不思議な鳥瓶子と貞幹

 

「都林泉名所図会」(寛政11年)で真葛が原の俳諧師西村定雅、富土卵の作品を取り上げた秋里籬島のことを前に書いたが、彼は好古家で考証学者の藤貞幹とも接点があった。

 秋里は、安永9年「都名所図会」6巻を刊行し大ヒットを飛ばした人物。都の東西南北、それに南北の郊外の名所、計731か所を絵入りで紹介する見事な京都ガイド本を拵えた。天明7年には続編「拾遺都名所図会」を刊行している。

 

 ところが京都は天明8年に大火に見舞われ、大半を焼き尽くしてしまった。光格天皇も御所を焼け出されて、聖護院に避難。王朝時代の御所を再建する決意をした天皇は、2年後寛政2年復古調の内裏が完成すると、派手な還御パレードを催して戻ったのだった。

 このタイミングで、秋里は往年の内裏の地図「大内裏御図」、都の地図「花洛往古図」とともに、内裏の建物の由緒を記した「京の水・麟之巻」、京の街角の歴史を再現する「京之水・鳳之巻」の刊行を企画したのだった。

 

 秋里が頼ったのが、内裏の復古的再建にあたって、重要な役目を担った裏松固禅。長年に亘って「大内裏図考証」を手掛け、過去の内裏の様子を研究していた。そして固禅を支えた藤貞幹。

 

 秋里が貞幹を訪ねたことは、江戸の国学者立原翠軒宛の貞幹の書簡(寛政4年10月16日付)で知れる(「藤貞幹書簡集」文祥堂書店、昭和8年)。

 

京の水事作者秋里仁左衛門与申者右書藁持参仕候而私ニ校合致シ呉候様相頼申候得共少々存入之義御座候ニ付辞シ申候」

 

≪京の水の作者秋里仁左衛門(籬島)と申す者がその草稿を私の元に持って来て、他の文献などと照らし合わせて誤りがないかチェックしてくれないかと頼みに来たことがあったが、少々思うところがあって断った≫

 おそらく寛政2年の刊行前だったのだろうが、あっさり断ってしまった、と翠軒に伝えている。

 

≪裏松固禅公にも一昨年の春に、他の手蔓で面会を申し出たが、忙しいので、私の元に訪ねさせるから代りに会ってくれと言われた。故事故実などを好んで知りたがり、人となりを吟味したが信頼できる人物ではなく、口腹(利益)のために編集をしているように思えた≫と協力しなかった理由を語っている。

 

 なぜ、「京の水」刊行して2年ほど経って、経緯を語っているのだろうか。この前に翠軒に出した7月8日付書簡に、「京の水之事高野氏よりも被仰聞候」と記しており、翠軒からも同書について同様の質問があったと思われる。

 ちょうど、固禅が貞幹の協力の元、長年に亘る「大内裏考証」をまとめ、仕上げにかかっているさなか(寛政6年には天皇から同書の献上を命ぜられた)、どうして似たような内容の「京の水」が刊行されたのか関心を持たれたのではないか、と推測される。あるいは、貞幹の関与を疑っていたのかー。

 

 貞幹は、秋里の草稿について、南殿(紫宸殿)と中殿(清涼殿)と混同していたので、一点だけ注意したが、その後印刷したものを見ると草稿のまま直っていなかった、と不満を述べながらも、助言をしたことを記している。

 加えて秋里が刊行した「大内裏御図」「花洛往古図」については、≪秋里は困窮し、内裏御造営方へ筆耕の仕事で雇われて入り込み、内々に筆記していたものを二冊の書にしたもので、格別間違った箇所はないようだ。だが宮中の事だけに私どもが是非をとやかくは言えない。これは売買はできないことになったとようだ≫とも書いている。

 

 内裏御造営方に入り込むのは、秋里だけの力では無理だろう。貞幹が詳しく書いている所からして、貞幹自身この間の事情を知っていると思われる。あるいは、直接関与していた疑いも否定できない。

 

 貞幹は、「好古小録」「好古日録」の発行人の一人、出版元の佐々木春行(鷦鷯惣四郎)に住いを提供してもらうなど京の出版界との関係は浅くはなかった。

 

