ワルナスビから長之助草

 毒の実がなるナス科の外来種に、きっぱりと「ワルナスビ」と命名した日本の植物学の父、牧野富太郎は、偉人だが癖の強い人物として伝えられる。

 

 神田神保町のA書房の「100円本」で見つけた雑誌「本草」8号(昭和8年、春陽堂)に、牧野の文章が2本掲載されていたので、どんな風なのか確かめてみた。

 

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 巻頭の「アブラギクと其語原」は、油に漬けて薬用に用いた植物アブラギクに関するものだった。知識を披瀝し、世間の誤りを正そうという趣旨だった。

 

 まず、やり玉に挙がったのが、前年に出版された評判の辞典「大言海」の「アブラギク」の項。大槻文彦博士が、花の語源を「黄色ナルニツキテノ名ニモアルカ」(黄色なので油の名が付いたか)と推論していたのを、ターゲットとした。

 

「流石の碩学大槻先生も此アブラギクの語原に就てはタヂタヂの体で其れは実に不思議千万に感ずる、なぜならば吾々如き後輩の木葉武者でさへ之れが事実を知ってゐるのに此大先輩の御大将が一向其れに気が付かれないとは何んとマーどうした事乎」

 

 牧野によれば、アブラギクは寛政年間の「長崎聞見録」に出ている。「崎陽(長崎)の俗野菊」いわれ、油に浸して薬用にしたという。牧野自身、長崎でこの野菊を確認し、今では油に浸す代わり、乾燥させて「菊枕」にしている事実を報告している。

 

 「何んとマーどうした事乎」と、大袈裟に「御大将」の誤りを指摘する「木葉武者(こっぱむしゃ)」の荒くれぶりが伺える。

 

 掲載されたもう一つの文章は、読者の質問に答える欄。

 「問 一読者  彼の高山植物の一である長之助草は、実は木本植物であるから、それをチャウノスケサウと云っては良くないと誰かの登山案内の書物で見たかのやうに思ふがこの名はそんなに悪るいかご意見を承はりたい」

 

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 牧野は、長之助草は木本植物に違いないが、地に伏した小さな姿は如何にも草らしく見えるとして、「一二のイチガイな人を除くの外は、誰れも之れに異論を唱へた人はなく、長之助草と云って皆うなづいてそれで通って居るのである。世間の人は皆さばけて居て、長之助草の名をけなしつけるやうな融通の利かぬ野暮テンはあまり居ない」とケンカ腰の回答ぶりである。

 

草だ木だとイチガイにおっしゃる植物学者の御方へ御尋ねするが、もし長之助は木本だからサウ(草)と云って悪いと言ふなら、唇形科のミカヘリサウとイブキジヤカウサウとはどうでせう」と、草の名が付いていて、草と見るには大きすぎる植物をあげて反駁している。

 

 というのも、長之助草と命名したのが牧野自身だった。「長之助草の名は此珍植物を始めて我日本で発見して採集した、須川長之助氏の功績を忘れない為に、先に私が人情味を加へて発表した記念名であり」、その後に付けられた「大した深い意味をも含まないミヤマグルマの名を殊更に用ゐ、些細な点を言ひたてこだてして、人情を没却して居るやうなやり方は一向に穏当でなく、学者としてそんな行動は執りたくないネ。

 

 ミヤマグルマと命名して、長之助草に対抗している植物学者たちが当時いたようで、それを牽制、批判する「回答文」なのだった。

 

 チョウノスケこと、須川長之助は幕末の1842年生まれ。岩手県紫波町から函館へ出て、来日していたドイツ系ロシア人植物学者マキシモヴィッチと出会った。掃除、風呂番の仕事ぶりが認められ、同行して日本各地で植物採集。マキシモヴィッチ帰国後も採集を続けて資料をロシアに送った。長之助草は、立山で見つけたものだった。

