魚藤の「李白一斗酒詩百篇」

 取手の川魚料理の魚藤は、地元の水墨画家の小川芋銭ばかりか、春陽会の画家たちが好んで集まるいい店だったようだ。

 店での画家たちの集まりには、船頭の総元締の刀水漁郎のほか、説教節を歌う染太夫が同席することがあった。染太夫については詳しく分からないが、おそらく茨城に縁がある説教節「小栗判官」をよくしたのだと想像する。利根川に船を泛べての中秋の名月の月見では、舳先に染太夫が座り、「月光の下で義経の道中を語った」と、中川一政は「遠い顔」で書いていた。

 

 川魚料理とともに、鴨猟やら説教節やら、利根川縁の風土ならではの店だったように見える。

 洋画家中川一政が描くところでは、あけ放たれた階下の座敷に

李白一斗酒詩百篇

と、芋銭が書いた雄渾な幅がかけられていたという。杜甫「飲中八仙歌」の中の「李白一斗詩百篇」なのだろうが、「酒」の一字が多い。一政の勘違いか、芋銭があえてそうしたのか、今となっては分からない。

 詩人の李白は1斗の酒を飲むと、百の漢詩を作った、という句は、画家たちが集って作品を生む場所となった旗亭「魚藤」に、ふさわしいものだ。

 

 魚藤に屯した刀水漁郎は、東京・永福町の一政宅にも現れた、と書いている。「私の家へも利根川の魚をもって汗を拭きながら訪ねて来るようになった。色紙や畫帖を置いて行った」。

 芋銭が「絵に力がある」と一政を褒めたので、絵を描いてもらいに、杉並まで遣ってきて、色紙、画帳を置いていったのだった。

 手土産は、利根の川魚ばかりでなかった。「刀水漁郎から芋銭の扇ももらった。横向きに柿本人丸を描いて、

古人不見今日之月と賛があった」(「遠い顔」)

 

 芋銭もねだられていたのだった。李白の詩「把酒問月」の「今人不見古時月」をもじり、月の歌を作った人麻呂を絵に添えたのだろうか。(天の海に雲の波立ち月の船星の林に漕ぎ隠る見ゆ)

 

「宮君(刀水漁郎)近来字だの何のとねだりごと多く、仙厓ならぬ迂生いささか閉口の処、ぽっくり死なれてさすがに拍子ぬけした形。淋しさ日に日にせまり候」。

 同年生まれの知友の死に、芋銭は、ねだられた日々もまた貴重な時だった回想している。

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 晩年の小川芋銭(津川公治「畫聖芋銭」から

 

 刀水漁郎のあと、恒友、百穂、染太夫を送った芋銭は、昭和13年正月風呂場で脳溢血で倒れた。新築の画室に病臥し、創作、旅行もままならぬ身となった。

 芋銭は「どこも悪いと言ふのではないが、淋しい。淋しいと云ふことは、こんなにつらいものでないと思って居たが、淋しいといふことは、つくづくとつらいことだ。苦痛と云へば病気より淋しいことであらう」と病床で話していたという。(「畫聖芋銭」)12月に静かに息を引き取った。

 

「芋銭と月見の晩に洞庭湖の話をしていた恒友が先んじて亡くなり、染太夫も亡くなり、芋銭も亡くなった」。一政もまた、「魚藤」での仲間たちとの楽しかった時間が永遠に終わってしまったことを嘆いた。 

 

 

芋銭泊雲の書簡集に描かれた恒友

 俳人西山泊雲の生家の丹波の西山酒造場が、泊雲と小川芋銭の大正5年から昭和13年の手紙のやり取りを立派な本にしていたことを知り、慌てて連絡した。「芋銭泊雲来往書簡集」。3年前の発行だったが、在庫があるというので取り寄せた。

 

 2人の書簡には、共通の友人だった森田恒友のことも沢山触れていた。ざっと目を通して付箋をすると、二十近くあった。

 

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 先日訪ねた多磨霊園の恒友の墓石の刻字についても書かれていて、芋銭が書いたものだと判明した。亡くなって3か月後、未亡人が芋銭を訪ねて依頼したのだった。

 

「数日前に森田未亡人見へ多摩の墓地にたつ森田氏墓石の字を頼まれ申候」(昭和8年7月4日 芋銭から泊雲宛)。未亡人から、形見の硯を贈られた事も記し、「石の硯の友かなしさよ皐月闇」の句を添えている。

 墓石のやさしい字は、芋銭の手によるものだった。

 