 あらためて、「京の水・麟之巻」に目を通してみた。専門性が問われるこの文章は、本当に秋里が書いたのだろうか、と思えた。また、貞幹の指摘した南殿と中殿の取り違えは見つけられなかった。

 



 むしろ、南殿(紫宸殿)前の、不思議な鶏の大陶器に目を奪われた。紫宸殿の正月節会の様子を描いたもので、正面の左近桜、右近橘の近くに2羽の鶏が立っている。

「鳥瓶子」「胡瓶四口」と記されていた。

 

 

 同書の文章を見ると、紫宸殿前方右の「安福殿」の説明で、「同書(江次第)曰  元日節会立胡瓶二口安福殿ノ東庇」とあった。

 元日節会には安福殿の東の庇下に、胡瓶が二口立てられる。重陽(9月9日)の宴では文台を安福殿の東壇の上に立てるとも。

「京の水」に描かれたのは、この「胡瓶」二口らしい。「四口」と記されているという事は、安福殿二口のほか、紫宸殿にも別の二口が立てられたということなのだろうか。随分巨大なものに描かれている。

 

 

 胡瓶を調べると正倉院に2点残っていた。ガラス製の「白瑠璃胡瓶」=写真=と漆の「銀平脱漆胡瓶」。ガラス製は、「そそぎ口がつき、とってをもった胴ばりの胡瓶は、もとより西方の形式である」。漆のものは「胴がまるく、台が分離してゐるうへに、そそぎ口にふたがつき、それが鳥頭をかたどってゐる。ふたにはくさりがつき、とってはいたってほそい。籃胎の漆器で、表面は銀の平脱で禽獣花卉をあらはしてゐる。その作は充分にするどく、唐土の作であらうとおもふ」(水野清一「考古学上よりみた正倉院御物」=昭和23年「正倉院文化」所収)。

 

 おそらく、これに似たものが正月の紫宸殿脇の「安福殿」に置かれたのだろう。別の瓶子が紫宸殿にも置かれたとしても、「京の水」に描かれたものは、度を越した巨大なものに映る。なぜこんな鳥瓶子が描かれたのだろう。これにも貞幹が、関わっているのだろうか。謎が広がって来た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

那須國造碑と藤貞幹

 江戸後期の京都の考証学者、藤貞幹のことを考えてみる。

 彼の「好古小録」(寛政7年、1795)に掲載された「下野国那須郡那須国造碑」を眺めながら、どういう人物だったのだろうかと想像した。

 

 この碑は、700年に亡くなった那須直韋提を子供たちが追慕して墓の側に建てたもので、延宝4年(1676)草木の陰で発見され、村の大金重貞という人物が水戸藩主の徳川光圀に伝えたため、丁重に保存されたのだった(国宝)。光圀は助さんのモデルである佐々宗淳を派遣し、碑を祀る「笠石神社」を作った。

 

 貞幹が碑文の写しを入手したのは、寛政元年(1789)江戸へ東遊した時らしい。京都の天明大火で家を焼かれた貞幹は、翌年江戸の儒者柴野栗山を訪ね、東都の考証学の成果を吸収したのだった。持ち帰った大量の史料の一つが「那須国造碑摹本」だった。

 この時、栗山は松平定信の下で、広瀬蒙斎、屋代弘賢らと、古物を絵で紹介する「集古十種」(寛政12年、1800年刊行)の編輯に関わっていた。同書には、那須国造碑も掲載されていて、貞幹は、その写しを京に持ち帰ったのだろうと推測できた。

「集古十種」掲載の碑も見てみる。

 

「好古小録」で、黒く消されている碑文の文字は、貞幹が持ち帰った後、検討して不明と判断したものだろう。消された文字はなにか。

 

  ■■   宣事   (直韋)

  ■    視    (挑)

  ■    寄    (字)

  ■■   六月   (六月)

      

 カッコ内の漢字が、現在まで解読された文字。「集古十種」の4点の内、3点は異なっている。貞幹はそれを見抜いたことになる。下が、現在の定説だ。

    