 マキシモヴィッチは、彼の功績を認め、ミヤマエンレイソウに長之助の名を献名していた。(Trillium tschonoskiiaxim)。若いころ牧野は、この世界的な植物学者マキシモヴィッチに、採集標本を送り、新種と認められて、マルバマンネングサにSedum makinoi Maximという献名を受けていた。

 こんな献名の経緯と習慣があった上での、長之助草なのだった。いい話なのだが、それを「私が人情味を加へて」と臆面もなく言ってしまう処が、牧野富太郎の性格なのだろうか。

 

「ワルナスビ」は、牧野富太郎ならではの、直截的な命名なのだと納得した。

 

 

 

デルタ株とワルナスビ

 デルタ株の感染が身近に押し寄せている。

 濃厚接触者ではなかったが、念のため私たちもPCR検査にクリニックへ行ってきた。即日判定で「陰性」だった。

 

 少しホッとして休日の夕べ、散歩に出かけた。川べりに、また違う花が咲いていた。やや紫がかった白い花。葉を見て、細は「ナス科のようだ」といった。

 

 家に戻って確認すると、要注意外来生物に指定されている「ワルナスビ(悪茄子)」と判明した。6~9月が繁殖期とあり、時期もあっている。米国カロライナ州周辺の原産で、世界各地に移入し、駆除の対象になっていた。

 

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1)するどいトゲとソラニンの毒性

 茎のトゲと、ミニトマトに似た毒性のある実が、家畜を傷つけ、被害を与えている

2)作物に悪影響

 繁殖力が強く、畑作のナス、トマト、ジャガイモ、トウモロコシの品質を低下させ、連作の障害になっている

3)害虫テントウムシダマシ

 ナスの天敵テントウムシダマシ(ニジュウヤホシテントウ)の温床になっている

 

 日本には、牧草に混入して渡来、明治39年(1906年)、植物学者の牧野富太郎氏が成田三里塚御料牧場で発見した。「ワルナスビ」と命名したのも同氏だった(英名はHORSE-NETTLE=馬イラクサだが、「DEVIL‘S TOMATO」(悪魔のトマト)とも呼ばれている)。

 

 私が関心を持ったのは、3)だ。

 4年前、高野素十の「天道虫だましの中の天道虫」という昭和22年の句について書いた。

 益虫のテントウムシに姿が似ている害虫のテントウムシダマシ。テントウムシよりテントウムシダマシの方が多い情景を描いていた。

 

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 7星でなく28もの黒斑を背中に付けた、そのテントウムシダマシ(上写真は、原色昆虫図鑑」=昭和40年、集英社=の表紙)が、このワルナスビなどナス科の植物にとりついて繁殖していることが分かって興味深かったのだ。テントウムシダマシが、このワルナスビと結びつくとは。

 

 我が家の近くには、可憐な野草もあれば、人間に害を与えるものも生育している。人間社会にも似て、いろいろなものが雑居しているのだった。野草の世界も興味深いものがある。

 ただし、好奇心旺盛の孫と散歩する時は、ミニトマトに似た毒の実と、鋭いトゲには、要注意だと思った。

 

南瓜と日まわりの花

 南瓜のことを調べていたとき、レシピで「かぼちゃもち」を見つけ、自分で作ってみた。レンジで温めた南瓜をつぶし、片栗粉を混ぜて練り、分けて焼くだけだ。食べると予想以上に満腹感があった。

 

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 そんな折、三好達治の詩集「朝菜集」で、南瓜の花が出てくる「黎明」という詩を見つけた。三好は、黄色の南瓜の花を「ランプ」に例えていた。

 

二つ四つ 砂上に咲いた南瓜の花

 これらのランプを消し忘れて 夜はどこへいつたか

 川の向うへ 夜は貨物列車とともに

 トンネルにかくれてしまつた」(黎明)

 

 「夜」を擬人化した詩に、南瓜の花を登場させ、明け方に咲く黄花を、夜が消し忘れたランプだというのだ。

 