 恒友自身の病床日記(「画生活より」)は昭和8年2月6日で終わっているが、その後の千葉の病院での様子が芋銭の書簡で伺える。

 同年2月21日の泊雲宛。恒友が中野の家に帰りたいと、言い出したことを芋銭は知った。「悲痛此事に存候」「病院生活に於ける人間苦を深く深く味はれ候」「平福(百穂)氏の十二首出来よしにて森田氏悦ばれ候事何よりの慰藉と被存候」

 

 亡くなる1週間前の4月1日。具合の悪い芋銭の代わりに、三男が見舞った。「存外の元気にて知可良(三男)が嘗て森田氏を沼より送る為船頭をしたる話などされ至極機嫌よかりしよし 四五日前は悪しかりし由」(4月2日泊雲宛)。

 

 亡くなった時の様子についても、芋銭は泊雲に報告している。

 恒友は、表装なった自作「四園和楽図」が病室に届けられると、「心のままに展観近来の快興なりと夫人にも語られ候よし 其夜より熱発 八日は困睡裏に永眠となり候よしに候」(4月18日泊雲宛)

  

 1か月後の5月中旬に泊雲は恒友墓参を予定していたが、二女が高熱を出し、チブスの疑いがあったので延期した。「地下の森田氏に対しても相済まぬ訳にて、毎日気かかりに其日を送り居候」(5月23日、芋銭宛)

 

  恒友は丹波の泊雲宅を訪ねて、マツタケ狩りをした思い出を書いているが、書簡では、泊雲も中野の恒友宅を訪問していたことが分かった。

 入院半年前の2人の嵯峨野行も書かれていた。2人は丹波から嵯峨野に出て清滝で昼食をとった。その後高雄へ向かったが、新道が出来たという「女中の虚言」を信じ、3時間道なき道をたどり、ほうほうのていで高雄に到着したのだった。2人とも「疲労の極みに達し」、「小生は山陰線に森田氏は何にても江州石山に一泊するとか申され 妙心寺の裏門にて分袂致しとんだ目に会い帰宅致し候」(昭和7年6月19日芋銭宛)。恒友の体にもさわったろう。

 

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 書簡集と共に、泊雲の酒造場の「小鼓」も届けてもらった。高浜虚子が泊雲を支援して、命名した酒でもある。

 細と夕餉に飲んだ。「冷やしてもいけそう」と細はいうが、燗でもよさそうな、口当たりは甘いが、あと口が辛めの一升瓶だった。細工をしない昔ながらの自然な味わいが印象だった。

 ラベルには、虚子が寄せた言葉が印刷されていた。

「古處爾美酒安里名付希天小鼓都邑」。ここに美酒あり名付けて小鼓という、と読めた。

 

 

 

 

 

 

刀水漁郎と木槿の花

  画家森田恒友にゆかりのある人の話を続ける。

 

 水墨画家の小川芋銭は、自然の残る茨城県取手で暮らし、利根川の向こう岸に住む、漁師の宮文助の人柄を愛した。文助も芋銭を尊敬し、揮毫をねだって、地元の連中に配った。

 芋銭の仲間の森田恒友小杉放菴も文助を好み、3人で大洗に旅行したこともある。とくに放菴は息子を連れて文助に鴨猟を教わり、茨城各地を文助と家族旅行して楽しんだ。宮を「刀水漁郎」(刀祢川=利根川の漁師)と名づけたのも放菴だった。

 

 画家中川一政は、宮の団扇を手に、胸元がはだけた姿は相撲取りのようだった、と書いている。若いころは五斗俵を片手で持ち上げ、四斗俵なら拍子木にして打ったという。曲がったことを嫌い、利根川にやって来た利権屋を池に放り込んだり、卓袱台を頭から被せたりしたのだった。(「遠い顔」)

 中川が、放菴に聞いた話では、宮は関東大震災の直後、東京に住む子供と孫を探したが見つからず、もう亡くなったのだと思い込み、この世に見切りをつけた。死ぬなら、悪い奴を道連れにしようと、近郷きっての悪議員を夕涼みに連れ出し、両足で「おっ挟んで」、舟から入水しようと企てた。

 直前息子と孫が無事戻って来て、議員は命拾いしたのだという。そんな任侠家を画家たちは好んだ。

 

 