永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造

追大壹那須直韋提評督被賜歳次庚子年正月

二壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘偲云尓

仰惟殞公廣氏尊胤国家棟梁一世之中重被貳

照一命之期連見再甦砕骨挑髄豈報前恩是以

曾子之家无有嬌子仲尼之門无有罵者行孝之

子不改其語銘夏尭心澄神照乾六月童子意香

助坤作徒之大合言喩字故無翼長飛无根更固

 

 貞幹の解釈が突出しているのは、出だしの「朱鳥四年」の表記だ。今では、永昌元年と読めるものを、貞幹は「朱鳥四年」と大胆に変えて記載している。

「集古十種」では、元号の永昌を欠字扱いにして、□□元年としている。どういうことなのだろうか。

    

 貞幹は、「此碑文先輩説アリ今ココニ挙ゲス唯朱鳥四年ヲ永昌元年トスルコト余信ゼザル所也。朱鳥ノ号ハ此碑ニ関ラズ二年ヨリ十一年ニ至テ諸書ニ此ヲ用ヒタリ。洗-者誤テ永昌元年トナセシナラム」(好古小録)と記している。

 もともとは朱鳥四年だったのを、「洗-者」が誤って永昌元年にしてしまった、というのだ。

 貞幹は、「碑文に関して先人の説がある」と書いているので、調べると、狩谷棭斎(1775-1835)の「古京遺文」を見つけた。

「集古十種」を編輯した広瀬蒙斎の碑文の元号解釈が紹介されていた。

 

 ≪蒙斎が言うには、(碑文の中国の元号)永昌元年は(689年で我が国の元号の)朱鳥四年に当たる。おそらく、碑を洗って整備したものが改作したのだろう。私も審らかに碑文を見ると、それらの3字だけ他と違っていることが分かり、蒙斎の説は信じていいように思う≫と賛成している。

 

「古京遺文」の欄外には、国学者中山信名(1787-1836)の「墳墓考」のことが注記されていたので、同書も探した。

この碑を得たりし時。朱鳥四といふ三字。よみかねたりしを大金何某という者。みだりにほうりうがちて。永昌元と云ふ文字の如くに造りなせり。故に異朝の年号を用ひしと思へるものまま聞ゆ。されどよくよく目をさだめて見る時は。朱鳥四の字形おのづから見る所あり。この三字。余の字面よりは際だちて。低く見ゆとぞ。是は大金がいたづら業をなし。時にしかなれるなるべし

 

 朱鳥四の三字が読みにくかったためか、洗者の大金某が、みだりに穿ってしまい、「永昌元」と見えるようにしてしまった。それで異国の(唐代・則天武合の時の)年号を用いたのだと思われるようになった。しかし刻字に目を凝らすと、朱鳥四と見えてくる。ここの三字だけが他より際立って表面が(削られて)低くなっているように見える。大金某がいたづらをしてこうなってしまったのだろう。

 いずれも、似たような解釈をしている。

 

 では、「集古十種」に掲載された拓本を見てみると、

 確かに、永昌元の3字は、狩谷棭斎が指摘するように他に比べて字体が違うように見えなくもない。いずれにしても、碑文を検証した江戸の学者たちは、みな水戸光圀の代に、故意かどうかは別に「朱鳥四年」が「永昌元年」に変化したと推測しているようだ。

 

 現代の解釈は「文章が漢字であり、中国風の墓誌の形式をとっているばかりか、年号まで中国のものを記している。大陸文化心酔の好例とも見られるが、又一面、文化指導者たる帰化人の手になったものとも見られよう」(尾崎喜左雄「多胡碑」中央公論美術出版、1967年)。このあたりが、平均的なもののようだ。

 江戸の考証学者の考えと貞幹の説と殆んど変わりはない。しかしながら、「□□元年」ととどめて掲載した「集古十種」の姿勢と、「朱鳥四年」と言い切って碑文を変えてしまう「好古小録」の姿勢は大きく異なっている。

 

 江戸時代から指摘された貞幹の「偽書」の疑惑についても、これに似た強引さが引き起こしたものらしい、とぼんやりながら見えて来たように思った。

 

  

シナモンが入っていた南蛮粽花入

 10年前の誕生日祝いに、神保町の店で細に買ってもらった「南蛮・島物」の花入壺は机の上に置いてあるが、孫娘がやって来ると、クレヨンや色鉛筆を壺の中に詰めこむ悪戯をして遊んでいる。

