猫好きの老鼠堂

 今回も猫と一緒に考える。

 

 俳諧師と猫の事。

 俳諧の世界も、いきなり江戸から東京に変わったわけではない。正岡子規が始めた俳句刷新の動きは、明治30年(1897)に「ホトトギス」の旗揚げによって本格化していく一方、30年代になっても江戸時代の面影を残した旧派の俳諧師はまだ活動していたのだった。

 そのころ旧派の宗匠のひとり、老鼠堂永機(1823-1904)は芝紅葉山に阿心庵という草庵を構え、夫人と多数の猫と暮らしていた。猫好きと知って興味を持った。

 明治29年読売新聞記者だった関如来が、阿心庵を訪問して永機の話をまとめたものが残って居た。勝海舟、近衛篤麿、橋本雅邦、梅若實と28人へのインタビューの中の1人として「当世名家蓄音機」(明治33年、文禄堂)に収録されている。

 

 関如来が、芝丸山能楽堂の際にあった阿心庵を尋ねると、門に笠が懸けてあった。

檜笠一蓋、之を門柱に吊して在宅のよしを知らす」。門柱に年季の入った檜笠を吊るし、在宅の印にしていたのだった。蓑と笠を下げて在宅の印とした向井去来の落柿舎さながらだ。

 

 永機は「其角座」の宗匠(7世其角堂)で、蕉門の宝井其角の流れを標榜する一門だった。インタビューに答えて、闊達に答えている。同座には、寛政の頃から「一列申合せ」というものがあったという。

 

正風躰を相守り隠者の操を正敷非義非道不法不埒無之様常々身分を慎み可申候云々

 

 芭蕉の正風を守り、「隠者の操」を保ち、道を外さずに慎み深く暮らすという掟だった。

 京では寛政の前後に、芭蕉堂が作られ、二条家俳諧が始まるなど、正風再興を掲げた動きがあったが、同じように江戸でも寛政のころに正風を掲げた俳壇の動きがあったことが伺われる。それが明治30年代まで受け継がれていたのだった。

 

「隠者の操」というのが耳新しいが、永機はざっくばらんにこう解説している。「隠者といやア長袖と唱へたくれエだから、禅学はしなくってはならねえ…」禅の心得のことだった。さらにこう続けている。

「仲間の者は親子兄弟同様に睦まじくする事、世間雑談、賭物などすまじきことなどマアざッと百ケ条あまりもあツたんです」

 

 宗匠認可には江戸流の儀式があった。永機は宗匠になるにあたって、不忍池畔にあった其角堂で、独吟千句興行が課せられた。ひとりで1日、それも明るいうちに、千句(連句)を作るというものだ。句検という句をチェックする2人がいて、「此奴がなかなか意地の悪いもので、少し出来が悪からうものなら、直ぐ相成りませんときめつける」と永機は振り返っている。

 天満大自在天神(神格化された菅原道真)の名号を掲げた部屋で明け六つから始め、執筆(試験官)、師家の者、後見人らが立ち会った。千句が出来上がると、執事が当人の器量、人柄も合格したものとし、月番の両筆頭に申し出て、晴れて宗匠となったという。

 京都の芭蕉堂が芭蕉翁の木像、俳仙堂が芭蕉涅槃図など、芭蕉翁に繋がるものをよすがにしたように、江戸の其角座は、其角=イラスト=の「半面美人」の印を、其角に繋がる「証」として宗匠が伝え持ったという。

 縦長の「面」の字が独特な「半面美人」印は、点取俳諧を行なった其角が判者として、高点句に捺したものだった。

 

 其角の猫好きも永機は受け継いだ。其角の俳文「猫の五徳」に呼応して、吉原の猫の五徳を作文した。

 また行方知れずになった愛猫「飛以沙弥(ひいしゃみ)」への一文も草している。禅僧のような暮らしをする隠者、俳諧師の飼猫もまた、仏門で修行中の沙弥ということで、「飛以沙弥」と命名したらしい。

 

