未乾画伯の装幀本と鯖姿寿司

 京都の洋画家・船川未乾(ふなかわ・みかん、1886-1930)装幀の古書が届いた。

 大正10年に刊行された川田順の歌集「陽炎(かげろう)」。大分色あせている。

 

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 昭和4年に改訂される前のもので、表紙が桃色のグラデーション、裏表紙が水浅葱。裏表で、配色の際立つものだった。

 

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 ともにクローバーらしき三つ葉と花がシンプルにデザインされ、白く浮き出ている。見返しも、水浅葱の地に白のクローバー。

 

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 歌人の川田は、前に西行の研究家として触れたが、住友総本店の重役になった企業人だった。住友に入社して経理畑で仕事をしていた川田が、一高、東京帝大の学生時代に作った短歌をまとめたものが、この「陽炎」。歌集「伎芸天」につぐ第二歌集だった。

 川田は、東京府立城北中の生徒のころから、神田小川町歌人佐佐木信綱宅で短歌を教わっていた。信綱は、短歌結社竹柏会を組織し、機関誌「心の花」を発行。有望な新進歌人の作品を「心の華叢書」として順次発行した。

 川田の「伎芸天」は大正7年に出版され、5版まで重版されていた。「陽炎」以前に刊行された叢書は16冊あったが、重版は4冊きりで、5版は柳原白蓮の「踏絵」と「伎芸天」のみ。世間の注目を集めた白蓮に負けないくらい、川田の作品がよく売れたことが分かる。有島生馬の渾身の装幀だった。

 

 2作目の装幀を未乾が担当したのだった。あとがきの最後で、川田は「恩師佐々木先生の御芳志と、装幀をして下された京都の洋画家船川未乾氏の御骨折りとに対し、一言御礼申し上げて置く」と書いている。「伎芸天」では、「有島生馬君が、多方面の創作に暇なき貴重の時間を割いて、特に此小冊子の為め装幀の労を取られたことに対しても同じ深い感謝の念を捧げる」と述べているのに比べて、淡白な謝辞に見える。

 未乾起用は、川田が指名したのではなく、竹柏会出版部が決めたような書き方に思える。

 フランス留学を前にした京都の未乾画伯は、東京では殆ど知られていなかった。京都で京都帝大の哲学科の教授たちが若き画家を支援していたのは、前に触れた通り。そのなかの中心人物が朝永三十郎教授(ノーベル賞受賞・朝永振一郎氏の父)。

 実は、同氏の甥にあたる朝永研一郎氏が、佐佐木信綱の長女と結婚していたのだった。東京・日本橋の竹柏会出版部が、京都のまだ無名の画家を起用した理由は、朝永三十郎氏が甥を通して未乾画伯を推薦したためではなかったか。未乾をそれほど応援していたのだと。

 

 昭和4年の「陽炎・改訂本」で、川田順は装幀も一新した。表紙は、椿の花三輪。落ち着いた表紙、無難な表紙といったらいいか。

「笹川愼一 装幀」と目立つように印刷されている。住友工作部の建築意匠技師、建築家の笹川氏が装幀したと思われる。川田は、会社の仲間に依頼したのだ。

 

いづればまづ啼く鳥のよろこびと君を見いでし我がよろこびと」 

 

 巻頭のこの歌に象徴される、歌集に散らばる恋歌に応えて、未乾は装幀したのだろう。

 

 川田は、改訂本では、巻頭の歌も次の歌に変えている。

 

吉野山ひとむら深く霞めるや大みささぎのあたりなるらむ

 

 吉野山辺りの御陵を望む風景を歌ったものだ。

 

 大正から、昭和へ時代の空気は変わった。川田は歌集の改訂で変化に反応し、装幀も一新したのだろう。生馬の装幀の「伎芸天」も改訂本で、笹川のものに代えた。

 

 未乾は、学術書の藤井乙男「江戸文学研究」では、思いがけない明るいトンボのデザインの装丁をし、経済界の重鎮の歌集に、少女の好むような淡い色使いで装丁する。なにか、画伯のいたずら心のようなものも感じさせ、もっとこの画家のことを知りたくなる。

 