 頑丈なので、ちょっとのことでは壊れそうにないから、まあ許している。

 

猫は壺に無関心

 

  この壺は、18-19世紀の江戸時代にベトナムから油入れの壷として輸入されたのではないか、と推測してそのままになっていた。

 

  今回、京の好古家・藤貞幹の偽書作成の疑いについて調べていて、ひょんなことからこの壺について新たな発見があった。

 南朝の公卿たちの名簿が記された偽書公卿補任四巻」は、藤貞幹が「仮造シテ」「(岡山の)河本(公輔)ニウ(売)リタルナリ」と「況斎雑記」で言い切っている国学者・岡本況斎(1797−1878)について、調べている過程でこの壺に出くわしたのだ。

 

 彼の「況斎随筆」に、上図の壺が書かれていた。少し細めの壺だが、同種らしい。

飴粽花生(あめちまきはないけ)」。

 南蛮・島物は南蛮粽花入とはいわれていたが、江戸時代、こう呼ばれていたのだった。

 

 ならばと「飴粽花生」を、江戸時代の他の書物で探すと、戯作者田宮仲宣の随筆「嗚呼矣草(おこたりぐさ)」(文化3年、浪花書林)に行き当たった。

 飴茅巻は、茅萱で巻いた粽を大和の箸中で「あめちまき」と初めて呼んだこと、京都烏丸の道喜で売っている粽のように、藁苞(わらづと)の形に後先を括ったもののこと。そして、

交趾焼の壺の花生を飴茅巻といえるは形の似たる故なり」と飴粽花生のイワレを書いていた。

 

 交趾焼の交趾は、ベトナム北部トンキン・ハノイ地方。ベトナムで焼かれた壺であるのは間違いなかった。(「嗚呼矣草」の跋は下毛野朝臣敦光。京・真葛が原の洒落本作者・富土卵ではないか)。

 

 さらに、私が注目したのが、岡本況斎が「新来ナリ薬ヲ入テ来ルモノナリ」と記していたことだ。

 薬入れ。私が予想した油ではなく、薬が入っていたというのだ。ベトナムから江戸時代に輸入された薬はなにか。

 

「シナモン」らしい。肉桂、桂心など記され、漢方の生薬としてベトナムから輸入されていたという。とくに北中部ベトナム産の高級品が、日本にもたらされていたそうだ。(柳澤雅之氏「江戸時代のシナモンの受容と伝播」)

 

 況斎の断言が正しければ、わが家の600cc入りの壺は、シナモンの粉末の生薬が詰められて輸入されていたことになる。

 

 偽書探求からはそれてしまったが、長年の謎の解決へ一歩前進して、嬉しい気分になった。

 

 

 

 

 

金印と藤貞幹の篆刻知識

 江戸時代中、後期の京都の好古家であり、考証学の学者でもあった藤貞幹についても、金印偽作疑惑を調べてみることにした。

 京都の佛光寺塔頭久遠院に生れ一度は得度したが、18歳になって還俗した。仏教を嫌いその後「無佛斎」を名乗った。

 

 

 自ら彫った「無佛斎」の印刻もある。吉澤義則氏は「芙蓉山人(高芙蓉)韓大年(韓大寿)等と交際して自然篆刻の術も修得したものと見え(る)」(「藤貞幹に就いて」大正11年、「国語説鈴」所収)としている。篆刻を頼まれた例として、貞幹と同じ日野家の流れを組む裏松家の当主固禅からの書簡を紹介している。

 公家の本流・烏丸家から、傍流の裏松経由で、貞幹に印章を頼んだものだ。

扨(さて)からす丸より被頼(たのまれ)候

 烏丸 コノ字ヲ一寸二分位ノ印ニシテ古文字ニテ御入

 印石も足下のかたにて御ととのへ、足下江(へ)乍御苦労(ごくろうながら)御ほり被下(くだされ)候様ニと被頼(たのまれ)候

 

 3.6㌢四方に、古文字で「烏丸」と印刻してほしい、縦横どちらでもよいが、石は貞幹のほうにお任せする、としている。

 このあと、「印石ハ至テよきニハ及不申候 中位の石ニてよろしく候」と、高価な石でなく中位のものでいいと付け加えている。当時の公家の経済状態が伺われて興味深い。

 また、「古文字ニテ」という念入りの指示は、古物への関心が公家の名家烏丸家にあっても高まっていたことが分かる。

 

