10月2日。食欲がなく、なじみの酒屋で1杯のつもりが3杯になり、知り合いの奥さんに汽車賃を借りて松山から今治へ。清水さんを訪ねてご馳走になり、土産と小遣いを貰って帰ったときのこと。
「帰庵したのは二時近かった、あれこれかたづけて寝床にはいったのは三時ごろだったらう。犬から貰う―この夜どこからともなくついて来た犬、その犬が大きい餅をくはえて居った、犬から餅のご馳走になった。ワン公よ有難う、白いワン公よ、あまりは、これもどこからともなく出てきた白い猫に供養した。最初の、そして最後の功徳!犬から頂戴するとは!」
犬が餅をくれたのか、拝借したのかは不明だが、今治の清水さんのご馳走で満腹だったのだろう、あまりを野良猫にやったわけだ。
さらにー。10月5日と6日の日記は錯綜しているが、おそらく5日のことだろう。
「帰庵すると御飯を野良猫に食べられてゐた」。
ご飯は麦の混じった混合米を炊いたものだろう。日記に「八十二銭 混合米二升」(8月15日)、「四十銭 混合米」(8月19日)と出てくる。
翌6日の日記。
「けさは猫の食べのこしを食べた、先夜の犬のこともあはせて雑文一篇を書かうと思ふ、いくらかでも稿料が貰へたら、ワン公にもニャン子にも奢ってやらう、むろん私も飲むよ! 犬から御馳走になった話」
結局、雑文は書けずに、5日後脳溢血で亡くなった。
野良の白い犬と猫と食べ物を通して、ひそかな交流があったのだった。
1940年といえば、大政翼賛会が発足し、山頭火の師匠だった荻原井泉水は「俳句をして国民の戦時意識を高揚するための言葉とならしめよ、ということも時局下の要請の一つであらう」と俳句界の協力を発言している。
「私は私の愚を守る、私は私の愚を貫かう」(8月19日の日記)時を同じくした、弟子の山頭火の言葉は、放浪の詩人のままなので、ホッとする。

我が家の猫の野良猫時代の写真を知人に貰った