 欧州留学に同行した未乾の夫人は、京都・東山の鯖姿寿司店「いづう」の娘さんだった。天明元年(1781)創業。ちょうど、俳人・西村定雅が「はなこのみ」を刊行した年にあたる。定雅、土卵らが東山で活躍しだしたころ、鯖寿司の商いを始めたのだった。祇園界隈の花街や町衆の間で評判になったというから、花街の睟人で通った定雅も土卵も、この店の鯖寿司を口にしていたに違いない。

 

 

 

 

 

 

定雅、土卵と馬琴の交流

 戯作者瀧澤馬琴の長男の妻、路の愛猫ぶりに触れたが、江戸時代後期、江戸の馬琴と京の洒落本作者の交流はあったのだろうか。ふと気になった。

 

 調べてみると、馬琴は81歳の生涯でただ一度、京都に旅していた。享和3年(1803)、36歳の時だった。

 京都には都合24日間過ごしたが、この間、京都の俳人で洒落本作者の西村定雅(当時60歳)や、富土卵(同44歳)と会っていた。

 馬琴は、この旅行で得た情報、知識を「羇旅漫録」(享和3年刊)に記していて、それに2人の名前が出てくるのだった。

 

 馬琴は、定雅から聞いた話として、「嘘譚の名人」を書きとめている。

 

斎藤文次 (元御所官人日向介、四條高倉に住す)といふ人、虚談をもてよく人をわらはしむ。去年七月高槻の町にて、色情の遺恨をはらさんため、盆をどりにて群集せし夜、七十人ばかり人をあやめたることのあり。

 享和2年夏に、高槻で色恋沙汰が原因で、盆踊りで70人が斬られる事件があった。この刃傷沙汰は、京でも話題になり、尾ひれがついて取りざたされた。

 

 文次は、もっともらしく、≪昨日高槻の縁者のもとに行って喧嘩の話を聞いたけど、けが人は3人だけ、事実はこんなものだ≫と断言した。

 話を聞いた友人らは、確かに70人は多すぎると、文次の話に納得した。

 ところがその翌日高槻から人がやって来た。喧嘩の話を聞くと、「けがしたのは確かに70人」であることが判明。文次がまた嘘をついたと、「衆絶倒す」。皆笑い転げたという。

 この文次は以前、正月に世上詩歌管絃なるものを開催し、自分は嘘のつき初めをする。1月11日午時に、拙宅にこぞって来るように案内した。友人たちは、文次の初嘘に興味をもって四条高倉へ足を運ぶと、奥さんが飛び出して来て、文次は朝から出ていって留守ですよと答えた。騙されたと知って、「衆絶倒す」。皆また大笑い。

 

 馬琴は最後に、「西村定雅話、文次今猶高倉にあり」と付記。定雅から聞いた話で、文次はまだ高倉で暮らしていると書いている。

 

 そんなに面白い話ではないし、面白い嘘でもない。嘘つきが元御所官人というのがミソなのだろうか。とにかく、戯作作家と洒落本作家が、たわいない話を交わしていたのだった。

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 富土卵は、「せんず万歳」の項で「土卵」の名が見える。「羇旅漫録」だけでなく馬琴の「蓑笠雨談」でも同じような内容が出てきて、それにも土卵の名がある。

 馬琴は、怪奇物を得意としただけに、神々やら民俗風習に関心を持って、取材していたようだ。「龍頭太(りゅうとうた)」という稲荷大明神縁起に出てくる山の神について記した項の後に、民俗芸能の門付芸「せんず万歳」について触れ、「真葛が原の土卵(北面東□□ 左近衛将監)子の話に」と、土卵の名前が出てくる。(□は読めなかった)

 

 正月の三河万歳の源流とされる「せんず万歳」に馬琴は関心があったらしい。土卵から「せんず万歳ハ(は)千秋万歳の秋をずとよむべし」と聞いた話を記している。

 秋を「ず」と読み、「千寿万歳」でなく「千秋万歳」なのだと語る土卵を、馬琴は、物知りとして信用しているようだ。

「蓑笠雨談」には、更に詳しく「くわしくは千秋万歳法師といふべし」「大和ノ国窪田箸尾乃両村より出復」「三河万歳は別派」と記されている。これも土卵からの教示かもしれない。

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「京都に来る万歳は大抵大和万歳だけ」で、「太夫は扇、才蔵は鼓で両人素袍、壺袴、侍烏帽子の扮装で来たものである」「田植舞、夷誕生、鳥なし十二月舞等があって、所々滑稽を交へるが、品のよいもの」だったと、大正11年に刊行された江馬務「日本歳時史 京都之部」には、大和万歳について書かれていた。残念なのは、「正しくは千寿万歳」と江馬は記していて、「千秋万歳」だという富土卵、瀧澤馬琴の指摘が生かされていないのだった。