 金印にもどると、天明4年(1784)に、福岡で「漢委奴國王」印が発見されると、現地では直ちに亀井南冥が「金印弁」で本物だと鑑定をし、それと連携するかのような速さで京都の藤貞幹が、上田秋成とともに本物とする金印考を発表した。この年、福岡藩では亀井が館長となる新しい学問所「甘棠館」が落成したばかり。その打ち上げ花火のため、「金印」を偽造して、世に名を挙げようとしたのではないか、貞幹も一枚かんでいたのではないかという疑惑だ。

 

 貞幹が集めた古物を掲載する「集古日録」(寛政9年=1797)を、国立国会図書館オンラインで開き、あらためて金印を眺めてみた。金印をもとに貞幹が、模刻したものだろうか。文字をみると、真印とは別物であることが分かった。

 いちばん気になった文字は、「委」。模刻のものは、〇の部分が切れている。

 

 下の「委」のように、丸の部分は切れてはいけない、一連の線でなければならないのだった。

 もし、貞幹が金印の偽造にかかわっていたならば、「集古目録」で、このような不完全な篆刻が掲載されることはなかったのではなかろうか。篆刻に関しては、専門家の高芙蓉などの知識には及ばないことが伺われる。

 たとえ、金印が偽造されたものとしても、亀井南冥が頼るほどの偽造能力を貞幹は持ち合わせていなかったようだ。

 

 貞幹は興味深い人物で、もっともっと知りたくなる。前に、天明の大火で紫宸殿、仙洞御所が焼失した際、若き光格天皇が御所の復古的再建を主張して、幕府の反対を押し切ったことを記した。その時、天皇から内裏の再建のため協力を求められたのが、裏松固禅だった。固禅は「大内裏図考証」30余巻と皇居年表6冊を作成していたため、御所再建にあたって大きな任務を与えられた。

 その裏松に頼られ、史料を提供してきたのが、この藤貞幹だった。印刻を頼まれたように、裏松からは御所の再建にあたっても頼りにされたと考えられる。

 光格天皇は、国学儒学を唱える裏松(宝暦事件連座)ら公家の存在を背景に、古式を探り、復古を高唱するようになった。「王政復古」の原点だ。

 大衆文芸を取り込み二条家俳諧を始めた摂関家二条家に対しては、苦々しく思い対立した。

 光格天皇や御所の「復古派」の立場に藤貞幹もいたらしい。貞幹と、真葛が原の俳諧師たちとの立ち位置について整理すれば、この時代の京都の文人たちの理解が深められる気がしてきた。

 

 

 

 

 

金印偽造説と高芙蓉の潔白に就いて

 京都東山の真葛が原の住人だった俳諧師西村定雅、富土卵や、双林寺の芭蕉堂などについて調べてきたが、真葛が原には「大雅堂」があり、画家の池大雅(1723-1776)が、画家の玉瀾夫人と暮らしていた。

拾遺都名所図会

 

 蕪村は大雅と交流があり、「平安の一奇物惜しき事に候」と、俳人芦田霞夫への手紙で、画家の訃報をこう伝えている。

 

 大雅について書かれた相見香雨「池大雅」(大正5年、美術叢書刊行会)を読んでみて、興味深い箇所を見つけた。大雅は富嶽立山、白山に数度登った登山愛好家でもあるが、

 

九州の大儒亀井南冥が壮歳京師に遊学してゐた頃、一日大雅を真葛ケ原の草堂に訪ねた、時に大雅適(たまた)ま名山記を誦して居た」

「(大雅は)呵々大笑、終始山岳談ばかりで、更に画事に及ばなかった、それから五六日を経て、再び草堂を叩いたらば、大雅は富士登山に出かけて居なかった

 

 天明年間に福岡・志賀島で発見された「漢委奴國王」の金印を世に紹介した亀井南冥が、宝暦12年(1762)頃、京で学び、大雅堂を訪問した話が残っていたのだった。宝暦年間、大雅は「印聖」と呼ばれていた知友の篆刻家高芙蓉、書家で篆刻家の韓天寿とともに、富士山、立山、白山に出掛け三岳を登頂している。