 実際、南瓜の花は、6、7月の明け方5時ごろ開花し、10時には萎んでしまう早朝の花なのだった。ほの暗い未明に黄の花を咲かせる南瓜が、消え残ったランプの印象をあたえても不思議はないのだった。

 

 「砂上に咲いた南瓜の花」という箇所にひっかかった、砂上で南瓜が生育するものかと。JA札幌のホームページに、「大浜みやこ」という砂地で育てた自慢の南瓜が紹介されていた。水はけがよく、一日の寒暖差が大きい砂地の特性を生かすと、粉質、糖度が優れた南瓜が出来るのだという。詩の中の、痩せた砂上の南瓜もまた、実れば糖度の優れた作物になるのだ、と思った。

 

「二つ四つ」と表現された南瓜の花の数は、雄花、雌花があるため、二つ三つでなく、あえて「対」となる偶数で、詩人は花の数を表現したようだ。残念ながら、雄花が先駆けて咲きだす、実際の生態とは違っている。

 

 言葉択び、音韻の配慮のある他の詩作とは違うが、それでも詩人は、花をよく観察していると思った。

 

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「朝菜集」(昭和21年、青磁社)には、ヒマワリの花を描いた「日まわり」も収録されていた。

 

 「日まわり 日まわり

  その花瓣の海

  その蕊(しべ)の陸(をか)

  若かりし日の 夢の總計」(日まわり)

 

 たった、これだけの詩だが、私は詩人が太陽の花ヒマワリに、「海」と「陸」を発見していることに驚いた。(「夢の総計」は分かりづらいが、海と陸に対する詩人の若き日の夢を、全部持ち合わせている花への賛歌と解釈した)

 

 花弁を、海の波に見立て、茶の丸い蕊を、花弁の海に囲まれた陸地と見る。

 詩を愛好する人たちは、とうに読んで知っていたのだろうが、ひまわりを見て太陽しか思い浮かばない私には、今更の驚きだった。 

 単なるひまわりのことに過ぎないが、詩人の感性を若いうちに理解できていたら、もっと豊かな時を過ごせたかもしれない、と来し方を振り返って想った。

 

 

「土」とカボチャの雌花

 盆の休みを家で過ごす。夕方、近くの川沿いを歩くと、オシロイバナが道端に咲いていた。黒い実もなっている。私は都内で育ったが、オシロイバナが咲くころ、子供たちはこの実を集めて数を競った。さらに、実を爪で割って中の白い粉を集め、鼻に白い線を塗って、「おしろいだ」と遊んだものだ。スマホもゲームもないころは、こんなことで子供たちは時間を潰していたのである。 

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 私はオシロイバナに交じっていた蔓植物に関心を持った。緑の袋がいくつか蔓についていて、見知らぬものだった。細は、「フクロカズラ」だと言い当てた。

 さらに、フクロカズラに巻き付かれている小さな紅紫の五弁花に目が行った。かわいい草花だ。「名は分からない」という。

 

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 家に戻って、調べてみるとハゼランという1年草だった。

 

 オシロイバナ 南米原産 日本には江戸時代初期に渡来

 フクロカズラ 豪州など熱帯アジア原産  渡来時は不明

 ハゼラン   西インド諸島原産 明治時代初めに観賞用として渡来

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 それぞれ草には来歴があって、今たまたま、うちの近所で絡み合って生えているのだ、と知った。

 

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 花と言えば、古書肆から届いた長塚節「土」の昭和16年版。表紙は蛙だが、裏表紙は南瓜の花が描かれていた。

 調べると、南瓜には、雄花と雌花があるのだった。農家はもちろん、家庭菜園で南瓜を栽培している人たちにとっては、当たり前の、常識らしい。

 

