猫と花瓶を巡るたたかい

 我家の猫はノラだったせいか、飼い主の私達以外には心を許さない。息子の家族もダメで、玄関でピンポーンとなると、押し入れなどに隠れてしまう。孫娘が探し出して触ると、猫は緊張して目を瞠り、後ずさりする。

 最近は、夕食を息子一家4人で食べに来ることが増えた。猫はその間、息を潜めてどこかで隠れている。

 

 孫たちが帰った後、玄関でガシャーンと音がした。猫がまた花瓶を落したのだ。これで4回目。破片を掃除しながら細は大声をあげている。逃げてきた猫は身を縮めながら、細からお説教を浴びている。目は合わせず、どこぞを見ている。

 孫たちを可愛がる我々の様子を長時間押し入れに潜んで聴いていて、嫉妬しているのだろうか。

 

 一度目はガラスの花瓶が被害にあった。破片が危険なので、細は陶器の花瓶に変えた。これが落された時、割れてなかったが、水を灌ぐとひびから漏れだした。3度目からは、割られても惜しくないものに変えたらしいが、それでも2回続いてカッカしているのだった。

 翌朝、出勤で出かける時、玄関の花瓶を見てびっくりした。とんでもない大きな甕が置かれていた。

「なんだこれは」

泡盛の大甕よ」

「こんなもの、ウチにあったのか」

「Yさんから貰ったでしょ」

 

 泡盛が3升が入るというが、中味を吞んだ記憶は全くない。

 撫でて見ると、どっしりとして、猫が踏ん張っても前足では落とせそうになかった。駆け上がって猫が勢いよく体当たりしても位置がズレるだけだろう。大甕に並々ならぬ細の決意が感じられた。

 しかし、こんな甕に会う活け花は限られるのではないか、と思ったが、猫対策で熱くなっている細の前では、口に出せなかった。

 

 この泡盛「瑞穂」は嘉永元年に首里で創業したという。米国のペリー艦隊は嘉永6年に突然那覇に現れて38日間滞在した。その時には瑞穂の泡盛は造られていたことになる。

 ペリーは首里の宮殿へ王子と王太后に表敬訪問を望むが、摂政はあの手この手で、合わせまいとかわしたことが、「ペリー提督琉球訪問記」に記されている。ペリーは音楽隊、水兵とともに宮殿に乗り込んで行くが、王子、王太后は姿を見せず、摂政が自分の邸で宴会を開きペリーらを接待する。

 琉球酒がその宴会で出てくる。「卓子の隅には箸を置き、真中には酒(サキ)を入れた土焼の徳利一箇を据えて、その周囲には樫の木の杯と、粗末な支那焼の盃と、同じく支那焼の無細工な匙と茶碗とが各四箇宛に置いてあった」

 サキとよばれるのは琉球酒の泡盛のことだろう。「最初に茶が出て、其の後から直ぐ仏蘭西酒の味がする酒の小盃が廻された」とあるが、宮廷料理の泡盛仏蘭西酒の味がしたのだろうか興味深い。あるいは交流のあった中国、あるいは薩摩藩から届いた酒なのか。

 一方ペリーは摂政に米理堅酒二樽(メリケン酒)と甜紅酒一樽を贈ったと書き残されている。米国の酒はバーボン・ウィスキーに違いない。甘い紅の酒は、日本への長い航海の途中立ち寄った大西洋のマディラ島の甘いマディラワインのことではなかろうか。

 さて猫の対策はどうしたものだろう。遊ぶ時間を増やしてなだめるしかないのか。

 

 

左団次のページェントと歴史学者の証言

「漢委奴国王」の金印について、なぜ本物の金印が2つ存在するのだと、意味深な文章を書いた学者がいる。東洋史学の宮崎市定京大名誉教授(1901-1995)。92年刊行の新書の一節で目にした私は気になって仕方なかったが、詳しいことはその後も書かれずじまい。もっとはっきり書いて欲しかったと思う。

 

 先に、私は大正11年秋の京都・知恩院山門での市川左団次の野外イベント「織田信長」について触れた。10万人もの観客が集まる大々的な催しだったが、人波が前へ前へとなだれ込み、芝居はあっさり開幕直後中止になったものだ。

 