 芋銭らは、刀水漁郎の馴染みの川魚料理店魚藤に集まるのを楽しみにした。利根川上流で育った恒友は、同じ川の鮭、鰻、鯉、鮎の川魚料理を喜んだ。昭和3年には、同年生まれの芋銭と刀水漁郎との2人の還暦祝いを、この店で開き、恒友、放菴、百穂、丹波からは西山泊雲が参加した。

 

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 翌年3月、なんと仲間に先立って刀水漁郎が亡くなった。放菴と恒友は取手に弔問に駆けつけ、5月下旬に墓参に行った。芋銭、放菴、恒友は、この時3本の樹木を墓に植えるよう寺に頼んだという。種類は任せたが、後日墓参に行った恒友は、樒(しきみ)、木蓮などが植えてあるのを見て、「木槿(むくげ)にしてほしかった」と、芋銭に漏らしたという。

 

 その4年後に亡くなった恒友への追悼文で、芋銭はその時のことを振りかえっている。「木槿は寂しい木である」とも書いていた。

 

 豪傑に、なぜ木槿がふさわしいと、恒友は思ったのだろう、私にはそれが気になった。夏の茶花でもある木槿は、千利休の孫、千宗旦(「わび宗旦」)が好んだ「宗旦木槿」がよく知られる。白くて、花の中心が赤い。

 そんな木槿と刀水漁郎のとり合わせが分からない。

 

 「遠い顔」を繰り返し読んでいると、中川は川魚料理店魚藤の女将のことを記しているのに気づいた。女将は画家たちの眼を惹く女性で、馴染み客の刀水漁郎との二人のやり取りは、石井鶴三、木村荘八の挿絵のモデルさながらだった、としている。

 恒友にとっては、木槿はあるいは女将だったのかと想像してみた。墓に入った刀水漁郎に、女将さんのイメージの木を添えてあげたかったのではないかと。

 

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 人にはそれぞれふさわしい花がある。アトリエの恒友追悼号で芋銭は、「東洋の思想に、清純の人死して花に化すると云ふことがある」(「憂鬱なる江村と森田氏」)。

 亡くなった恒友は「今野に咲きほこる辛夷(こぶし)の花に化せられたのではないか、此の清くして寂しい花に」と綴った。

 

 多磨霊園の恒友の墓石を思い起こし、辛夷の真っ白な花を頭の中で添えてみた。

 

 辛夷は当分見られないが、木槿はこれからあちらこちらで花を見ることができる。

 

 

 

 

五輪騒ぎの中の恒友

 画家の森田恒友が千葉医大(現千葉大)に入院したのは、昭和7年の12月。仲間たちには年が明けた正月に連絡をした。

 一番で見舞いに駆けつけたのが、小杉放菴木村荘八中川一政の春陽会の仲間と、画廊琅玕洞の林氏(數之助か)の4人だったことが、恒友の日記で分かる。

 一政はこの時のことを、「正月七日木村荘八と放菴に案内されて千葉の医科大学附属病院の病棟に恒友を見舞った」と「遠い顔」に書いている。

 

 蒲柳の質だった恒友だが、春陽会の仲間は元気なスポーツ愛好家が揃っていた。

 放菴は、体力自慢のスポーツマンで、明治末、田端文士村にテニスコートを作り、親睦組織「ポプラ俱楽部」を設立した。仲間を巻き込み、春陽会の野球チームも作った。

先ごろ見学した「田端文士村記念館」には、テニス選手をデザインした放菴の「ポプラ倶楽部ジュニアトーナメント」のトロフィーが飾られていた。

 

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 一政は、ボクシングの熱心なファン。石井柏亭の弟で相撲好きの彫刻家石井鶴三と真剣に相撲を取る写真も残されている。その時、行司役だったのが、一緒に見舞いに行った木村荘八だった。(中川一政「腹の虫」)

 

 この年の7月、第10回五輪がロサンゼルスで開催されていた。南部忠平(三段跳)ら日本は金メダル7個(銀7個、銅4個)を獲得したが、実は放菴や鶴三もまたロス五輪に関係していたのだった。

 当時の五輪には、スポーツのほか「芸術競技」なるものが同時に開催された。5回大会から始まり、日本はロス大会に初参加を決め、昭和6年大日本体育芸術協会が設立されていた。

 

 昭和7年2月同協会は、「日本オリンピック美術委員」に放菴や鶴三を委嘱したのだった。芸術競技は、スポーツの躍動美を表現する美術、音楽作品を出品して、メダルを競うもので、協会は、絵画、彫塑、版画、工芸、建築、写真部門の参加を決め29委員を選んだ。