 南瓜は、初めに雄花が咲き、雌花は後になって咲く。受粉させないと収穫が出来ないので、雄花、雌花の観察は大切なのだった。南瓜は雄花ばかりが咲いて、雌花が咲かないことがあるからだという。肥料がききすぎたり、生育がよすぎると、蔓が数メートルに伸びても、雄花しか咲かないことがある。

 

 中川一政画伯の南瓜の絵はどうか。花の真ん中に5つのしべの頭部がくっきりと描かれていた。雄花はしべは一つ、雌花はしべが多数。雌花であることが分かった。画伯は雌花を択んで描いたのだろう。 

 そう考えると、雌花は、小説の主人公一家の、けなげな長女「おつぎ」の化身のように思えてきた。

 

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 改版本の序を書いた歌人斎藤茂吉は、ズバズバと物言いをする人だわかった。「土」の表現はさかのぼれば、正岡子規の写生文であり、丹念にくどく描写する子規の教えにそって長塚は書いたので「露はな哲学も無ければ、勇壮なイデオロギーも無く、鮮やかな筋の発展もなく、ねちねちと終った小説である」。

 そのため、掲載された東京朝日新聞の読者からも難癖がついた。「それでも読者は今に至るも絶えずに続いてゐる」。あの辛口の「正宗白鳥氏の如きも、この「土」を棄て去ることをしない。」さらに近時、評価は高まるばかりだ、と。(白鳥は「『土』は明治文壇の傑作」と書いた=「作家論」)

 

 茂吉はその理由を考えて、「『土』の作者は晩年に日本美術の気品と永遠性とを説いたが、この『土』では決してさういふことを説いてはゐない。けれどもおのづからにしてその実質を得て、荘子漁父(ママ)篇に謂ふ、「真を守る」の境界上にゐるのではなからうか」。

 悩める孔子に問われ、漁夫が返した生き方、それに通じる世界が小説に描かれているからではないか、と茂吉は考えた。

 長塚の周辺にいた画家たち、平福百穂小川芋銭そして森田恒友のたどり着いた「新南画」の世界。私は、それが老荘の境地とは思わないが、長塚のこの写生小説にも、画家たちのその境地が反映していると、茂吉が感じ取っていた事実はとても興味深い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

蛙の装幀

 五輪女子ボクシングで金メダルを獲った日本の大学生が、「カエル」が好きだというので興味を覚えた。

 長塚節「土」を調べていて、昭和16年に改版された春陽堂の単行本の表紙が「蛙」の絵に変わったのに気づいたところだった。装幀、絵は平福百穂とも縁のある画家中川一政だった。

 

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 明治45年に豪華な装幀で「土」を出版した春陽堂だったが、大正12年の関東大震災で本社が倒壊する被害にあった。

 他の出版社も打撃を受け、震災後の復興を目指す出版界は、改造社が円本ブームで先鞭をきり、春陽堂も文庫本を発行し廉価本へ舵を切った。

 戦時色が濃くなった昭和16年に改版された「土」は、斎藤茂吉の序も加え、小説の内容に即し、落ち着いた茶(土の色)の蛙の絵の装幀に衣替えしたのだった。

 

 蛙の描写は、「土」の6章の初めに出てくる。

 

紺の股引を藁で括って皆田を耕し始める。水が欲しいと人が思ふ時は一斉に裂けるかと思ふ程喉の袋を膨脹させて身を撼がしながら殊更に鳴き立てる。白いやうな雨は水が田に満つるまでは注いで又注ぐ。鳴くべき時に鳴く為にのみ生れて来たは苅株を引っ返し引っ返し働いて居る人々の周囲から足下から逼って敏捷に其の手を動かせ動かせと促して止まぬ。がぴったりと聲を呑む時には日中の暖かさに人もぐったりと成って田圃の短い草にごろりと横に成る。更にはひっそりと静かなる夜になると如何に自分の聲が遠く且遥に響くかを矜るものの如く力を極めて鳴く。雨戸を閉づる時の聲は滅切遠く隔ってそれがぐったりと疲れた耳を擽って百姓の凡てを安らかな眠りに誘ふのである。熟睡することによって百姓は皆短い時間に肉体の消耗を恢復する。彼等が雨戸の隙間から射す夜明の白い光に驚いて蒲団を蹴って外に出ると、今更のやうに耳に迫るの聲に其の覚醒を促されて、井戸端の冷たい水に全く朝の元気を喚び返すのである