 

 馬琴は、京都の秋の虫の音を聞く名所について、記していて、

虫ききには、真葛が原よし。嵯峨は野々宮辺尤もよけれど、道遠ければわづらはし。」 と、遠い嵯峨野・野々宮神社あたりより、土卵の暮らしていた真葛が原を勧めている。実際、真葛が原を散策し、双林寺界隈に住む土卵を訪ねたように思われる。

 

 

江戸後期の猫薬と瀧澤路のこと

 江戸後期の天保13年(1842)に刊行された犬の飼育法「犬狗養育法」(暁鐘成)をwebで読んでいたら、大阪心斎橋にあった「清水堂滄海堂」が販売する犬の薬が各種紹介されていた。

 その中の「柔狗強壮散」は、文字通り、柔な(虚弱体質の)犬を強壮にする薬で、痩犬も肥え、臆病を直し、悪い毛色を艶のある美しくものにするという触込みで、「矮(ちん)狗(いぬ)猫ともに用いてよし」と書いてあった。猫にも服用できる薬なのだった。

 

 江戸後期の猫の薬を調べると、瀧澤馬琴の長男の妻、路(みち)の日記にも、猫薬が出てくることが分かった。よく知られている話らしい。

 

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 正月早々、「瀧澤路女日記」(中央公論)を取り寄せて、目を通してみた。

 

 路は、医師の娘で、夫の馬琴の長男宗伯も医師だった。路は、夫に先だたれたが、失明した晩年の馬琴のため、口述筆記の手助けをしたしっかりものだったようだ。馬琴没後も瀧澤家の日記を書き続け、その中に、愛猫のことが出てくるのだった。

 

 猫が初めて登場するのは嘉永2年(1849)7月22日の日記。馬琴が亡くなった前年、江戸の家(四谷信濃仲殿町)に猫が迷い込み雄猫を生んだ、その子猫が路の愛猫となった。

去年五月迷猫の産候 同六月十二日出生の男猫、仁助と名づけ候猫、太郎不快ニ付、無拠外ニ遣し度の所、幸宇京町ニのろと申御番医方ニて望候由ニ付、遣ス。

是迄秘蔵致ゆへ、誠ニふびんニ存。いくゑニもおしまれ候へども、右猫有之故ニ太郎大長病可成候ニ付、遣し候物也

 猫の名は、仁助。可愛がっていたが、長男の太郎の病気が長引き悪化するのは、猫が原因の一つのようなので、貰ってくれる医者に不憫ながら引き取ってもらった。

 

 太郎はその年に亡くなってしまった。猫も瀧澤家に戻って来た。

 

 嘉永5年閏2月10日に、3歳半になった猫仁助は、具合が悪くなり、家を出たまま帰らなくなった。同13日の日記。

猫仁助十日より不快ニて終日不食の所、夜中何れへか罷出、今日迄不帰。右ニ付、死したる事と存、死骸を所々尋候所、何れニも見え(ず)、打捨置候所、昼後門口へヒヨロヒヨロと出、たらいニ有之候水をのまんといたし候所、吉之助見出し、早速抱入、あかがねの粉と硫黄をのませ、むき身・食物あたへ候へども、一向食無之…」

 10日に具合が悪くなって出て行った仁助は数日たっても戻らないので、路は死んだと思い、近所を探すが見つからない。猫は4日目に門に戻って来て盥の水を飲もうとしていたので、家に入れ、銅の粉、硫黄の漢方薬をのませたが、なにも食べない。二女の幸が猫を蒲団に横たえたが、ただ息をしているだけだった。

 

 翌日、路は、猫の薬を買いに行く。

 14日の日記「尾張様御長家下ねこ薬買取参り候所、売切候由ニ付、いたづらに帰宅。

 猫薬を求めて、尾張藩屋敷辺まで買いに出たが売り切れで、成果なく帰宅する。「御長屋下」が上屋敷(市谷)、中屋敷(麹町)、下屋敷(戸山)のいずれなのか私にはわからない。