 ひいしゃみは、「明治十九年四月十一日生/五月廿三日より養子/黒斑男猫」。生後1か月で貰い受けた、白地に黒の斑がある猫だったようだ。結局、家を出て戻ってこなかった。客があれば控えめにして、様子を見ては甘えてくる。「夜は枕辺を去らず、ふところに入りては、冬夜の老を助く」愛猫だったのに。

「今猶耳に残る会者定離は人間のみにあらずと思ひ捨(すて)ても、あらなつかしさの飛以沙弥や。

 寝返りにさはるものなき寒哉

 

 その後、多くの猫を飼ったらしい。「一しきりア、十二三匹も居ましたよ、今でも八九匹は居ますがネ」と話す永機の横で、夫人は「お肴ばかり喰べさせるものですから、おかかをかく音をさせると、ツーと向ふの方へ往ツて、後向に坐ツてますよ、面の憎いことツて、余所の猫ア鰹節の音がすると急いで馳せて来るのに」

 永機は猫たちに魚をあげたので、鰹節などは見向きもしなくなったと夫人は語っている。

 猫好きの遺伝子を受け継いでいた、今では振り向きもされない明治の旧派の俳諧師に親しみを覚えてしまうのだった。

 

 

 

来山の女人形と定雅の竹婦人

 茶人で茶の本を多く残した高原慶三(1893-1975)が、俳諧師西村定雅と大伴大江丸のことを取り上げて書いていた。

 高原の茶人としての考えは、利休以来、茶道に侘びが重視され、艶が忘れられている、「艶なればこそ侘がある、侘あらばこそ艶がある」のであって、「茶禅一味」もよいが「茶艶一味」でありたいとしている(「数奇人」昭和11年、河原書店)。

 精神性より、粋を重視する流れで、定雅、大江丸を評価しているのだった。大江丸はともかく、定雅は確かに当たっている。

 



 本のなかで、定雅の「竹婦人」の画賛を紹介していた。京の俳人藤井培屋の所蔵品だったという。

長庚がうつし絵、来山が土人形、さにはあらで、夏の翆帳にこえて愛する君あり、名を竹婦人といふ」とはじまる。

 長庚(与謝蕪村)のうつし絵、小西来山の土人形とは違うが、夏の閨でずっと愛しているのが、竹製の抱き枕であると。

  擬人化して、讃えている。「江影蛾眉の粧ひもなく、綾羅錦繍のもの好みもあらねど」化粧っけがなく、おしゃれをするわけでもないが、「雲雨巫山のごと連理比翼のまじはり」、離れがたい間柄に。どけて背を向けて寝ても恨まない、ほかで仮寝しても悋気(焼き餅)しない。ただ、物を言わないので、だれと夕烏を口実にして閨に向かい、だれと明の鐘をうらめばいいのだろうと。

 片足、片腕を載せて寝て、涼を取る抱き枕は、アジア文化圏に広がって愛用されて、俳句でも夏の季語になっている。

 

 私は、竹婦人と同じように、閨で愛された蕪村のかくし絵、来山の土人形が気になった。来山の土人形はすぐ分かった。

「人形雑誌」(明治44,雅俗文庫)

 

 前に山白散人「睡餘小録」を紹介して、謎の山白散人は西村定雅ではなかったか、と推理したことがある。その著の中に、来山が愛した人形図と、来山の俳文「女人形記」が紹介、再録されていたからだ。

西行法師に銀猫を給ひけるに門前の童子にうちくれた」話が知られるが、自分は「路にてやきものの人形にあひ懐にして家に帰り昼は机下にすへて眼によろこひ夜は枕上に休ませて寝覚の伽とす」。

 西行銀猫の逸話を初めにふってから、見つけた女人形に一目ぼれして、家に持ち帰り、昼夜一緒に暮らしていると俳文にしている。

 同じ人形でも達磨と違い、咎もない自分を睨みつけることもない、人形だから「若後家なりとも気遣ひなし、舅は何國の大工そや」と記している。(気味悪いとはいうなかれ)