 

 田植えに精出す農民の近くで、声援を送るかのように鳴く蛙を描いている。

 「『土』の六の一は、蛙の描写故ゆっくり御一読被下度希望仕り候」(明治43年6月29日付、胡桃沢勘内宛)と、新聞掲載中に長塚は、筑摩在住の歌人に手紙を書いている。

 

 中川一政画伯の蛙は、鳴く蛙ではないが、愛嬌を失わず逞しい姿で描かれ、見事である。

 

 話を初版の装幀に戻すと、「長塚節全集 第7巻」の書簡2には、長塚の装幀に対する熱い思いと、自分なりの強い要望が伺える平福百穂宛の手紙があった。

 長塚の注文に、装丁者百穂も手を焼いたのではなかったか、といささか同情した。

 

 要望を要約すると。

 

  • コッテリとしたデザイン

  装幀意匠は「成るべくコッテリとしたものを希望仕り候」。「自叙伝の表紙のやうに、色彩が如何にも引き立たず影うすき感じのものにては、どうも心持悪くて仕方なく候」

 

漱石さんの「門」は背にばかり文字を現はして、表面には一字も無之候由、意匠次第にて此も面白かるべき存ぜられ候」

 

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  • 作者による題字

「近来作者自身筆を執ることも流行のやうに候へば、時宜よっては小生認(したた)め候ても宜しく候」

 

  • 金字の華やかな背表紙

 「近来籾山(書店)から出るものは背を思ひきってはなやかにして、そこへ金字で現はし候が、それも御参考被下度候」

 

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「門」の装幀は、橋本五葉(漱石の「猫」から「行人」まで装幀)が担当した。明治44年に発行された籾山書店の「刺青」の装幀も、橋本五葉。長塚は、なんと、アール・ヌーヴォー調の五葉の装幀がお気に入りだったのだ。

 

 結局、春陽堂の意向に沿いながら、百穂は百穂ならではの装幀を完成したのだった。

 

 出来上がった本の感想を、長塚は手紙で百穂に伝えている。

 

「扉の如きは色の配合極めておもしろく存じ候 表紙は本屋がもっと銭をかけ候はば引立」っただろう。しかし「小生には此だけにて近来出色のものとして十分の敬意と満足とを表し申候。古泉君(千樫)から葉書参り、箱の赤きものも枇杷の色も表紙も扉も何もかもうれしき由申来り候 小生も嬉しく存じ申候」

 

 満足をし、感謝しているのだった。長塚が生きていたとしたら、一政の装幀についてはどう思ったろう。

 

 

 

 

オダマキと枇杷

 日本画平福百穂が描いた、長塚節「土」(明治45年、春陽堂)の扉絵の、紫の花を、細に見せた。開口一番「オダマキ!」。意外な答えが返ってきた。

 

 WEBでチェックすると、オダマキに見えないこともない。

 

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 日本に生息するオダマキは、ミヤマオダマキ、ヤマオダマキの2種類。

 ミヤマオダマキは、「高山の礫地に生える高さ10~20㌢の多年草」「鮮やかな青紫色の花を下向きに開く」「庭に栽培されるオダマキは本種の改良種と考えられている」と、「日本の野草」(山と渓谷社、1983)に記されていた。

 