 

 高芙蓉像(円山応挙画)と芙蓉作の刻印

 

 南冥と高芙蓉の名を目にして、私は、金印が江戸時代半ばにでっち上げられた偽印だったという強烈な著書、三浦佑之「金印偽造事件」(幻冬舎新書、2006)を思い出した。読みながら、あるいは偽印だったかもしれない、と思わせる内容の本だった。

 

漢代の古印の模倣を得意とする高芙蓉と、自ら贋作にも手を染める考証家の藤貞幹が組めば、金印「漢委奴國王」などいとも簡単に作れたに違いない。そして、それは芙蓉と貞幹の二人だけで企んだのではなく、福岡の南冥一派と組んでなされたとすれば、天明四年二月に志賀島から出土することに何の問題もなくなるのである」。

 京の大雅堂に出入りしていた高芙蓉と藤貞幹が偽造に一役買っているとの仮説だった。

 

 藤貞幹(1732-1797)については、偽書が取りざたされ信用できない人物として、一般的にも評価されているようなので、確かめるべく彼の「好古日録」「好古小録」に目を通してみた。どうだろう、集めた史料の膨大さに驚き、どれだけ古物愛好の情熱をもっていた人物か、よく伝わって来た。

古書画ヲ好ンデ、片楮半葉トイヘドモ、必ズ模写シテ遺サズ。金石遺文ヲ索捜シテ、寸金尺石、破欠椀ノ微トイヘドモ、古ヘヲ徴スベキモノハ皆模造シテ捨テズ」(故藤原貞幹略伝)と記されたことは、さらに貞幹の紀行文「寛政元年東遊日録」を読んで実感できたといっていい。(一戸渉「『寛政元年東遊日録』について ―附・慶應義塾図書館蔵本翻印ー」)

 日録には、江戸・駿河台の柴野栗山宅に泊まり、古書の書写ばかりか、松前からクナシリ島までの距離、ゴクラクチョウに脚がないという説が嘘であることまで、杉田玄白(あるいは養子の伯元)らから聞いたものが記されていた。好奇心の大きさに驚くばかりだ。

 

 高芙蓉はどうか。医師を継がず、甲州から若いころ京都に留学し、坊城家で故実典儀を学び、「篆刻の技、妙を得、海内無双と称した」「性質寡欲」の人物だったという(原得斎「先哲像伝」)。

 芙蓉が収集した「漢篆千字文」(寛政8年=1796)に目を通してみた。「原輯」芙蓉が集めたものを、曾之唯應聖が「増補」し、葛張子琴が「校閲」したものだ。

「漢委奴國王」の「漢」の文字をまずは調べた。ごらんの通り、40種類の「漢」を集めていた。

 

 では金印の「漢」はー

 似たもの()はあるが、金印の「漢」は、40種類に含まれていないことが分かった。

 偽印作成に芙蓉が関わったすると、40種類のうちから選ぶだろう。芙蓉の知らない「漢」が金印に使われたということは、この仮説があたらないことを証するものだと考えていいだろう。

 委奴國の「奴」の字は、「漢篆千字文」には収められていなかった。

 また天明4年3月の金印発見直後、まだ公になる前の4月に、芙蓉は水戸藩の分封の宍戸侯から招聘され京を離れ、妻子(妻も画家)と江戸の藩邸に向っていた。到着の数日後の4月24日に、芙蓉は没してしまい、京ではなく小石川の無量院に埋葬されたのだった。

 

 真葛が原の大雅堂に出入りしていた文人の名誉は守らねばならない。江戸中、後期の京の文人は、それぞれ手探りで学問分野を切り開いていった相当な人物たちだったように、私には思える。

 

 

 

 

長庚(蕪村)のうつし絵と松茸

 西村定雅が書いた「長庚(蕪村)がうつし絵」のことが、ぼんやりながら分かってきた。

 