 日記には続けて、夕方、大内氏が猫の見舞いに来たこと、路が神頼みで、水天宮の守札の一字を切り取り、水に浮かべてのませようとしている。猫は水も飲まない。

 

 15日に、路は朝家に来た伏見氏に、猫に効く薬はないかと尋ねると、同氏は夜7時に現れ、下町を探し回ったが猫薬は見当たらなかった。ただ、通新石町の薬種店主人に「猫毒ニあたり候ハバ烏犀角可然候」といわれたと、「烏犀角」を持ってきた。早速、仁助に「半分程用之」。この日も不食だったが、「水を少々呑」。

 

 16日、路は朝、昨日の残りの「烏犀角」を猫に与えたあと、豊川稲荷の参詣へ出、途中医師の順庵に相談すると、昼過ぎ、順庵は「仁助薬持参被致、直ニ用され候也。」と薬を持参して処方した。薬の名は書かれていない。この日も、猫は「不食で水少々を呑」

 

 17日、「猫仁助、種々薬用候験ニや、昼後大便少々通じ、然ども食気なし。」と路は、薬が効いたか、仁助が快方に向かっていることに気づく。

 

 18日、「猫仁助昼時頃又大便通ズ。此故ニ少々食気出、むき身を少々食ス。夜ニ入飯を少々食。先順快成べし」。

 19日ついに「猫仁助順快、今日迄十日絶食の所、今朝飯をくろふ。」と無事回復したのだった。

 

 日記を読むと、

①江戸でも尾張様御長家下などに、猫の薬を扱うところがあった。

②医師順庵が、成分は分からないが猫薬を届けに来た。

③下町の薬種店は、猫に漢方薬の「烏犀角」を勧めた、

ことが分かる。

 ③の烏犀角は、犀の黒い角の漢方薬で、子供の解熱や、疱瘡のほか、毒下しに効くとされた。「猫毒にあたり候ハバ烏犀角」と薬種店の主人がいったわけは、子供の毒下しに効くからには、猫の毒下しにも効くと判断したためと想像される。猫の薬として、「烏犀角」があったわけではないようだった。

 尾張様御長家下やら、順庵殿の猫薬については、謎が残る。江戸にも確かにあったようだが、猫の薬については、当時は大坂の方が進んでいたことが伺える。

 

 それにしても路の介抱ぶりやら、猫の見舞客やら、江戸後期の人たちの猫愛に驚かされた。

 

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 私がこんなことを調べている最中も、わが家の猫は、岩合さんの猫歩き・長崎編を、開始から最後まで、1時間見続けているのだった。

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画から飛び出さない也有の猫

 江戸時代、動物を描いた画の褒め方に、絵から飛び出て本物の動物に変わるというパターンがあったようだ。

 

雨月物語」(1776年刊)には、三井寺の僧興義が臨終に際して、紙に書いた鯉の絵を琵琶湖に散らすと、鯉が泳ぎ出した、という話(夢応の鯉魚)が出てくる。

 

 落語の「抜け雀」は作られた時期は不明だが、旅籠に泊まった絵師が襖に描いた雀たちが朝になると、本物の雀になって飛び回るというものだ。

 

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 江戸時代の尾張俳人横井也有(1702-1783)の「うづら衣」を読み、猫の絵について書かれた一篇「猫自画賛」を見つけた。それに関連する記述があった。

 

「昔し金岡が書たる萩の戸の馬はよるよる萩を喰あらしたるとか」

 

平安時代、画家巨勢金岡が描いた京都御所清涼殿の萩の戸の馬は、夜な夜な絵から抜け出て萩を食い荒らしたという≫

 

「古今著聞集」(13世紀前半)に収録されている絵師金岡の説話のことだった。同集には、清涼殿の話のほか、金岡が仁和寺御室に描いた馬の話も掲載されていて、やはり絵から抜け出して、近辺の田を食い散らかした話が掲載されている。

 

 金岡の話がもとになって、別の絵師にも当てはめて、江戸時代に流布したのだろう。京都の光清寺弁天堂の絵馬の猫は、夜な夜な抜け出して三味線に合わせて踊ったとか、修学院の中離宮の板戸の鯉の絵=写真=が夜になると庭の池で泳ぐので、円山応挙が網を書き足して防いだとか、いまでも伝説が沢山残って居る。

 

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「猫自画賛」に戻ると、俳人の也有は、こんなうまい絵は困るはずという。