 この観客の一人に、京都帝大1年生だったこの宮崎氏がいて、この時の体験を文章にしていたのに気づいた。(「木米と永翁」所収の「左団次のページェント」=初出は「洛味」昭和33年)。宮崎氏は高校時代の友人と早々と会場に詰め掛けたのだった。青竹の柵の後ろの最前列で、柵につかまって公演を待っていたという。

するといつもの京都人の悪い癖で、後から来た者が、少しの隙間でもあると、そこを潜って前へ出ようとするものだから、それが全体としては大きな圧力となって前を押すことになる。私達は青竹につかまって、後から押す力を支えていたが、圧力がじりじりと高まってくるので少しく危険を感じ出し、残念ながら一番条件のいい立見席を放棄して、ずっと遠くに離れて眺めていた」。開始前から、危険を感じ取っていたことが分かる。

 この野外劇で演出助手をした土方与志の回想を前に引用したが、一か所意味が分からない箇所があった。

続々つめかける観衆によって、広場の周囲に張りめぐらされた竹柵や綱が破られて了った。押しひしめいてわりこんで来る観客の波のために、遂に前の方に演技の余地を残して坐っていた観衆が立ち上がった。/佐々成政の手勢が下手寺院から仮装して踊り出たのが、観衆の中に捲き込まれて了う

 

 この「前の方に演技の余地を残して坐っていた観衆」とは何だろう。若き歴史学者ははっきり書いていた。

太い青竹の柵で広く地面をかこって、一般人はそれから中へ入れぬようにしてある。内部はござを敷いて、特別の来賓席を設け、ひいき筋らしいのがポツポツやってきて、下駄をぬいでござの上に座り出す」。

 

 坐っていた観衆とは、特別席へ招待された観客だったのだ。

 

 宮崎の証言を続けると、「群衆の圧力が青竹の柵を押し倒してしまった。前列にいた者の中には恐らく倒された者もあっただろう。他の者は大波のように蓆をしいた特別席になだれこむ。今度は特別席にいた者が驚いて下駄をもったまま、跣足で山門の方へ逃げ込んだのである

 

 避難していた宮崎たちは「まアよかったというような安心感と、特別席に対する些かの反感や、それが潰れたことの快感めいたものを混じえながら、冷ややかに見物しておれた。係の人らが出て、何か叫びながら群衆を整理しようとするが、群衆はもう山門の下まで入ってしまって、一向に退散しようとしない。(中略)いつまで待っても再開しそうにないから、私達もあきらめて帰ってしまった」と書いている。

 

 30年後、宮崎は、昭和23年9月16日付朝日新聞に掲載された「演出側の責任者の一人」土方の追想の談話の切り抜き記事を発見して怒りをぶつけている。

 

 その記事には、「幕が上がると信長に扮した左団次が山門の楼上に現れ、大見得を切ったあと、階段からお稚児さんが下りて来たとたん、群衆はドッとなだれを打って稚児を取りまいてしまった。(中略)京都の観客は左団次より稚児さんに魅力があったのです。(中略)それ以来、芝居をするたびに不意に観客があばれ出しはしないかという恐怖がどうも抜けません」と記されていた。

 

 宮崎の反論は、「これではまるで京都市民は下等な観客で、稚児さんを見ると熱狂して我を忘れて舞台へとび出したという風に聞える。冗談ごとではない! 京都市民は稚児さんの行列なんぞは見飽きるほど見ている

 事故の原因は、京都市民の性格を知らずに安全対策を立てなかった主催者で、「電車に乗るにも降りるにも、その他何の時でも、後から押す癖があって、これだけは死ななきゃ直らない。こういうところへ青竹の柵などを立てて大丈夫だと思っていたのが間違いのもとであった」と続けている。

 

 (後ろから押す癖がある、と宮崎が繰り返し指摘する京都人の性質は、京都人の名誉のために書くと、今は消えてしまっているので同感は出来ないが、大正時代の京都では日常的な光景だったようだ。)

 

 怒りは収まらない。櫓の上で演出助手をしていた土方が、あの出来事で恐怖が埋め込まれて消えないと発言したことに、「土方与志氏のような人でさえも」「地上から数メートル高い所にいると、もう人民の感情は分からない」「民衆の悲鳴を歓声だと聞き違え、必死の避難を打ち壊し運動と勘ちがいして恐怖心をいだくようにまでなる」と批判している。

 