 

 さらに興味深いのは、閨に飾る蕪村のうつし絵。これはなんなのだろう。文人画の蕪村に美人画があるのは知らない。蕪村が画号長庚を名のったのは、1760-1777年ごろ。調べると、京に住む前、1754-1757年に丹後で暮らした40代初め、「静御前図」を描き「雪の日やしづかといへる白拍子」という画賛も残していた。

 

 定雅と蕪村の交流は、定雅の兄美角の残した唯一の俳書「ゑぼし桶」(1774)で伺える。美角、定雅の兄弟は、大坂経由で京を尋ねた暁台を迎え、蕪村、高井几董らと芭蕉追善の句会を催した。その後日、暁台を連れて蕪村を除く一同、高雄へ紅葉狩りに向かい、蕪村へ紅葉一枝を届けたのだった。

 定雅は蕪村の門下ではないが、こうした交流はしていたのだった。

 

 蕪村のうつし絵とはなんなのだろう。頼朝の前で舞う「静御前」の絵ではなさそうだ。思わせぶりな定雅の画賛がなんとも気になる。

 

 私は「睡餘小録」の著者山白散人は、定雅だと推理し、変名ばかりか、多くの仕掛けを残した一筋縄ではいかない人物だと思うようになった。

 来山の俳文はともかく、掲載された「十萬堂遺物の女人形」の真贋は分からない。「睡餘小録」に掲載された「芭蕉の蛮刀」同様、眉に唾をつける必要があるかも知れない。

 

 

 

 

 

西行人形と初辰猫

 五代目市川團十郎には猫の逸話はなさそうだったが、五代目が狂歌で名を出した鯛屋貞柳の作品を調べていると、西行の銀猫の逸話を狂歌にしているのを見つけた。

 

 平泉に向かう西行が途上の鎌倉で頼朝から銀作猫を貰ったが、遊んでいた子供にあげてしまった話は、なんども書いて来た。貞柳の狂歌

 

 鶴岡八幡宮西行法師参詣し下向に銀の猫を

 小童にやりし所かきたる絵を見て

 

 西行に衣は似れど身はうしやかねならなんの人にやろにゃん

 

 貞柳は、絵を見て歌を作ったのだった。西行の銀猫をテーマにした絵は、松村呉春(1752-1811)、長谷川雪旦(1778-1843)、菊池容斎(1788-1878)ら江戸後期以降の画家のものだとばかり思っていたが、鯛屋貞柳は1654-1734の生涯なので、彼らの作品ができる前に没していた。もっと前の画家の作品を見ていたことになる。

 

狂歌師の自分は、西行法師の法衣に似たようなものこそ着てはいるが、法師と違って憂き身をやつして暮らしていることよ。銀猫でなくおかねを貰ったら誰にあげたらいいのかにゃん≫

 

 高価なものでも銀猫なら子供にあげるとして、お金をもらったらどうしたのだろう、という素朴な発想と、「やろにゃん」という表現が面白い。

 

 貞柳が西行狂歌に仕立てたものがほかにもあった。西行をかたどった京都・伏見人形を見つけた時のものだ。大坂から伏見へ川を上った時のことなのだろうか。伏見街道の土産物店で売られていた、西行の人形を見つけて興がわいたようだ。

 

 伏見海道にて土人形を見て

 

 西行に又逢へしとおもひきや 命なりけりふしみ海道

 なけ(げ)けとて土屋は物をおもはせる ああ西行はこんな坊さまか

 西行は土もてゆかし見世さきに しは(ば)しとてこそ立と(ど)まりけり

 

 伊藤若冲(1716-1800)が伏見人形の絵を多数残している。多くが「布袋」の人形だが、西行と思われるものも描いている。布袋の前で、緑の袋を背負い笠を持って立っている。(「若冲画選」昭和2年、恩賜京都博物館編輯)

 貞柳が見た西行人形はこういうものだったと想像させてくれる。

 