 スポーツマンだった放菴のほか、スポーツとは無縁な鏑木清方平福百穂ら恒友が敬愛する日本画家も選ばれ、版画部門では、鶴三のほか、恒友の仲間の山本鼎も委員に推薦された。

 

 委員の仕事は、公募したロス大会出品作を選考することだったが、放菴は自ら「蹴球構図」と題してラグビーの油彩を描き、スポーツ絵画のPRに務めた。この作品は、五輪期間中にロサンゼルス美術館で開催された展覧会(非競技)に展示された。

 

 芸術競技の結果は、スポーツのようにはいかず、エントリーされた21作品のうち、版画部門で長永治良「虫相撲」が選外佳作となっただけだった。

 

 審査員クラスが参加すべきだった、という反省から次回のベルリン五輪には石井鶴三自らが相撲の版画を出品するおまけがついた。結果は、絵画部門で藤田隆治が銅、水彩部門で鈴木朱雀が銅。佳作に彫刻の長谷川義起、音楽の江文也が入り、鶴三は選外に終わったようだ。

 

 もの静かな恒友への見舞いは、当然にぎやかになったようだ。一政らは恒友の病状を知らされていたが、本人には伝えられていなかった。

「恒友は癌だと知らないのである。然し髭の中に光っている恒友の眼は、私達の心を窺わないだろうか。/私達は呑気に話をするのが息苦しく辛かった」と書いている。

 だが、恒友は分かっていたのだった。柩が、中野の家に運ばれた時、鞄の中に恒友のエンディングノートが見つかった。

「自分の葬儀の次第をかくせよと図面まで描いた紙片が出て来た。/恒友は知っていて、我々と生きている世の中の話をしたのである」と、一政は慟哭している。

 

 負けず嫌いの放菴、鶴三らが五輪で高揚していた時も、仲間の恒友は変わらずもの静かに暮らしていた。

 

「恒友を失って半年になるが、恒友の我々の間に張っていた根ざしは案外深いものである。/我々の喧噪の生活の絶え間に、心が澄む時にそれがわかる。/そして恒友の美術界の残した事業も、世間が考えているより案外深く根ざしているのである」と中川一政は「遠くの顔」に記している。

  コロナや五輪の喧噪が渦巻いている今また、恒友の生き方を思わずにいられない。

 

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  昭和7年「四季蔬菜冊」から

 

 

 

 

恒友の墓を探して

 土曜日に、息子一家と墓参りに出かけた。息子の運転で、いつも通り多磨霊園から小平霊園とハシゴする。今回は、多磨霊園のなかで寄り道してもらった。

 18区で細の実家の墓掃除をしてから、13区へ回ってもらったのだ。道は行き止まりが多く、やっと到着した13区も広く、独り車を降り、汗をかきかき、探し回った。

 見かねた息子が掲示板を見て、Ⅰ種37号は、もっと向うだから、車にまた乗って、という。

 

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 画家森田恒友の墓地に行きたかったのだ。

 墓は正面に森田家の墓石があり、右側手前に、左を向いた「森田恒友之墓」の墓石が建っていた。

 

 恒友の墓が、多磨霊園にあるのを知ったのは、閉店間際の本郷の古書店で見つけた、中川一政「遠い顔」だった。中川画伯は恒友の思い出や、追悼文を、心にしみる文章で描いていた。

 

 恒友は、熊谷の墓から分骨して、東京に埋葬するように遺言していたのだった。一周忌に、春陽会の仲間の画家が墓前に集まった、と中川画伯は書いていた。

 

 墓石には、恒友が慕った小川芋銭が恒友の事績を記した。

 

弘潤院謙山恒徳居士

   行年 五十三歳

   昭和八年四月八日歿

 埼玉縣大里郡玉井村大字久保島森田彦三郎三男に生れ畫を業とす

 大正三年歐洲に遊び歸來技益進み近年好みて淡墨平遠の風景を作る

 觀者讚嘆して新南畫と云ふ

 

   遺言に由りて骨を分ち此地に埋葬す

    知友芋銭子記す

 

 梅雨前とはいえ、墓石は強い日差しが照り返していた。

 

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    西洋留学で、セザンヌドーミエに刺激を受けて帰国した恒友は、日本の風景を水墨画で描き始めた。世間からは、洋画から日本画へ転向したと見られた。

 