 当時の朝日新聞掲載の談話が、きちんと土方の思いが伝わっているのかも分からない(その後の、回顧と違っている)が、演出側と観客側と、2つの立場の人間の文章を読んで、実際の出来事がより鮮明に見えてくるようだ。

 

 

 

 

 

  

ハンベンゴロウと林子平

 久しぶりに知人と渋谷道玄坂の店に繰り出した。若い男女の人波をかいくぐって、坂を上っていった。店の客は年配ばかり。女将さんもかっぽう着姿。渋谷にいることを忘れさせた。

 おでんがあったので、はんぺんを頼んだ。「ハンペン」と口に出しながら、「ハンベンゴロウ」を思い出し、ハンベンゴロウって、なんだったかと気になった。

 

 翌日、氷解した。べニョフスキ。VAN BENYOWSKYを、江戸時代の日本人は「ハンベンゴロウ」と呼んだのだった。

 

 MORITZ ALADAR VAN BENYOWSKY

   マウリツ    アダル   ハンベンゴロウ

 

 1767年、ロシアの強権支配に反発して立ち上がったポーランドの旧教徒らとともに戦ったハンガリー将官。捕虜になり、東の果てカムチャッカに流されたが、ロシア船を奪って逃亡。伊豆、阿波、土佐と日本の東岸に立ち寄りながら、ルソン、マカオに南下して脱出した人物だった。明和8年(1771)のことだった。

 

 幕府は知らず、連絡が届いたのはロシア船の琉球到着後。ハンベンゴロウから書簡が届いた長崎阿蘭陀頭役人が幕府に知らせてからだった。

 ハンベンゴロウは、やがてロシアが南下してくるので、日本は警戒した方がいいと忠告した。日本にも反ロシアの立場をとらせる狙いもあったと思われる。

 

 これが契機で、北方警護の議論が生まれる。天明(1781-1789)になると仙台藩林子平らが動き出す。

 

 

 上の図のような、南北逆さにした日本周辺地図は、最近よく見かけるようになった。大陸から日本列島がどう見えるか、地政学的な関心からだ。天明年間、林子平はこの逆さ地図を作り、また王政復古思想を抱いていた光格天皇もこの地図を目にしていたのだった。

 左上部の北海道の地形が細長く、樺太も島と認識されていなかったが、日本列島がロシア、満州ユーラシア大陸や、朝鮮半島と島々でつながり、日本海がそれらに囲まれた大きな湖沼のように描かれている。

 日本海の真ん中には、「朝鮮、琉球蝦夷幷ニカラフトカムサスカラッコ嶋等数国接壌ヲ見ル為ノ小図」の表記。

 

 林子平はハンベンゴロウの書簡、ロシア艦船の南下の事実を重く受け止め、日本を取り巻く状況を理解するための地図「三國通覧」を刊行したのだった。

 

 天明8年、光格天皇が「三國通覧」に目を通したと、京の書肆村田治兵衛から連絡があると、勇んで上洛した。中山愛親中納言と、内裏に食い込んでいた高山彦九郎と会い、彼らに懸命に海防を説いたが理解されなかった。失望して戻った子平は翌年寛政元年、老中の松平定信に説明するが無視された。危険人物としてマークされたようだ。

 

 寛政2年、高山彦九郎蝦夷へ出かけ、帰途仙台藩へ寄り子平を訪ねた。残る寛政の三奇人、古墳研究家で国学者蒲生君平も子平に会いに来た。そうしたこともあってか、翌3年子平は決意し、海防の重要性を説く「海国兵談」全巻の刊行に踏み切った。

 

 幕府は12月、仙台藩に子平の逮捕を命じて江戸に檻送させた。上記二書も没収処分。「取留も之なし風聞又は推察を以て異国より日本を襲候事之有べし趣奇怪異説等取交ぜ著述」したと、仙台での蟄居を申し付けた。

 

 黒船来航など開国を求める列強艦隊の到来を幕府は見抜けず、準備する機会を失った。子平は、蟄居のまま寛政5年6月21日に歿。その一週間後幕府に追われた彦九郎もまた九州で自刃した。

 

 ハンベンゴロウの方は欧州に戻ると自伝を出版。ドイツ作家が武勇伝を戯曲化。フランスでオペレッタとなり、自国ハンガリーで1847年にオペラ化された。

 ロシアと戦ったハンベンゴロウは、今も祖国ハンガリーの英雄として1975年にTVドラマ化、2009年にはTVドキュメンタリー、2012年に映画化されている。

 