 蕪村は天明3年(1783)に亡くなる直前に、宇治田原を訪ねたことを俳文「宇治行」に記していた。

 山里で茸狩りをしたものの、皆は先を争って探しに出て、蕪村は遅れをとった。

予ははるかに後れてこころ静にくまぐまさがしもとめけるに菅の小笠ばかりなる松茸五本を得たり

 出遅れもなんのその、蕪村は探し求めて松茸を5本も見つけたのだった。菅の小笠(おがさ)ばかりなる、というから径が20㌢以上はある大きなものだったようだ。

 

 その時、蕪村は「宇治拾遺物語」に出てくる丹波篠村の平茸の話を思い出した。篠村では毎年大量の平茸が生えていたが、ある時村人たちの夢に二、三十人の法師が出て来て、村を出て行く挨拶をした、不思議な事にその後平茸が全く生えなくなった、という話だ。

宇治大納言隆国の卿はひらたけのあやしきさた(沙汰)はか(書)いとめ給ひてなど松茸のめでたきはもらし給ひけるにや。

 宇治大納言隆国は、丹波のひらたけの怪しい話は書き留めたのに、なぜ宇治のめでたき大松茸のことを書き洩らしたのだろうか。

 そして一句「君見よや拾遺の茸の露五本

 

 

 この蕪村の小笠ほどの大松茸の話は、面白おかしく巷間に広がったようだ。蕪村が池大雅に当てた本物と見まがうほどの「偽書簡」に、大松茸が出てくる。

「十便十宜帖」を共作した大雅が蕪村に松茸を贈った返礼に、蕪村が月渓、月居とともに、大雅夫妻を食事に誘っている体裁になっている。

 

愚老無為にくらし申候、しかれば長さ〇さともに一尺あまりの古今未曽有の珍敷見事なる大の松茸一本御恵投被下、有がたし、是は何国の産物、何よりの御到来に候や、愚老此年まで如斯のしたたかなるもの見請けず」。

 30㌢余りの松茸を1本、届けて貰った蕪村が、どこの産かと驚いて聞いている。小杉放菴は「池大雅」(昭和17年、三笠書房)でこの書簡を真筆だと信じて紹介している。

愚老案ずるに、斯は丹州弓削村か、また河州弓削村の辺の山中より生出たるものとこそ存じ」と文は続く。

平生の蕪村を裏切る破格な狂味を帯びてゐる。甚だ信憑し難いのである」と河東碧悟桐は、書簡が偽物だと気づいた。(「画人蕪村」昭和5年、中央美術社)。弓削村の弓削は弓削道鏡の弓削にほかなるまい。

 

 京では、蕪村と大松茸が独り歩きしてしまったようだ。

 こうなると、西村定雅が竹婦人の画賛にしたためた「長庚(与謝蕪村)がうつし絵」とは、蕪村が宇治で得た大松茸の写し絵のことと想像できる。

 

 蕪村は俳文を見る限り松茸の画は描いていない。京の巷間で広がっていった話を、蕪村の没後十年以上たってから定雅は気楽に記したのだろう。俳諧師というより洒落本作家としての定雅の顔が出ている。

 

 蕪村の逸話と全く無関係ながら、漱石の著書の装幀でしられる画家津田青楓が「まつたけと栗」を描いているのを思い出した。書棚から「線描蔬菜花卉第二画集」(昭和9年)を取り出して見ると、とても上品な作品だった。

 

 

 

 

 

猫好きの老鼠堂

 今回も猫と一緒に考える。

 

 俳諧師と猫の事。

 俳諧の世界も、いきなり江戸から東京に変わったわけではない。正岡子規が始めた俳句刷新の動きは、明治30年(1897)に「ホトトギス」の旗揚げによって本格化していく一方、30年代になっても江戸時代の面影を残した旧派の俳諧師はまだ活動していたのだった。

 そのころ旧派の宗匠のひとり、老鼠堂永機(1823-1904)は芝紅葉山に阿心庵という草庵を構え、夫人と多数の猫と暮らしていた。猫好きと知って興味を持った。

 明治29年読売新聞記者だった関如来が、阿心庵を訪問して永機の話をまとめたものが残って居た。勝海舟、近衛篤麿、橋本雅邦、梅若實と28人へのインタビューの中の1人として「当世名家蓄音機」(明治33年、文禄堂)に収録されている。

 