 さて、伏見稲荷大社の土産として生まれた伏見人形は、江戸の初めごろから人気を呼び、各地で似たような土人形、張子玩具が作られるきっかけとなったとされる。

 狐、福助など縁起ものが各種作られ、江戸後期に最盛期を迎えたという。團十郎とも縁があり、幕府の節約令違反で、天保13年(1842)江戸十里四方追放に処された七代目團十郎は、赦免されて戻る際、伏見人形の窯元に成田屋の十八番「助六」「暫」「矢の根」の人形を大量に注文し、江戸土産にしたと伝えられている。

 

  「大阪辯」から

 猫の伏見人形はなかったのだろうか。伏見に影響されて作られた大坂人形には猫の土人形が伝わっている。住吉大社の「初辰猫」だ。

「明和年間に北尾安兵衛という者があって、伏見で人形の製作を習い、その後住吉に移り住んで土人形を始めたという」「もっとも有名で人気だったのが「初辰猫」であった」(浅田柳一「郷土玩具に偲ぶ浪花の面影」昭和25年「大阪辯・第5輯」収録)

 

 住吉境内にある末社楠珺神社は「はったつさん」と呼ばれ、毎月初辰の日に、羽織姿の招き猫を求めて多くの商家から参詣があった。「初辰」の参りは、商売が「発達」するにつながると信仰が広がったという。1回につき猫1体、48か月通って48体の猫が揃うと満願成就するというものだ。今でも招き猫「初辰猫」は続いていて参詣人は多い。

 

 北尾安兵衛が初辰猫を初めて作った時と、住吉大社に大伴大江丸の出入りしていたころと時代は重なっている。

 明和年間 1764-1772

 大江丸  1722-1805

 

 大江丸は晩年、82歳の時、虎の上に金時が乗った「玩具図」を自ら描いており、人形玩具に関心を持っていたことは確かだ。

 

 飛脚問屋を経営し江戸から東北と、自ら各地を飛び歩いていた大江丸は、街道筋の情報はお手の物だった。初辰猫の誕生にも関係があったとしたら面白いと思った。

 

 大江丸 → 三代目團十郎 → 鯛屋貞柳 → 西行 → 伏見人形 → 七代目團十郎 → 住吉大社初辰猫 → 大江丸

 

 話がつながって、円を描いているようだ。

 

 

 

 

 

 

 

五代目團十郎と大江丸の行き違い

 初代、二代の市川團十郎と猫について調べているうちに、五代目の團十郎を大坂の俳諧師大伴大江丸が訪ね、その様子を紀行(あがたの三月よつき)に残しているのを知った。

 

 大江丸には、歌舞伎を句にしたものがあり、團十郎が出て来るものもある。

  七夕の今宵大星力彌かな

  寒の紅粉團十郎へまづまゐる

 

仮名手本忠臣蔵」の大星由良之助を團十郎が演じたのは五代目が始めてなので、力彌の句も團十郎と無縁ではない。

 

「81歳」の大江丸が、大坂から東海道に沿って江戸に出、関東、東北を回る長旅をした際、隠居して白猿を名乗っていた團十郎を本所牛島に訪ねたのだった。

 寛政12年(1800)のこと。

 

 團十郎 1741-1806

 大江丸 1722-1805

 

 満年齢では、團十郎は59歳、大江丸は78歳ではなかったか。

 

けふは少々いとま得がほに、うし嶋にかくれすみける市川白猿が栖を訪ふ。ここは牛嶋のうしの御前のうしろ、庄やの地中にわづか三坪斗のわらぶきして、内に有けるに申掛ける。

 

 安永、天明、寛政年間に歌舞伎役者として風靡した五代目は、寛政3年実子に六代目を襲名させると、蝦蔵と改名、同8年には引退し、牛島の反故庵に隠居、白猿を名乗って狂歌師として活動していた。

 隠居4年目に大江丸は訪問したのだった。

 いろのしろき猿どのにそと見参申  大江

 とつはひや酒けふのもてなし    白猿

 

