 

 すべての者が等しく仏になる、といった教えと思いきや、本音では、僧侶と在家信者、そして男女で上下の差があると、偏見と差別の考えの持ち主であることを上人は露呈してしまった。

 上人は、堀に落ちて、下から馬引きを、「上から目線」で怒鳴っている。馬に乗った女性は、さらに高いところにいるため、堀の底から上人は見上げながら、「上から目線」で吠えていることになる。馬引きは上から上人に答え、馬に乗った女はより高い位置から上人を見下ろしている構図だ。

 

 視線の位置のおかげでコメディになっている。

 上人は、とんだ自分の放言に気づき、逃げるように姿を消してしまった、とある。

  

 上人が落ちた堀が、私には分からなかった。鎌倉末から室町初めのころ、京都の堀はどんなものか。

 

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 神保町のゾッキ本コーナーで見つけた原勝郎「東山時代の一縉紳の生活」(昭和16年、創元社)に京の堀が出て来た。室町時代の公家の邸宅では、築地の外側の通りを掘削して堀を作るのが一般的だったというのだ。

 三条西実隆の邸宅(京都・武者小路)の様子を描いた箇所で、

「一般の公卿の邸宅の例に洩れずして、往来に面した方は土塀即ち築地を以て囲はれ、其築地の外側には堀を穿ってあったのであるが、これが土砂の為めに浅くなるので、時々浚をしたらしい。深くして置かなければならぬのは、盗賊の用心の為めである」

 

 どうやら、高野山の上人はこの泥棒対策の空堀に落ちてしまったようだ。怒り具合からすると、結構深く掘ってあったのではないか、と思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

超高層ビルと墓石 補

 火野葦平の「高層ビルが墓石に見える」の発言が気になったのは、若いころ同じような話を、俳優の三国連太郎氏から聞いたことがあるからだ。

 

 屋外でのことだったか。70年代の後半、西新宿の高層ビル群が新しいスポットとして注目を浴びていた頃だ。今では、都庁が有楽町から西新宿に移転して新都心といわれるようになったが、淀橋貯水場のほかなにもなかったのだ。

 

 遥かに見えるビル群を見て、突然「僕にはあれが墓石に見えるんですがねえ。あんな沢山墓石や卒塔婆を建ててどうするんでしょうか」と言い出したのだった。20代の私には答えようがなかった。

 

 ずっとそのことが気になっていた。その際、終戦直後の広島で見た光景についても話したのだった。岡の上からと言っていたか。「建物がなにもない。ああ、広島という町は太田川の中洲にあったのだ、とその光景を見て初めて気づきました」。私は、どう受け止めていいのか分からなかった。

 

 大切な町が全部なくなってしまう。烏有に帰す。それを若いころに目の当たりにした者にとっては、にょきにょきと建てられ始めた超高層ビル群に対して、こういう反応が自然に出てしまったのか、と今になって想像するのだった。

 

 終戦の8月に、私は、こんなことを思い出し、ニューヨークと墓の絵に反応したのだった。

 

墓とニューヨークについて

「鼠」の版画を見て、版画家関野準一郎に関心を持ったと、前に書いた。その後、店仕舞いした本郷の古書店で、画伯の画文集「街道行旅」(昭和58年、美術出版社)を見つけた。勘定すると、おかみさんは「関野さん」と懐かしそうにつぶやいた。中川一政にも詳しかったおかみさんは、美術家と縁が深そうだった。

 

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 画文集で、目を惹かれたのは、定評ある東海道や故郷青森の風景画でなく、「墓とニューヨーク」と題された木版画。ニューヨークの墓場から遠く超高層ビル街を望む構図だった。

 

 画伯は、好んで墓の絵を描いてきた、と記していた。しかし墓の絵は売れない。

 

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 昭和34年、「麦と兵隊」「花と龍」の作家火野葦平が、米国訪問記「アメリカ探検記」(雪華社)を上梓することになり、関野に装幀を依頼してきたという。

 火野がNYの摩天楼の光景をさながら巨大な墓場だ、と書いた箇所を見逃がさなかった関野は、新刊の表紙、裏表紙に、ニューヨークの墓の絵を用いることを決めたのだった。

 「(NYの)クインにある墓地から見る国連や、ハドソン広場のメトロポリタン・ビルディングを望んだ時は、何か胸苦しい程、その景観に感激した」と振り返っている。「ジェファソン時代からアメリカを作り上げた人々の眠っている所を、それこそ様々な思いをこめて沢山のデッサンを描いた」。

 

 私は、ちょっと気になって「アメリカ探検記」を古書店から取り寄せた。終戦公職追放された火野ではあるが、米ソのほか海外で多数の著作が翻訳され、日米安保改定を前に、米国務省から招待を受けたのだった。

「巨大な墓場」の一節は、通訳に連れられて102階のエンパイア・ステートビルに登った時のものだった。

「頂上は風が強いが、四周の景観は悽絶無類である。ニューヨークはまるで墓石や卒塔婆や位牌が無数に立ちならんだ巨大な墓地だ。南方の海上に、自由の女神像が浮いている」

 屋上からビル群を望みながら、火野は「悪魔になって、残忍な空想に耽」る。米国はいまだ核実験を続けているが、米軍が広島や長崎にしたように、この上空に核がー。

「ラムスデンさんは(マンハッタン島は)地震がないのでどんな高層建築でも建てられるといったけれども、自然よりも人間の方が恐ろしいのである」と。

 

 感情が高ぶっている火野に対して、関野の版画は、鎮魂の絵のようだ。

 

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 火野はこの墓の木版画が大変気に入り、出版後2点購入したいと申し出があった、と関野は書いている。「東京の宅と九州の宅に一枚ずつ懸けたいというのである」。当時、火野は、故郷北九州・若松と、阿佐ヶ谷の自宅を隔月行き来していた。

 

 ところが、翌年1月作家は突然死した。52歳だった。死因は心筋梗塞とされたが、没後12年経って、睡眠薬自殺であると発表された。

 すでに芽生えていた火野の決意が、この版画をひきよせたのだろうか。古本の裏表紙の絵を見ながら、私は竦んでしまった。