 ロシアと東欧の戦火の波が、江戸時代中後期、日本にもハンベンゴロウによって届いていたことを、はんぺんをきっかけにしてあらためて思ったのだった。

 

 

 

 

 

70歳の白箸翁と深草の土器翁

 事務所近くの理髪店は主人を入れて3人が働いて居る。客としては、誰に当たるかで、若干髪型が違ってくる。3人のうち、ひと月位経っても、髪型が崩れないのが唯一人の女性理髪師だ。

 今回店に行くと、その女性がおらず2人で回していた。主人は「病院へ検査に行きました。なにせ73歳ですから」。女性はよくゴルフの話をしながらバリバリ働いて居る。60代だろうと思って居たので、「エッ」と反応した。

 

 平安時代前期の貞観年間、京で白箸を売る70歳の翁の話を、紀長谷雄(845-912)が書き留めている(本朝文粋)。

前賢故実」に描かれた白箸翁

 

 白箸というから、何も塗っていない削った木の箸なのだろう。自らは70歳といっているが、長年箸売りをしているので、市中で誰もが知って居た。不思議なのは、楼の下で営業する80歳の占い師(これも高齢だが)が、「私が児童の頃からあの年取った白箸翁を、あの姿のまま路で見かけたものだ」と証言したことだ。

 70歳どころかとうに100歳は超えているのではないかとささやかれた。やがて翁は亡くなり鴨川の東岸に埋葬された。しかしその20年後、市にやって来た僧が、山の石室であの翁を見た、香を焚き、経を唱えていたと目撃談を披露したのだった。

 

 この白箸翁の話は興味を持たれ、平安末の「本朝神仙伝」から江戸初期の「扶桑隠逸伝」と語り継がれた。

 

 江戸時代中後期の俳人与謝蕪村は、京の南の深草の土器(かわらけ)売りに、この面影を重ねて文を作った。

 

深草の辺に年久しく隠れ住む怪しき翁ありけり。手づから土器を作りて、いつも歳の末には自ら荷ない出て、都の町々を鬻ぎ歩くのみ。常は何営むともなく草の戸細深くかき籠りて、その齢幾許といふことを知らず。昔時より老にして今も老なり。かの白箸の翁の類ひにやあらむ、いとゆかしきことなり

 

 蕪村は、平安時代の白箸翁に対し、江戸時代の素焼きの器を売る翁を配して不思議な物売りを再現しようとしたようだ。年の暮れ、正月用の燈明皿などを売りに行く翁に。

 

 当時、京では白幽子という石川丈山の使用人(あるいは師)なる者が200歳を越えて生きているという話が広がっていて、仙人のような長寿の翁に関心が持たれていたようだ。

 

 京の深草は、嵯峨、幡枝とともに土器の生産地だった。深草の陶土を用いた土器は古い歴史をもち、近世になると伏見城の瓦や伏見稲荷の土鈴、それが発展した伏見人形などが作られだした。

 

 蕪村の時代、柳沢里恭(1704-1758)が京などで見聞きした話を集めた「雲萍雑誌」の中に、伏見の土器、人形を売る翁の話が掲載されている。

 

伏見より年七十歳ばかりなる老翁。土偶人瓦器(つちにんぎょうかわらけ)の類を荷ひて。洛中を売りありくなり」。

 

 シチュエーションは、蕪村と同じだ。

 行商の翁が京に到着して商い先で食事していると、店の奉公人が、年老いた商人に興味をもって集まって来た。

「荷物は総額でいくらくらいか。」「銀15、6匁ほど」。

 奉公人は大荷物を抱えて商売をする年寄のことが気にかかる。京は人の往来が多い所だから過って品物を割ったらどうするのか、と質問する。

「こちらの過失であれば、借りて商いを続ける。一荷くらいなら信用で借りられる」と翁。

 奉公人たちはさらに聞く。そのうえでまた壊したらどうするのか。

 翁は、もう無心も出来ないだろうから「その折こそ、其許達のごとく。奉公なりとも致すより外に、せんかたなし」と言い放ったのだった。

 

 京の若い奉公人を相手に、70歳のしゃきっとした姿が浮かび上がって来る。どうやらこの時代には蕪村の描くような不思議な土器売りは稀で、活発な商品経済を担うこんな元気な老人が多かったようだ。