 中川はこう書いていた。

「恒友は、水墨乾墨という二つの言葉を作って用いはじめた。/日本画を描いていますかと素人でなしに画家が聞く時には、恒友は潔癖に人に気に障らぬような言い方で水墨と言いかえた。/水墨とは墨絵である。/乾墨とはコンテである。/恒友は、乾墨を用いて写生をすることから水墨の仕事に入ったのである。恒友の水墨は、(鉄斎のような)胸中山水乃至書画一致の道ではない。/写生の道である。」

 

 水墨、乾墨と和洋で違っても、自然と向き合う「写生の道」は一貫しているのだ、と恒友は強く思っていたのではないか。

 

 水墨画の芋銭は、墓碑に「近年好みて淡墨平遠の風景を作る。觀者讚嘆して新南畫と云ふ」と記した。

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  知友の小杉放菴は、平野人と称した恒友の淡墨について、「アトリエ森田恒友追悼号」(昭和8年)で、こう書いていた。

「時とすると、平野人の平野の図に、限りなき遠さの平野を見た、日本の風景に相違なくして、地理的小国日本には、こんな幽遠なる野は有り得まい、と思ふほどの遥けさ遠さ、若干の凄さ、それがあの人の芸であり詩であったらう」(平野人の水墨)

 

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 墓石の「森田恒友」の刻字は、やさしい筆記だった。誰が書いたものなのだろう。恒友本人の字なのだろうか。

 

 恒友と身近で接した12歳年下の中川画伯は、「恒友は形というものの目立つことを、自分というものが極立つということをおそれたというより卑しんだ」と思い出を語っている。

 目立つこと、出しゃばることを好まなかった画家らしい、墓石であった。

 手を合わせて、大急ぎで車に戻った。

 

 

 

神保町のネコとジネズミ

 6月に入って、神保町の古書店街が店をあけたので、昼に散歩に出た。

 緊急事態宣言下の5週間は、古書店が一斉休業。街は寂しいものだった。6月になって宣言は継続されたものの、緩和措置とやらで、休業解除を決めたようだった。

 

 やっこ寿司に寄ってから、神保町の駅の方までぶらぶらすると、A書房の店先の100円コーナーも始まっていて、2、3人の人影があった。

 

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 岡鹿之助が装幀している中山義秀「なすな恋」(昭和23年、玄理社)があった。あれこれ4冊を択ぶ。100円本には袋は出さないという古本店の決まりがあるので、そのまま手に持って、古レコード店に向かう。

 

 まずは店の看板猫に挨拶する。休みの間、ご主人から猫の後脚に禿げが出来たと、メールが届いたので気になっていたのだ。動物病院に連れて行くと、原因不明といわれたが、処方された塗り薬で、毛は生えだしたと書いてあった。

 床に寝そべる猫。禿げはまだ残っているものの、元気な様子だった。ご主人は「やっと、店が開いたので、雰囲気が分かるんでしょうね、朝から喜んでいるんです」。

 伸びをする猫の脇腹を片側ずつ順番に撫で、首元を静かに柔らかく揉むと、気持ちよさそうに目をつむる。猫は猫。わが家の猫と同じ反応をする。

 

 お客さんも長い休みが終るのを待ちかねていたのだろう、年配の客が来店して、クラシックレコードの棚を忙しげに漁りだした。続いて馴染みらしい男性が来て店主と挨拶をかわし、ジャズLPを探している。次いで、若い男性も入って来た。

 神保町の一本裏の道にも人出が戻ったようで、なんだかうれしい。

 

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 4枚を択び、ビニールでなく大きな紙袋に入れてもらい、一緒に古本も収める。さあ、事務所に戻らなくては。

  戻って、岡鹿之助装幀の「なすな恋」を見ると、表紙絵の点描のアゲハチョウの絵は、点描画家らしいのだが、扉絵には、点描でない、ペン画のようなネズミのカットがあって、目を惹いた。

 鼻が長いネズミなので、気になって調べてみると、ネズミではなく「トガリネズミ科」のジネズミだった。ネズミの呼称はついているが、モグラの仲間だった。ただし、普通のモグラと違って、地中で暮らすことがなく、地上でのみ生活しているという。

 絵のように、尖った鼻が特徴で、猫もネズミだと勘違いしているようだ。モズ、蛇に加えて、猫もジネズミの天敵とされる。飼い猫がジネズミを咥えて、家に運んでくることもよくあるらしい。

 

 久々の神保町散歩は、ネコとジネズミに出会う楽しい午下となった。

 

 

 

 

 

 