 歳時記で調べてみると。

「をだまきの花」は、初夏の季語。

「晩春から初夏にかけて咲く花で白に黄を帯びた花と、藤紫の花とあるが何れも美しく上品である。葉も淡緑の複葉で切込みの深い形も美しい」

「又田植のころの農家の庭などに咲き垂れてゐるのを見かけるがどこか鄙びた感じである」(「新編歳時記・水原秋櫻子編」大泉書店、昭和41年)

 

 をだまきや山家の雨の俄かなる    秋櫻子

 をだまきに植ゑのこる田の夕あかり  柯城

 

などの句が掲載されていた。

 

 田植の頃の農家の庭に咲いているオダマキは、明治の外来種のセリバヒエンソウより、小説「土」には、ふさわしく思える。

 

「土」の装幀には、もう一点植物の版画がある。函の背に描かれた果物。葉の形を見て、枇杷の実に違いない。

 

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 手がかりを求めて、近くの図書館で「長塚節全集第6巻・書簡1」を借りた。

 

 「明治四十一年六月二十六日」、節から平福百穂宛のものに、枇杷に触れた個所があった。 

只今六月の末にて枇杷の漸くうまく相成候こととて、往年の筑波行を思ひいで申候 但し枇杷は年々なり申候へども、あの時ほど余計になり候ことは前後に無之候

 

 6月末になって、わが里(常総)にも枇杷がようやく実ってきて、往年(5年前)一緒に出かけた筑波の旅行を思い出しました。枇杷は年々なるものですが、あの時の有り余るほどの豊作は、後にも先にもないことでした。

 手紙の末に、二首添えていた。

 

 さみだれのふりのまにまにつややかに枇杷は熟せり無花果はまだ

 おほさはにならぬ枇杷の樹ことしだに君来といはばなりにけんかも

 

 今年も枇杷の季節となったが、あの年ほど豊作でない。しかし百穂が訪ね来てくれれば、枇杷もたわわに実がなるかもしれない。

 

 明治36年伊藤左千夫を交えた3人の筑波旅行は、豊作だった枇杷の思い出とつながっていたのだった。枇杷の絵は、単なる枇杷ではあるが、彼らにとっては、思いがこもった枇杷であることが分かる。

 

 

 

 

「土」の装幀をめぐって

 長塚節「土」の復刻版を古書肆から取り寄せた。明治45年の春陽堂の箱入り菊版上製を、1984年に復刻したものだ。目に付いたのはー。

 

  • 美しい装幀
  • 色違い(代赭色)でより大きな活字で組まれた夏目漱石の序
  • 装幀のイメージとは全く違う、延々と続く茨城の貧農一家の救いのない内容

 

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 装幀は、長塚の知友の日本画家の平福百穂が手掛けたものだった。秋田・角館出身の百穂は、正岡子規の弟子伊藤左千夫の門を叩き、伊藤、長塚とともに、子規の流れの写生の歌を作っていた。「馬酔木」同人となった明治36年には、左千夫、節と3人で筑波山登山、豪農だった節の実家(現・常総市)に宿泊している。そんな間柄だった。

 

 その当時百穂は、電報新聞の挿絵画家で生計を立てていた(カメラマンが出現する前は、画家が現場へ行ってスケッチしていたのだった)。日刊平民新聞、風刺雑誌団々珍聞とその後も挿絵画家の仕事を続けた。

 

 「土」に戻ると、この作品は明治43年、夏目漱石長塚節に、東京朝日新聞の連載を依頼したもので、156回に及ぶ長編となった。同社の主筆池邉義家が、単行本化を勧め、2年後に春陽堂からの出版が決まった。

 

 装幀を百穂が担当したのは、長塚に頼まれたからだろう。明治初めに設立された出版社の春陽堂は、創業者の和田篤太郎が表紙や挿絵に、美しい木版画を用いることを好んだ。単行本の多くは、函入りの豪華なもので、色鮮やかな表紙を売り物にしていた。

 

 百穂は、春陽堂の意向に沿って、美しい絵を描いたのだった。函は臙脂の鮮やかな色。表紙から背へ、花の木版画。枝葉の緑、花の朱のコントラストが美しい。

 