 73歳の女性理髪師を思い浮かべてそう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高山彦九郎「京日記」から見えること

 上皇さまが皇太子のころ、来日音楽家の御前演奏会の手伝いで東宮御所に入ったことがある。ガラス張りの広間で、指揮者の渡辺暁雄さんの司会者で、両陛下と数十人のお客さんが鑑賞するなごやかな会であった。

 演奏後、歓談の場があって、招待を受けていた旧知の音楽学者と会って、「どうしてここに」とお互いびっくりした思い出がある。

 企画した人物は、著名な海外の音楽家を介して、一歩一歩、東宮の侍従方と信頼関係を作り上げ、皇室でこのような催しを実現できたのだった。

 

 今回、勤皇家高山彦九郎の「京日記」を読んだところ、天明、寛政年間に光格天皇の内裏に出入りしていたことにいささか驚いた。上野国太田市)の郷士の二男だった彦九郎は、人間的な魅力のある「人たらし」だったとしか思えない。

 彦九郎が天明3年に初めて禁裏に入ったのは、前に記した篆刻家高芙蓉のおかげだった。国学を通して親しくなった35歳の彦九郎は、前年暮に上洛すると高の家で寝泊まりした。高は、東坊城家の門人で公家たちに篆刻を指導していた。東坊城勘解由長官に紹介すると、気に入られたのだろう。東坊城の計らいで元旦節会の見学が出来た。

 

 彦九郎は、仙洞御所の前で拝礼後、江口図書宅で礼装(熨斗目、麻上下)し、下立売御門から、東坊城勘解由長官殿へ向かい布衣を纏った。唐門から禁裏へ入ると、杉山氏が案内役となって高辻家の家士のたまり場で大礼の開始を待ったという。

坊城殿に庭上に謁しけるに、兼てより知りぬとてしたしく、紫宸殿前庭上を引廻られて、御節会大礼の式を示されける

 東坊城殿がやって来て、かねてからの知り合いの様に振る舞って紫宸殿前庭=下図青枠=を廻り、大礼の説明をしてくれた。

 

 

月華門の辺りにて、平田若狭守なるものに、御節会拝見あるやうに頼みありて昇殿せらる」。平田若狭守に話が通っていて、前庭の西側の月華門=上図赤丸=から昇殿。「内弁は鷹司左府、殿上卿は大炊御門、広橋、滋野井、広幡殿ぞ見し」。彦九郎は感激して「手の舞ひ足の踏む事も知らずぞありける」という状態だった。

 後ろで若い公家たちが笑い、付き添っていた江口図書に指摘され、烏帽子の紐がほどけているのに気づいた。彦九郎は陣座(近衛の警護の場か)で儀式を最後まで堪能したのだった。超異例の待遇だ。

 

 次に上洛したのは、寛政2年暮。高芙蓉は江戸で没していたので、彦九郎は岩倉三位具選の邸に寄留した。高は彦九郎が天明2年に上洛の際、多くの公卿と知り合いになるように、高辻胤長の門下で学ぶようにと進言したが、同じ門下だった伏原二位、岩倉三位ら公卿と期待通り懇意になったのだった。

 翌年正月7日には、彼ら公卿のおかげで、禁裏での白馬の御節会へ入り込むことが出来た。

厨子所預高橋采女正(宗孝)の所に至る、狩衣を着して朱の唐櫃に従ふて、日の御門を入る」節会のスタッフに扮して参内したようだ。「平松三位(時章)殿岩倉三位殿と、予を尋ねらる」。公卿たちは彦九郎の様子を見に来た。

 

 二月には宿直で詰めた仙洞御所の梅花を二枝を折って、岩倉三位は彦九郎に土産として届けた。三月には光格天皇が「高山彦九郎といへるものをしれるや」と関心を持って公卿たちに尋ねていることを聞かされた。

 

 彦九郎は、琵琶湖で捕獲された「緑毛亀(みのがめ)」を知人志水南涯から手に入れると、「神亀」に違いないと岩倉三位に見せた。(中国の「渕鑑類函」に≪亀の毛のあるものは「文治の兆」であり、緑の毛があり甲が黄のものは「祥瑞」である≫と書かれている)。

 