吉祥寺の健脚版画家


 正福寺地蔵堂が掲載されていた「武蔵野1956年春号」には、東京・吉祥寺で暮らしていた版画家・織田一麿への追悼文が、考古学者後藤守一によって綴られていた。同誌の発行者の後藤が、織田に随筆を依頼に行き、豊富な話題に引き込まれた思い出や、奥多摩御岳の渓谷に咲く「エンレイソウ(延齢草)」を一緒に採りに行く約束を果たせなかった後悔を書いていた。

 翌号の1956年夏号は、「織田一麿・追悼号」(表紙の絵も織田画伯)として、武者小路実篤亀井勝一郎石井柏亭らが、追悼文を寄せた。

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 昭和6年吉祥寺に住いを定め、画業の他、武蔵野の昆虫、野草の採集に精出し、「土の会」という地元有志の会を立ち上げていた織田は、「武蔵野」を発行する武蔵野文化協会のメンバーも、一目置く存在だったようだ。

 

 おどろいたことに織田が、私が関心を寄せている画家の森田恒友と、縁の深い版画家であることが、追悼号掲載の「織田一麿年譜」で分かった。恒友が石井柏亭山本鼎らと明治40年に発刊した創作版画誌「方寸」に、織田は遅れて同42年から同人となって参加していた。

 44年に恒友が大阪の帝国新聞社(薄田泣菫が文芸部長)に入社した際、一緒に織田も入社したのだった。

 

 慌てて、恒友の年譜とすり合わせると、

「1911年(明治44年)四月、帝国新聞社(薄田泣菫が文藝部長)に入社、大阪府西成郡勝間村一〇九四-一(現・大阪市)の帝国新聞の社宅に住む。織田一麿が二軒隣に住む。(織田一麿『アトリエ』1933.10)」とあるではないか。

 

 当時30歳の恒友、29歳の織田は一緒に大阪の新聞社に入社し、ともに社宅で近所住まいをしていたのだった。二人は、翌年には新聞社のゴタゴタがあって退社し、恒友は洋行の準備に入り、織田は、中山太陽堂広告部(現・(株)クラブコスメチックス)に入社したが、長続きしなかったようだ。

 

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 作風に共通点もなく、その後交流も疎になったのだろうか。織田は大正5、6年、「東京風景」「大阪風景」と、石版画を精力的に発表する。追悼文で、柏亭は「方寸」同人の頃の、織田の技法を振り返っていた。自分や山本鼎平福百穂が石版を手掛ける時は、砂目石版だったが、織田は砂目を立てず、石版石を磨きあげた上に描く「磨き石版」を主張していた思い出だ。

 

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  織田一麿≪自摺石版画全作品集≫(74年、三彩社)。表紙の絵は昭和2年「水亭夜曲(中央)」

 

 織田は北斎を研究し、その著作もある。

 吉祥寺に移住した2年後の昭和8年からは、山歩きを始めた。

 追悼文で娘さんは、73歳で逝去するまで、歩き回る父親像を書いていた。

 

「往年親交のあったフランス人から習ったとかで「僕の歩き方はハクライだよ」と、ともすると自惚の種になっただけ、その歩き方には特色があった。膝を曲げずに、腰で身体を運ぶやうな、見るからに楽しさうな足どりであった」

「戦前、私の幼い時分は、昆虫、植物の採集、登山、古本集め等に凝って、雨が降らうと、風が吹かうと、借金が有らうと、ガスが止められようと一切おかまひなくテクテク出かけては夜帰って遅くまで標本を作ったり、目録を作成したり」

 戦後も、吉祥寺の家から、「朝食が済むと何処かへ出てゆく習慣が始まったが、以前とは異り、何の目的も持たず、ただ歩くことを楽しむために出かけるやうになったのである。従って降らうが、照らうが必ず出てゆく。さうして夕方、日が暮れる頃ユラリユラリ帰ってくるのである」

 

 恒友は、山の人でなく海の人でもない、関東の平野で生まれ育った「平野人」として自覚するに至り、澄明な境地を追い求めて、平野を訪ねてスケッチに励むようになったが、若き頃の同僚の織田は、生涯通して毎日歩き続ける暮らしを続けていたのだった。老いてなお、朝から晩まで、吉祥寺の街や武蔵野を歩いて過ごす、超俗的ウォーキング生活は、興味津々である。

 

 実際、自分は事務所通勤のない日、一日中、外出して時を過ごせるだろうか。それも毎日であり、風雨の日もである。老いくる身に、大変興味深くも、謎めいている健脚版画家の暮らしである。