野良猫、野良犬と山頭火の交流

 青空文庫で、俳人種田山頭火の日記に目を通していくと、たくさんの心惹かれるものと出くわした。
 
 例えば、犬と猫との逸話。1940年10月11日に松山市一草庵で57歳の生涯を終える前に、犬と猫が「一草庵日記」に登場する。ともに、野良である。
 
 10月2日。食欲がなく、なじみの酒屋で1杯のつもりが、3杯になり、知り合いの奥さんに汽車賃を借りて松山から今治へ。清水さんを訪ね、ご馳走になり、土産と小遣いを貰って帰ったときのことだ。
 「帰庵したのは二時近かった、あれこれかたづけて寝床にはいったのは三時ごろだったらう。犬から貰う―この夜どこからともなくついて来た犬、その犬が大きい餅をくはえて居った、犬から餅のご馳走になった。ワン公よ有難う、白いワン公よ、あまりは、これもどこからともなく出てきた白い猫に供養した。最初の、そして最後の功徳!犬から頂戴するとは!」
 犬が餅をくれたのか、拝借したのかは不明だが、今治の清水さんのご馳走で満腹だったのだろう、あまりを野良猫にやったわけだ。
 
 さらにー。10月5日と、6日の日記は錯綜しているが、おそらく5日のことだろう。
早朝から空襲警報があり、山頭火は午後、道後温泉で湯に浸かって庵に戻る。
 「帰庵すると御飯を野良猫に食べられてゐた」。
 
 ご飯は麦の混じった混合米を炊いたものだろう。日記に「八十二銭 混合米二升」(8月15日)「四十銭 混合米」(8月19日)と出てくる。
 
 翌6日の日記。
「けさは猫の食べのこしを食べた、先夜の犬のこともあはせて雑文一篇を書かうと思ふ、いくらかでも稿料が貰へたら、ワン公にもニャン子にも奢ってやらう、むろん私も飲むよ! 犬から御馳走になった話」
 
 結局、雑文は書けずに、5日後脳溢血で亡くなった。
餅を犬から貰って、猫に分けたのはいいが、猫は3日後ちゃっかり、一草庵に上がりこんで、山頭火のご飯を食べてしまったのだ。食べ残していたので、山頭火は翌朝食べた、というわけだ。
 
野良の白い犬と猫と、食べ物を通して、ひそかな交流があったのだった。
1940年といえば、大政翼賛会が発足し、山頭火の師匠だった荻原井泉水は、「俳句をして国民の戦時意識を高揚するための言葉とならしめよ、ということも時局下の要請の一つであらう」と俳句界の協力を発言している。
 
「私は私の愚を守る、私は私の愚を貫かう」(8月19日の日記)時を同じくした、弟子の山頭火の言葉は、放浪の詩人のままなので、ホッとする。

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 我が家の猫の野良猫時代の写真を知人に貰った