 岩倉三位は宿直のとき、上皇の御桜町院に緑毛亀について話すと興味をもって光格天皇に伝え、彦九郎は南涯とともに亀を禁裏に届ける運びとなった。天皇は瑞祥であると喜んで声をかけ、亀は献上され仙洞御所の池に放養されたという。

 

 彦九郎の宮中への食い込み方には驚くべきものがある。

 

 幕府は復古思想を掲げる光格天皇の動きを警戒し、まず親王格の実父に太上天皇の尊号を贈ろうとした天皇に圧力をかけ(「尊号一件」)、周辺の勤皇家を捕縛した。対象になった彦九郎も追い詰められ、寛政5年九州久留米で自刃した。

 やがて、彦九郎は尊王の志士たちによって神格化された。

 篆刻家の高芙蓉が彦九郎を宮中に紹介し、その後の歴史に大きく影響を与えたことが分かる。芙蓉は、金印偽造に関与したなどというレベルの人物とは違うように思えてくる。

 

 

 

 

 

 

秋里籬島と藤貞幹の密かな関係

 江戸中後期に多くの名所図会を編輯した秋里籬島という人物も謎が多い。

 藤川玲満氏の「秋里籬島と近世中後期の上方出版界」(14年、勉誠出版)を取り寄せた。同書によると、近年秋里の出自に関する史料が発見され、祖先は鳥取市にあった因州秋里城主に仕えたが、祖父の代に京都に出て医師を業とし、父は質屋を営み、本人は俳諧師となったらしい。(真葛が原の芭蕉堂の興行にも参加し、西村定雅とも接点があったことが確認できた。)

 俳諧師の秋里がどうして「都名所図会」「京の水」「大和名所図会」等の大著を編輯することになったのか、膨大な知識をどうして手に入れたのか、という疑問は同著で氷解した。京阪の出版界に進出を企てた「吉野屋為八」の存在だ。

 

 米穀、灯油の相場で大儲けした為八は、新たな投資先に出版を択んだのだった。当時出版業の版元たちは堅固なギルドを作って、外部からの進入を排除した。為八は、版元たちの未刊、既刊の本の権利を高額で買い取ることによって、閉鎖的な出版界に入り込み、安永年間に京都寺町通五条上ルで創業したのだ。

 初めは仏教書などを手掛けたが、為八は、名所案内本に目をつけたらしい。安永9年に秋里と画師竹原信繁を起用して完成した「都名所図会」は、権利を買った名所案内の「山州名跡志」や「山城名勝志」などを下地にして編修して刊行したものだった。

 

 初めは売れなかったものの、江戸に上る小浜藩の酒井侯が、知人への土産に「都名所図会」を択んで十数部買ったことがキッカケで、人気に火が付き、当時としては異例の大ヒット(瀧澤馬琴は「異聞雑稿」で4000部と記している)となって、為八はすぐ元手(2000両)を取りかえしたという。

 

 秋里、竹原コンビで、吉野屋が刊行した「大和名所図会」もまた、権利を買い取った「広大和名物志」を下地にしたものだった。この本から大半を転用し、秋里は新しい情報を付け加えて整える役割だったようだ。

 



 さて、好古家の藤貞幹と籬島の関係だが、また不思議な事実にぶち当たった。

 貞幹が寛政7年に刊行した「好古小録」で紹介した「元明天皇御陵碑」=写真上=と同じ碑文が、この4年前の寛政3年、籬島が編修刊行した「大和名所図会」に「春日社函石」=写真下=として先に紹介されていることだ。

 

 実は、この碑文は、江戸時代後期の考証家狩谷棭斉が、藤貞幹の贋物作りの証拠として挙げた重要な史料なのだった。貞幹の再現した碑文と、実際に奈良坂の春日社の庭に残る石碑を比べ、表面が擦り切れたとはいえ、文字の位置が石碑の凹みと符合しないとして、偽物と断定したのだった。

 

 その碑文が貞幹の書の前に、籬島の「大和名所図会」で紹介されていた。ということは、貞幹ではなく、籬島こそが、疑惑の対象になってしまうことになる。しかも秋里の「大和名所図会」の「元明天皇御陵碑」には、貞幹が「好古小録」に書いていない重要な記述がある。「此碑銘東大寺要録に載たり」という文章だ。

 