 関如来が、芝丸山能楽堂の際にあった阿心庵を尋ねると、門に笠が懸けてあった。

檜笠一蓋、之を門柱に吊して在宅のよしを知らす」。門柱に年季の入った檜笠を吊るし、在宅の印にしていたのだった。蓑と笠を下げて在宅の印とした向井去来の落柿舎さながらだ。

 

 永機は「其角座」の宗匠(7世其角堂)で、蕉門の宝井其角の流れを標榜する一門だった。インタビューに答えて、闊達に答えている。同座には、寛政の頃から「一列申合せ」というものがあったという。

 

正風躰を相守り隠者の操を正敷非義非道不法不埒無之様常々身分を慎み可申候云々

 

 芭蕉の正風を守り、「隠者の操」を保ち、道を外さずに慎み深く暮らすという掟だった。

 京では寛政の前後に、芭蕉堂が作られ、二条家俳諧が始まるなど、正風再興を掲げた動きがあったが、同じように江戸でも寛政のころに正風を掲げた俳壇の動きがあったことが伺われる。それが明治30年代まで受け継がれていたのだった。

 

「隠者の操」というのが耳新しいが、永機はざっくばらんにこう解説している。「隠者といやア長袖と唱へたくれエだから、禅学はしなくってはならねえ…」禅の心得のことだった。さらにこう続けている。

「仲間の者は親子兄弟同様に睦まじくする事、世間雑談、賭物などすまじきことなどマアざッと百ケ条あまりもあツたんです」

 

 宗匠認可には江戸流の儀式があった。永機は宗匠になるにあたって、不忍池畔にあった其角堂で、独吟千句興行が課せられた。ひとりで1日、それも明るいうちに、千句(連句)を作るというものだ。句検という句をチェックする2人がいて、「此奴がなかなか意地の悪いもので、少し出来が悪からうものなら、直ぐ相成りませんときめつける」と永機は振り返っている。

 天満大自在天神(神格化された菅原道真)の名号を掲げた部屋で明け六つから始め、執筆(試験官)、師家の者、後見人らが立ち会った。千句が出来上がると、執事が当人の器量、人柄も合格したものとし、月番の両筆頭に申し出て、晴れて宗匠となったという。

 京都の芭蕉堂が芭蕉翁の木像、俳仙堂が芭蕉涅槃図など、芭蕉翁に繋がるものをよすがにしたように、江戸の其角座は、其角=イラスト=の「半面美人」の印を、其角に繋がる「証」として宗匠が伝え持ったという。

 縦長の「面」の字が独特な「半面美人」印は、点取俳諧を行なった其角が判者として、高点句に捺したものだった。

 

 其角の猫好きも永機は受け継いだ。其角の俳文「猫の五徳」に呼応して、吉原の猫の五徳を作文した。

 また行方知れずになった愛猫「飛以沙弥(ひいしゃみ)」への一文も草している。禅僧のような暮らしをする隠者、俳諧師の飼猫もまた、仏門で修行中の沙弥ということで、「飛以沙弥」と命名したらしい。

 

 ひいしゃみは、「明治十九年四月十一日生/五月廿三日より養子/黒斑男猫」。生後1か月で貰い受けた、白地に黒の斑がある猫だったようだ。結局、家を出て戻ってこなかった。客があれば控えめにして、様子を見ては甘えてくる。「夜は枕辺を去らず、ふところに入りては、冬夜の老を助く」愛猫だったのに。

「今猶耳に残る会者定離は人間のみにあらずと思ひ捨(すて)ても、あらなつかしさの飛以沙弥や。

 寝返りにさはるものなき寒哉

 

 その後、多くの猫を飼ったらしい。「一しきりア、十二三匹も居ましたよ、今でも八九匹は居ますがネ」と話す永機の横で、夫人は「お肴ばかり喰べさせるものですから、おかかをかく音をさせると、ツーと向ふの方へ往ツて、後向に坐ツてますよ、面の憎いことツて、余所の猫ア鰹節の音がすると急いで馳せて来るのに」

 永機は猫たちに魚をあげたので、鰹節などは見向きもしなくなったと夫人は語っている。

 猫好きの遺伝子を受け継いでいた、今では振り向きもされない明治の旧派の俳諧師に親しみを覚えてしまうのだった。