≪もし能書の筆で、四条河原の涼みの図、清水寺の花見の景など人出で賑わう屏風襖絵を描かれたら、あまたの人が夜ごと出て来て、飲み食いする。その経費が続かなくなりますよ≫

 

 也有は、棚の上の小襖に何か描いてほしいと頼まれて、鼠除けの猫を描いたのだった。もちろん、絵から猫が飛び出す心配はない。だが、猫だと分かってもらえるかと心配する。

 

つたない筆の虎を描いては必猫なりとわらはるればわれ又猫をうつさば虎にも似るべきを杓子には小さく耳かきには大きいと柿の木の昔話ならん

 

 虎を描くと猫だと笑われる、それなら猫を写生すれば虎に似るかといえば、柿の木の昔話にあるように、杓子には小さく、耳かきには大きい中途半端な、虎でもなく猫でもないものが出来てしまう。

 

≪しかし、鼠にも賢愚いろいろで、大黒天の使いの賢い白鼠は、私の絵を相手にしないだろうが、心が鬼のような悪い鼠は、落ち武者が薄の穂の揺れを見て人ではないかと恐れるように、こんな私の絵でも猫だと思って震えて見てくれるだろう≫と、自作の猫の絵に期待する。

 

 締めくくりは、牡丹(廿日草)と廿日鼠をかけた駄洒落で、あまり面白くないので略。

f:id:motobei:20211222184547j:plain也有(尾張藩重臣だった)

 

 動物が絵から飛び出す話は、中国が源流なのだろうか。黄鶴楼の仙人の話を思い出した。仙人は、ただで飲ませてくれる酒屋に感謝して壁に鶴の絵を描く。鶴は飛び出して舞い、酒屋は名所となって繁盛した。やがて仙人はこの鶴に乗って飛び去ってしまった。

 年代のはっきりしているものは、10世紀末、宋の「太平広記」に描かれた驢馬の絵。絵師が、寺僧の態度が悪かったことに腹を立て、寺の壁に驢馬の絵を描いて立ち去る。夜になると、驢馬は絵を飛び出し、寺堂に入って大暴れする。

 黄鶴楼の鶴は「抜け雀」に通じ、驢馬の絵は、金岡の馬に通ずるように見える。

 

 私には、俳人也有の猫の絵がどんなものだったか大変興味深い。

 

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鼠を探す我が家の猫





 

岸駒の蕉翁涅槃図

 来年の干支、とらの絵といえば、岸駒(がんく)が知られる。江戸後期の京都で活躍した日本画家で、円山応挙とともに逸話の多い人物だ。

 

 虎の絵を好み、猫を参考にして描いていたが、清の商人から手に入れた虎の頭蓋骨がきっかけで、迫力ある虎を描くようになったと、いわれている。

 天明の大火で焼けた御所の再建で、障壁画を描く機会を得、京を代表する画家にのしあがった。画料が高く、自己顕示欲が強かったことで、京の人にひやかされもした。

 

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 藤井乙男「江戸後期の京阪小説家」には、京都の俳人西村定雅が岸駒に、松尾芭蕉の涅槃図を依頼したことが書かれていた。

 江戸後期の大坂の作家暁鐘成が、定雅の短い評伝を書き、そのことに触れているのを、藤井氏が紹介していたのだ。(暁鐘成は、犬の養育本を刊行し、愛犬の墓を建立したことで知られる興味深い人物)

 

「暁翁随筆(写本)に詳かなり、曰く 洛東俳仙堂定雅は京師の人にして、樗良の門に入り俳諧をもって世に名高し、嘗て丈草が所持せしといふ芭蕉翁の涅槃像の画図の一軸の事を、かねて聞き及ぶといへども、只名のみにして知る人だに無きが故に、文政六年十月画師岸雅楽助岸駒に乞て、是を図せしめ秘蔵せり」

 

 西村定雅は、当時東山の雙林寺近くに住み、住まいを「俳仙堂」と名づけ、芭蕉の命日(旧暦10月12日)に俳諧法要を行った。定雅の以前には、雙林寺境内の南無庵に住む俳人高桑闌更が芭蕉忌に偲ぶ会を開催、同寺に全国から俳人が集って賑わった。

 闌更の歿後(寛政10年)、定雅も同じような形で、俳仙堂で営んだようだ。闌更は、芭蕉木像を前に供養し、集まった者たちで俳句を作って追悼した。定雅もそれを踏襲したのだろう。

