「いつまでいつまで」と怪鳥の声

「いつまで いつまで」。新型コロナ感染が収まらず、まだまだ続く緊急事態宣言に、ため息交じりに、こうつぶやいてしまう。

 

 疫病が流行していた時、「いつまでいつまで」と鳴いた怪鳥の話があることを思い出した。「太平記」巻12に出てくる「広有射怪鳥事(広有怪鳥ヲ射ル事=ヒロアリケチョウヲイルコト)。

 

 後醍醐天皇鎌倉幕府を倒し「建武の新政」を開始した建武元年秋、御所・紫宸殿の上に夜な夜な怪しい鳥が止まり、「いつまで いつまで」と鳴くのだった。

 その年は、天下に疾癘が流行し、病死する者が甚だ多かった。

 

「いつまで いつまで」と響き渡る恐ろし気な声は、止む見通しのない流行病の終息を急かす声にも聞こえただろうし、また、武家から政権を奪い返した新政が、いつまで続くのか、という不吉な未来を予測する声にも聞こえたに違いない、と私は思った。

 

 鳥を退治するしかない。

 太平記によると、弓矢で鳥を打ち抜く武者を探したという。

 過去の例を見ても、

 古代中国では、9つの太陽が昇り炎暑で困っていた時、8つの太陽を矢で射ち抜いた羿(げい)がいた。

 堀川天皇が御所で毎夜怪しい気配で気絶した時は、弓の弦を3度鳴らして、気配を鎮めた源義家がいた。

 また近衛天皇が御所で気絶した際は、黒雲に潜む鵺(ヌエ)を射止めた源頼政がいた。

 

 故事に倣って、武者を探し、弓にたけた隠岐二郎左衛門広有が択ばれた。広有は怪鳥を目の前にして、雁又を外してから鏑矢を放った。見事命中。喝采する見物人たちは、なぜ広有が弧状の刃=雁又を抜いて射たか不思議がると、紫宸殿の屋根に刺さっては禁忌に触れると思ったと答えたのだった。

 

 鳥は、頭は人、身は蛇、嘴の先端が曲がって鋸歯、両足の蹴爪は劔のよう。羽根を広げると一丈六尺(4m85)あったとある。

 広有は褒賞を得、天皇から「真弓」の姓も賜った。おそらく、疾癘もやがては収まったのだろう。

 

 しかしながら、後醍醐天皇の新政は、わずか2年で崩壊。天皇は吉野へ逃げることになり、南北朝時代がはじまるのだった。

 

「いつまで いつまで」のなき声は、現代に引き付けても不気味である。

 

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 「御霊神社」(福知山)で見つけた怪鳥退治。こちらは剣で退治していた