 連休を利用して「大和名所図会」の下敷きとなった植村禹玄「広大和名勝志」をアーカイブで目を通してみた。他の名所は重複するものが多かったが、函石の碑文は紹介されていなかった。禹玄が書いたものでなく、籬島が補足してあらたに書き加えたものであると推測できた。

 

 貞幹と籬島との出会いは、寛政3年の「京の水」の刊行の前(同元年か2年)であると思われる。「大和名所図会」は同3年の刊行。したたかな籬島が、知り合った貞幹を口説いて編修の協力を仰いだ可能性も捨てきれない。

 

 貞幹が籬島の文章を見て碑文の存在を知り、「好古小録」に記したとは考え難い。寛政3年より前に貞幹は史料を手にしていて、貞幹が籬島に史料を渡し、解説を伝えたため、「大和名所図会」で紹介されたのではなかろうか。2人には密な関係があったのではないか。

 

大和名所図会」では、碑文で「乙酉」を「己酉」と一か所誤記している。私は、「京の水」の紫宸殿の元日の宴の図で、不可思議な「鳥瓶子」が描かれたことを思い出した。貞幹から情報を受け取る際に、籬島側が勘違いして、間違えた例の一つなのではないか。

 

 貞幹の偽造の疑いは晴れた事にはならないが、碑文が「続日本紀」や「東大寺要領」に記されていたものを参考にして再現したのであれば、「那須国造碑」の時と同様に、悪意から来る「贋作」ではないように思えてくる。

 私が始めに抱いた貞幹のイメージは、だんだん払拭されてきた感がある。

 

 贋物作りとレッテルを貼った70年代の学者の説が、その後の学者によって伝言ゲームのように言い立てられ、藤貞幹がまるで悪人のように誇張され、私もそう思い込んでいたことを恥じるしかない。

 

 今回、阪本是丸氏ら沢山の学者が、貞幹の事蹟を探り実像に迫ると共に、結果的に「偽書作り」の汚名を晴らす堅実な仕事をしていることも知った。

 

 

 

 

 

 

 

 

ほろ苦い立原翠軒の上洛

 ささやかな地異は そのかたみに
 灰を降らした この村に ひとしきり

 

 早逝した昭和の詩人立原道造の「はじめてのものに 」は、いまも出だしだけは覚えている。浅間山の小噴火で、ふもとの村に灰が降ったのを、こんな風に表現するのだった。

 同じ学び舎で建築家丹下健三の1年先輩でもあった。彼の設計した、ささやかな小屋「ヒヤシンスハウス」は浦和の別所沼の畔に再現されている。出来立ての頃に訪ね、中に入ったがあまりに狭く小さな空間なのに驚いた。

 

生田勉「立原道造の建築」(ユリイカ1971年6月号)



 今調べている水戸藩士の立原翠軒は、道造の直系の先祖と知った。

 

 寛政年間、翠軒は京の藤貞幹と頻繁に書簡のやり取りをした(6年間で50通)。訳を知りたくなった。

 天明の大火で家を焼かれた貞幹が江戸を訪問した折、二人は知り合った。翠軒は水戸藩シンクタンク「彰考館」の総裁の地位にあった。それまでは、同館で「異学を唱え、古学を好む学者」として排斥されたが、前総裁の名越南渓(幕府・林家と連携する儒者)が没し、総裁に抜擢されたのだった。

 

 国学者といっても、翠軒は学問に専念していたのではなかった。藩主治保の政策顧問として政治にも関与する立場にあった。天明の大飢饉で、水戸藩は経済的危機に陥った。徳川御三家でも尾張紀州両藩と違い、水戸藩は開府以来構造的な財政難を抱えていた。翠軒は、懇意の経世家本多利明の意見を取入れながら、北蝦夷地開拓、那珂湊から江戸への海運インフラなどの構想を打ち出した。(参考:西岡幹雄氏「18世紀後半以降の後期水戸学派の政策思想と立原派の産業経済論」(2000年「経済論叢」52-1)

 

 それらとともに、翠軒が取り組んだのが、徳川光圀百年忌(寛政11年)を前に「大日本史」の問題解決だった。光圀が号令をかけて開始した「大日本史」の編纂は、享保5年に刊行の運びとなったが、幕府の許可を得たものの、朝廷に伺いを立て伝奏官に拒否された。南北朝正閏問題に関して、南朝正統を打ち出し、三種神器を持つものが正統な皇位継承者だという立場をとる史書にダメ出ししたのだった。