 さらに定雅は、芭蕉の門人の内藤丈草がかつて、芭蕉翁の涅槃図を所持していたことを知り、俳仙堂に新たに涅槃図を加えるアイディアを考え、当時人気の画家岸駒に依頼した、ということになる。

 

 文政6年というと、定雅は82歳、岸駒は70歳。定雅は老境に入っても頭の回転が良かったようだ。

 

f:id:motobei:20211217182522j:plain芭蕉像を彫った惟然(上)と、涅槃図を持っていた丈草

 

 俳仙堂の芭蕉木像について、藤井は「幻住庵址の椎の木で造った芭蕉の像を安置し」と記している。近江の幻住庵は、奥の細道の旅を終えた芭蕉が一時暮らした庵で、「まづたのむ椎の木もあり夏木立」の句を残している。芭蕉の聖地のひとつになった。

 芭蕉の没後、門人の広瀬惟然は、「幻住庵の椎の木を伐りて、初七日のうちに蕉像百体みづから彫刻し、之を望めるものに与えぬ」(惟然坊句集)と記している。

 大坂で師の最期をみとった惟然は、幻住庵に向かい、椎の木を伐って師の像を百体も彫刻し、望む人に与えたことになる。

 

 定雅が安置した芭蕉木像が「幻住庵址の椎の木で造った」のなら、惟然が彫った百体の一であったかもしれない。初七日に合わせて百体作ったというからには、大分小ぶりの像だったと想像される。

 

 その後、岸駒の涅槃図はどうなったか。暁によると、定雅の門弟朝陽が相続し、朝陽は門人の蔦雨に譲ったが、蔦雨は定雅の遺弟岱美に戻し、岱美は同門の鸞山に譲り、今も持っている、としている。

 

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 江戸時代の芭蕉涅槃図は、先に触れた鍬形蕙斎作の「芭蕉翁臨滅度之図」が知られるが、略画であるので、作風の違う岸駒の涅槃図の参考にはならない。

 

 惟然の彫った木像はもとより、岸駒の涅槃図も行方しれずだ。

 

 私が知らないだけで、誰かの手に残っているのだろうか。

 

 

 

 

 

 

ふなかわ・みかんの装幀本

 天明期の京の俳人富土卵(とみ・とらん)の手がかりを求めていくと、親交のあった俳人西村定雅に行き当たった。土卵は、京で人気だった定雅の洒落本に影響を受けて洒落本を書いたとされ、二人は京都東山の雙林寺の門前で近所付き合いをしていた。

 大正時代に「江戸後期の京阪小説家」と題して、定雅のことを記した国文学者・藤井乙男氏のことを知って、文章が収録されている「江戸文学研究」(大正10年=1921年、内外出版)を取り寄せた。

 

 堅苦しい本を覚悟していたのだが、本の装幀に驚かされた。函から取り出すと、トンボと草花の軽やかなデザインの本が飛び出した。

 

 タイトルの次頁の中央に、「装幀 船川未乾」と印刷されていた。

 

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「ふなかわ・みかん」。「幻の洋画家」といわれている人物の装幀だった。

 

 1886年京都に生まれ、上京して中川八郎に洋画を学び、20代後半に京に舞い戻った。寺町の文具店で個展を開くと、深田康算、朝永三十郎教授ら京都帝大の教職員、学生が支援し学内で個展を開催した。京都の大丸呉服店で行われた公演では、背景画を任された。1922年に夫人と渡仏、パリで洋画、エッチングを学び、留学後半は南仏で過ごした。1924年に帰国。東京・丸善で個展を開き、飛躍が期待された時期に、乾性肋膜炎に罹り、1930年京都で亡くなった。享43。(「版画堂名覧」参考)。

 

 大正・昭和初期の短い活動だったが、本の装幀を数多く残した(川田順「陽炎」など)。渡仏の前年に刊行されたこの「江戸文学研究」の著者藤井氏は、正岡子規の知人で、京都帝大で日本文学を教えていた。藤井氏も、未乾の大学内の支援者の一人だったと考えられる。

 

 深田康算教授は、東京帝大の英知とされた哲学者ケーベル博士に師事、独仏留学後、京都帝大哲学科で美学美術史講座を開いた人物だった。おそらく深田教授が未乾画伯の才能を認め、旗振り役を務めたのだろう。(深田氏は未乾逝去の2年前に腹膜炎で没した。)

