古川敬さんの「山頭火の恋」

 毎日、同じ通勤電車の同じ車両に決まって乗って来る男性会社員が、今日は顔を見かけなかった。なにかあったのか。あるいは、今朝がた大地震があった北海道の出身なのだろうか、と気になった。
 
 山頭火と工藤好美さんのことを書いて後悔している。書く前に、古川敬「山頭火の恋」(2009年、現代書館)という本があるのを知って取り寄せたところ、昨日自宅に届いていた。あわてて、ページをめくると、僕の知りたかったことが書かれていた。
 古川氏は大分県に生まれ、工藤家のあった佐伯市市役所に勤務した俳人で、山頭火の研究者だった。
 
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 古川さんに敬意を表しつつ、この著作で知り得たことを箇条書きにしてみた。
 
1)工藤好美さんは、洋品店経営の実家の10人きょうだいの長兄として生まれた。家族の期待もあり、医者になるために、熊本の五高医科に入学した。
2)文学的環境の豊かな佐伯市で育ったため、少年時代から国木田独歩の作品や、若山牧水などの短歌に親しみ、五高でも短歌にのめりこんで行った。医師になる自信もなく、ついに2年落第し、五高退学となった。
3)山口から熊本に流れ着いた山頭火の古本屋は、家の土間に雑誌が数冊置かれただけの店だった。工藤は、それらの雑誌に目をひかれた。
4)工藤は俳人として活躍中の山頭火と親しくなり、下宿先の寺に山頭火が遊びに来るようになった。歌誌の仲間、茂森唯士も加わった。
5)工藤は大正8年上京して、早大文学部予科に入学したが、佐伯高女を卒業した二女千代も一緒に上京した。兄を助けるためだった。清楚な美人だった。
6)茂森も転勤で上京し、仲間を追って山頭火も妻子を置いてやってきた。茂森の下宿の隣室に転がり込んだ。
7)工藤が山頭火に市の水道局のバイトを探した。千代は東京市立図書館の臨時職員で働き、山頭火のために、新たに市立一ツ橋図書館の臨時職員の仕事を見つけた。山頭火はやがて本採用となり、水を得たように、編集の仕事も行った。
8)湯島の下宿住まいの山頭火は、頻繁に牛込の工藤宅に遊びにきた。
9)大正11年秋、千代が喀血した。12月山頭火は、精神衰弱で図書館を退職した。
10)大正12年9月1日、関東大震災。工藤は焼け出され、千代を背負って3日間野宿したが、生き延びた。山頭火は、不審者として警察に捕まり、留置された。
11)山頭火は熊本に戻る。工藤は翌13年1月、苦労しながら鉄路で病身の千代を佐伯に連れて帰った。
12)千代は大正14年7月4日、24歳で亡くなった。
13)山頭火は8月5日、帰郷した防府で千代の死を知り、翌日佐伯に向った。
14)ちょうど、佐伯に工藤も居て、山頭火にお経を上げてもらった。実家で2人で並んで寝て、ゆっくり話をした。
15)山頭火は翌年、熊本の寺を出て、行乞に出た。それまでの日記、手記を凡て焼き捨ててしまった。
16)工藤は、歌を諦めて、英文学研究に打ち込んだ。論文が英文学の大御所、土居光知に認められて、佐倉高校、富山大、台北帝大と教職の道に進むことになった。
17)山頭火は、工藤兄妹のことは「行乞記」などの記録に一切残さなかった。寡黙な工藤も青春時代を語らなかった。
18)しかし、工藤の死後、山頭火からの書簡が見つかり、交流が終生(昭15年山頭火逝去)続いていたことが判明した。
 
古川さんのおかげで、沢山のことが分かった。深謝。