 

 翠軒は、水戸藩の長年の課題を、藤貞幹に頼って乗り越えようとしたのだった。

翠軒総裁となるに及ひて深く慮る所あり 其身嘗て和歌を日野大納言に学ひ且つ藤叔蔵貞幹等と文字の交ありしを以て其等の紹介によりて裏松三位入道固禅に通することを得たり 扨入道に対して義公著書の本意は敢て私に南北朝を軽輊(けいち)せしにあらず一に統を神器の所在に繋き専ら天朝を尊むに在りしことを弁明して日本史の校正を入道に託せり 是れ入道をして側面より修史の主旨弁明するの任に当たらしめしなり」(大正4年、友部新吉編「立原両先生」)。

 仙台で刊行された立原翠軒、杏所(南画家)親子の評伝に、知りたいことが書かれていた。

 翠軒は、そもそも日野大納言(日野資枝・すけき・権大納言のことか)に和歌を学んだが、江戸で知り合った貞幹の伝手で、光格天皇に信用のある固禅を紹介してもらい、新たに編修した「大日本史」の校合を頼み、刊行許諾の側面援助を期待した、というのだった。

 寛政7年固禅、貞幹への校合のお礼に水戸藩から翠軒は門人2名と共に派遣されたが、目的は朝廷側の許諾を得るためだったと見られる。

 

 京都訪問の様子は、翠軒の「上京日録」(「寛政七年乙夘上京」=同志社大学デジタルコレクション)に書き残されている。

 3月中旬に上洛後、風邪で宿に寝込んだ翠軒を連日のように貞幹が訪問した。(翠軒は当初、貞幹を「叔蔵」と記しているが、途中で「藤翁」に変わる)

 快復後、藤翁の案内で、京での法隆寺地蔵院、安養院の仏像、宝物の御開帳を見、円山での書画会を鑑賞の後、藤翁が「名儒皆川文蔵」と立ち話するのを目の当たりにしたことなども書かれている。

 3月27日に裏松公と会う段取りが付くと、翠軒は日野、今出川、二条などに上洛の挨拶をした後、裏松家を訪問。海の幸の進物に、校合の礼金白銀15枚を添えて出した。帰途、「(松本)文平ヨリ叔蔵ニ銀十枚ワタシ」とあり、校合の礼金を貞幹にも手渡した。

 

 銀一枚は、銀43匁が入った紙で包まれた「包銀」と思われる。現在の価格で5万円程度とされる。裏松固禅には15枚で75万円、藤貞幹には10枚で50万円ほど渡ったようだ。

 

 翠軒は使命を果たすため、4月11日に裏松公を訪問し、藤翁と同公に京での「日本史」の評価と、刊行が認められる状況なのかと切り出す。藤翁は、広橋殿(伊光)とも話しているが、多事のためまだ結論がでていないと返事し、固禅も今更、この話を持ち出すことはどうだろうか、むしろ水戸藩の姻戚の二条今出川家から申し出れば容易だろうと示唆するにとどまった。

 慌てたのだろう、翠軒は翌朝二条今出川家を訪ね、一から説明をするが、ここでも色よい返事は得られなかった。光格天皇二条家は前に記したように考え方の相違もあり、いい関係ではなかったのだ。

 

 裏松固禅と藤貞幹に過剰な期待を持ったが、彼らにそのような力はなかったことを、思い知らされたのだろう。失意の翠軒は、この後、自らの学問対象の大和の古墳、吉野の南朝の遺跡などを精力的に訪ねて過ごした。

 大和の三輪では、竹口栄斎と出会った。津久井尚重という貞幹と近しい国学者で、翠軒は欄外に「南朝補任要録」の著があると書き残した。

 これは、貞幹の研究者にとっては見逃すことが出来ない重要な書付らしい。

 貞幹の偽書とされた「南朝公卿補任」の要録を尚重が著しているということは、貞幹の偽書説を疑う根拠になるというのだった。

 

 水戸の律儀な国学者と、一筋縄でいかない京の公家との交錯は、いくつかのドラマを紡いでいるようだ。

 

(寛政11年の光圀百年忌に、翠軒は光圀廟に編修した「大日本史」を献じ、光圀の遺命に応えた。この間、彰考館内では藤田幽谷らとの激しい対立を呼び、4年後の享和3年、致仕を命じられた。)