 

 未乾自身も、周囲の人間たちが、応援をしたくなるような人柄だったのではないか。朝永三十郎ら錚々たる哲学者が支援したのは、よほどのことと思われるからだ。

 

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 もう一度、装幀を見直すと、ベージュのクロスに、濃淡を付けた茶で菱枠を描き、枠内には深緑のトンボ、草花。さらに、トンボ、花の上、下に萌黄をほんのり添えている。

 

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トンボは函のデザインにも用いられていた。

みかん画伯の装幀本も、追いかけたくなってしまった。

 

 

 

 

ドゥーフの稲妻句

 届いた古本に、出版当時のチラシなどが挟んだままのことがあって、それはそれで興味深い。昭和3年刊行の「日本名著全集巻27」には、同全集の「特別通信・書物愛」(発行兼印刷人石川寅吉)が挟まっていた。

 

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 西鶴の句の短冊、凡兆の肖像などとともに、夭折した藤野古白(ピストル自殺)のことなど、俳句豆知識のようなものが掲載されていた。「人と句境」の欄には、北斎、海舟、馬琴など、俳人でない人物の俳句に交じって、「和蘭人アンデレツキヅーフ」の句が紹介されていた。

 

 稲妻の腕(かいな)を假らん草枕

 

 アンデレキヅーフは、「ヘンドリック・ドゥーフ」のことだった。

 前に、文化12年奉納の静岡浅間神社の「象図」を紹介した時に出てきたオランダ人の出島商館長「ドゥーフ」(1777-1835)だった。象図には、来日した象の経緯を書いた彼の蘭文、訳文が記されていた。

 

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 フェートン号事件に巻き込まれながら、ドゥーフは1798-1817年と20年ほど日本に滞在。その間「蘭日辞典」の編輯を主導した。日本語も達者だったようで、ドゥーフも「道富」と漢字表記し、上記の「稲妻」の俳句も作っていたことになる。

 ほかにも、オランダ人の句として「春風やアマコマ走る帆かけ船」の作品も残っていて、これも、ドゥーフの作と推測されている。西洋人で初めて俳句にチャレンジした人物のようだ。

 

 「春風や」の句の「アマコマ」は、あちこち、という意味なのだろう。春の疾風に煽られて、帆かけ船が動き回っている様子を描いている。

 ただし、稲妻の句は、わかりづらい。稲妻を旅中の枕にするというイメージが掴みにくい。

 

 これを機に調べてみると、HPで「HAIKU IN HOLAND」(HANS REDDINGIUS)という文章を見つけた。オランダでの俳句事情をまとめたもので、そこにドゥーフの句が紹介されていた。

 

  inazuma no kaina o karan kusamakura

Literally: let me borrow your lightning flash arms as grass pillow.(略)

 Let me borrow your arms, fast as flashes of lightning, to serve as pillow on my journey.

Probably this verse was written during a trip from Deshima to Edo for an obligatory visit to the shōgun. In a tavern he saw a girl cutting tofu at a high speed.

 

 REDDINGIUS氏は、稲妻を稲妻でなく、稲妻のように速い包丁さばきを見せる日本女性と解釈しているのだった。

 稲妻を枕にするのでなく、稲妻のような凄腕の日本の女性の腕を枕にしたいというのだ。「おそらく出島から江戸への道中の旅籠で、豆腐をハイスピードで切る若い女性を見て、作ったのだろう」と書いている。口説きの句ということになる。

「豆腐を切る」という部分は当てはまらないが、一解釈だと思う。

 

 漱石は初代猫を亡くして、庭に埋めた時、

この下に稲妻起る宵あらん」という句を残した。猫が亡くなる前に、稲妻のような眼をしたことを漱石は別に書いているが、それでも句意が分からない。

 

 稲妻には、江戸、明治と、今では理解できない多様なイメージや意味が付与されていたのではないか。

 芭蕉の付句にも、「地に稲妻の種を蒔らん」というのがあって、これもよく分からない。 

 REDDINGIUS氏の解釈が独自のものか、参考にしたものがあるのかはっきりしないが、稲妻の謎ときの参考になって、嬉しくなった。

 

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「書物愛」。赤穂義士討ち入り前日に、大高源吾と其角が句を交わしたという伝説なども掲載されていた。