江戸後期の猫薬と瀧澤路のこと

 江戸後期の天保13年(1842)に刊行された犬の飼育法「犬狗養育法」(暁鐘成)をwebで読んでいたら、大阪心斎橋にあった「清水堂滄海堂」が販売する犬の薬が各種紹介されていた。

 その中の「柔狗強壮散」は、文字通り、柔な(虚弱体質の)犬を強壮にする薬で、痩犬も肥え、臆病を直し、悪い毛色を艶のある美しくものにするという触込みで、「矮(ちん)狗(いぬ)猫ともに用いてよし」と書いてあった。猫にも服用できる薬なのだった。

 

 江戸後期の猫の薬を調べると、瀧澤馬琴の長男の妻、路(みち)の日記にも、猫薬が出てくることが分かった。よく知られている話らしい。

 

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 正月早々、「瀧澤路女日記」(中央公論)を取り寄せて、目を通してみた。

 

 路は、医師の娘で、夫の馬琴の長男宗伯も医師だった。路は、夫に先だたれたが、失明した晩年の馬琴のため、口述筆記の手助けをしたしっかりものだったようだ。馬琴没後も瀧澤家の日記を書き続け、その中に、愛猫のことが出てくるのだった。

 

 猫が初めて登場するのは嘉永2年(1849)7月22日の日記。馬琴が亡くなった前年、江戸の家(四谷信濃仲殿町)に猫が迷い込み雄猫を生んだ、その子猫が路の愛猫となった。

去年五月迷猫の産候 同六月十二日出生の男猫、仁助と名づけ候猫、太郎不快ニ付、無拠外ニ遣し度の所、幸宇京町ニのろと申御番医方ニて望候由ニ付、遣ス。

是迄秘蔵致ゆへ、誠ニふびんニ存。いくゑニもおしまれ候へども、右猫有之故ニ太郎大長病可成候ニ付、遣し候物也

 猫の名は、仁助。可愛がっていたが、長男の太郎の病気が長引き悪化するのは、猫が原因の一つのようなので、貰ってくれる医者に不憫ながら引き取ってもらった。

 

 太郎はその年に亡くなってしまった。猫も瀧澤家に戻って来た。

 

 嘉永5年閏2月10日に、3歳半になった猫仁助は、具合が悪くなり、家を出たまま帰らなくなった。同13日の日記。

猫仁助十日より不快ニて終日不食の所、夜中何れへか罷出、今日迄不帰。右ニ付、死したる事と存、死骸を所々尋候所、何れニも見え(ず)、打捨置候所、昼後門口へヒヨロヒヨロと出、たらいニ有之候水をのまんといたし候所、吉之助見出し、早速抱入、あかがねの粉と硫黄をのませ、むき身・食物あたへ候へども、一向食無之…」

 10日に具合が悪くなって出て行った仁助は数日たっても戻らないので、路は死んだと思い、近所を探すが見つからない。猫は4日目に門に戻って来て盥の水を飲もうとしていたので、家に入れ、銅の粉、硫黄の漢方薬をのませたが、なにも食べない。二女の幸が猫を蒲団に横たえたが、ただ息をしているだけだった。

 

 翌日、路は、猫の薬を買いに行く。

 14日の日記「尾張様御長家下ねこ薬買取参り候所、売切候由ニ付、いたづらに帰宅。

 猫薬を求めて、尾張藩屋敷辺まで買いに出たが売り切れで、成果なく帰宅する。「御長屋下」が上屋敷(市谷)、中屋敷(麹町)、下屋敷(戸山)のいずれなのか私にはわからない。

 日記には続けて、夕方、大内氏が猫の見舞いに来たこと、路が神頼みで、水天宮の守札の一字を切り取り、水に浮かべてのませようとしている。猫は水も飲まない。

 

 15日に、路は朝家に来た伏見氏に、猫に効く薬はないかと尋ねると、同氏は夜7時に現れ、下町を探し回ったが猫薬は見当たらなかった。ただ、通新石町の薬種店主人に「猫毒ニあたり候ハバ烏犀角可然候」といわれたと、「烏犀角」を持ってきた。早速、仁助に「半分程用之」。この日も不食だったが、「水を少々呑」。

 

 16日、路は朝、昨日の残りの「烏犀角」を猫に与えたあと、豊川稲荷の参詣へ出、途中医師の順庵に相談すると、昼過ぎ、順庵は「仁助薬持参被致、直ニ用され候也。」と薬を持参して処方した。薬の名は書かれていない。この日も、猫は「不食で水少々を呑」

 

 17日、「猫仁助、種々薬用候験ニや、昼後大便少々通じ、然ども食気なし。」と路は、薬が効いたか、仁助が快方に向かっていることに気づく。

 

 18日、「猫仁助昼時頃又大便通ズ。此故ニ少々食気出、むき身を少々食ス。夜ニ入飯を少々食。先順快成べし」。

 19日ついに「猫仁助順快、今日迄十日絶食の所、今朝飯をくろふ。」と無事回復したのだった。

 

 日記を読むと、

①江戸でも尾張様御長家下などに、猫の薬を扱うところがあった。

②医師順庵が、成分は分からないが猫薬を届けに来た。

③下町の薬種店は、猫に漢方薬の「烏犀角」を勧めた、

ことが分かる。

 ③の烏犀角は、犀の黒い角の漢方薬で、子供の解熱や、疱瘡のほか、毒下しに効くとされた。「猫毒にあたり候ハバ烏犀角」と薬種店の主人がいったわけは、子供の毒下しに効くからには、猫の毒下しにも効くと判断したためと想像される。猫の薬として、「烏犀角」があったわけではないようだった。

 尾張様御長家下やら、順庵殿の猫薬については、謎が残る。江戸にも確かにあったようだが、猫の薬については、当時は大坂の方が進んでいたことが伺える。

 

 それにしても路の介抱ぶりやら、猫の見舞客やら、江戸後期の人たちの猫愛に驚かされた。

 

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 私がこんなことを調べている最中も、わが家の猫は、岩合さんの猫歩き・長崎編を、開始から最後まで、1時間見続けているのだった。

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