 本が届き、猫と一緒に眺めていると、細が「きれいなホウセンカ!」と声をあげたので、「ああ、花はホウセンカなのだ」と気が付いた。

 

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 百穂にとって、30代前半に手掛けた「土」の装幀は生涯忘れがたいものだったようだ。

 4年後の大正4年に35歳で没した長塚の葬儀に在京の友人代表で参列した百穂は、三周忌に次のような歌を作った。

 

 いのちこめて此世に残しし一巻の「土」をし見ればただに哀しも

 

 縮刷の「土」の表紙の鳳仙花君も宜(うべ)なひしその鳳仙花

 

 表紙の花はやはり「鳳仙花」だった。その花の選択を、長塚も「宜なひし」、賛成し納得してくれたことがうかがえる。

 

 鬼怒川西岸の貧農の「涙さへ出されない苦しさ」(漱石)が、延々と続く写実小説に、新聞掲載時から批判の声があった。漱石は、序「土に就て」で、

「余がかつて「土」を「朝日」に載せ出した時、ある文士が、我々は「土」などを讀む義務はないと云つたと、わざ/\余に報知して來たものがあつた。」

 

 漱石は坊ちゃんの主人公のように憤る。

「其時余は此文士は何の爲に罪もない「土」の作家を侮辱するのだらうと思つて苦々しい不愉快を感じた。理窟から云つて、讀まねばならない義務のある小説といふものは、其小説の校正者か、内務省の檢閲官以外にさうあらう筈がない。わざ/\斷わらんでも厭なら厭で默つて讀まずに居れば夫迄である。」

 

 そして、自分は娘に読ませたいと書いている。

「「土」を読むものは、屹度自分も泥の中を引き摺られるやうな気がするだろう。余もさう云ふ感じがした。或者は何故長塚君はこんな読みづらいものを書いたのだと疑ふかも知れない。そんな人に対して余はただ一言、斯様な生活をして居る人間が、我々と同時代に、しかも帝都を去る程遠からぬ田舎に住んで居るといふ悲惨な事実を、ひしと一度は胸の底に抱き締めて見たら、公等の是から先の人生観の上に、又公等の日常の行動の上に、何かの参考として利益を與へはしまいかと聞きたい。」

「余の娘が年頃になって、音楽会がどうだの、帝国座がどうだのと云ひ募る時分になったら、余は是非「土」を読ましたいと思って居る」

 

 百穂は、画家森田恒友が亡くなった昭和8年、「アトリエ」の恒友追悼号で、次のように語っている。

 

 「かつて、長塚節が、朝日新聞紙上に「土」と云ふ小説を連載した当時、私の知人には小説家でない人が長編をかいて、いかにも土臭くて小説としてはどういふものなのだらうかと云ふ風に云ってゐた人もありましたが、森田君は非常に感激して、茨城を中心とするその自然と人生への鋭い観察に対して、感想をかかれたことを私は記憶してゐます。長塚君も森田君のその文を見てひどく感激して私を訪れ、その頃の森田君の住んでゐた小石川のうちに一緒にたづねて、初めて対面しそれから長塚君との心からの交はりがつづいたのでした」

 

 小石川の家ならば、恒友が大阪の新聞社を辞めて帰京し、渡欧の準備をしていた大正元年―同3年。この時期、2人に親交があったのだった。しかし、恒友の渡欧中に節は亡くなった。

 百穂は「今はこの二人もすでに世を去って、私にとっては誠に寂しい気がしてなりません」(「森田君を想う」)。

 

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 百穂が描いた「土」の扉絵は、紫の花。WEBで調べると、芹葉飛燕草(セリバヒエンソウ)に似ている。中国原産で、明治時代に渡来し、東京中心に分布した花だという。百穂が目にしていた可能性は高いが、はて。