 冷酒を酌み交わしながら、反故庵の狭さに大江丸は驚いた。江戸の文華を一身に体現したあの人気役者とは思えない暮らしぶりだった。

 

三畳敷を寝所とし、夜具も其まま衣服もきたまま、おし入なし。居間は五畳敷台所は四畳也。」

「仏間とてもなく少なき棚をつり、香炉ひとつ紙にあミだを画き」

「其外調度とてもなく、五十余りの老女ひとり遣ひ」という有様だった。

 

 三畳、五畳、四畳と三間のわび住いについて、白猿は狂歌で答えている。

 

貞柳がすめば都といふた様(よ)に三畳五条四畳しきなり

 

 狂歌師の先輩鯛屋貞柳(1654-1734)の狂歌

うら家にもすめは都のこころなり 二畳三畳五畳六畳

 

 という二畳、三畳、五畳、六畳の小さな部屋も、二条、三条、五条、六条とまるで都に住んでいる気になるとシャレた狂歌で、自分の心境を伝えたのだった。

 

 生家が大坂の菓子商である貞柳を出したのは、大坂の飛脚商の大江丸への挨拶でもあったか。しかし、大江丸のある申し出は、きっぱりと断ったのだった。

 

 大江丸は、「うらぐちには水の用心と大札、これは洪水のうれい有場故也。あまりにおもしろさに我も一首と筆をとれば、いや外の人にはかかせ不申、我うちは我心のままといふて」、白猿に拒否された。水難のお札に興を感じて、一首書こうとした大江丸に、結構です、と断ったわけだ。

 

 大江丸は「机にかかれるさま一瓢一水のくらし、妓芸はとまれ気分のたかき所は初代の海老蔵よりもたかからむか」と感想を述べ、プライドの高さを感じたようだ。

 

「江戸人とユートピア」から

 

 江戸の研究者たちはこの逸話の「我うちは我心のまま」という発言を、隠居して「団十郎の役割から解放され、自分に忠実に生きる生活の拠点という強い自覚に支えられた反古庵は、自分が思うままに支配できる天地でなければならなかった」(日野達夫「江戸人とユートピア」77年、朝日新聞社)という白猿の思いの表れと理解しているようだ。

 

 私は、浅野祥子氏の「祐天寺と団十郎 ―初代~五代目の信仰の問題」(歌舞伎 研究と批評15、95年)を読んで、上記の逸話はそんな深いものではないのではないかと思った。

 論文は、五代目團十郎まで、菩提寺の浄土宗常照院とともに、同宗派の目黒・祐天寺とも深い縁を持ち、祐天寺にも多くの位牌が収められていたことを記していた。初代團十郎が舞台上で牛島半六に刺され、非業の死を遂げたことから、二代目が剣難除、水難除で知られる祐天上人に帰依したのではないかと、推測したものだった。

 

 白猿が裏口に貼っていた「水の用心と大札」は、まさに五代目も信仰していた祐天寺の水難除だったのではないか。

 

 一方、大江丸は水難除を面白く思い、地元の「海の神様」住吉大社を思い浮かべ、同社の水難除の功徳を一首したためようとしたのではなかったか。前に記したように大江丸は住吉大社と松苗神事などで大変縁が深かった。(大社では今でも「水難除守」が売られている)

 

 祐天上人に、住吉大社の横やりが入ってはたまらない。白猿がきっぱりと拒否した理由も、こう解釈するとすっきりすると思った。信心については譲りがたい。

 

此方からもたせたる酒肴にてもてなし、茶を煮てくれた斗(ばかり)也」と、持って行った酒、肴でもてなされたが、五代目は茶しか出さなかった、と大江丸は記し、すこし不満げであるが、誤解だ誤解だ、と伝えたくなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

猫飯と犬車の話

 子供時代は夏休みになると、祖母の大阪の家に泊まりに行った。小学生の姉と2人きりで出かけたこともある。「こだま」は、当時東京―大阪間6時間50分かかったので、心細かった。出発前に、母が心配して列車に乗り込み、見ず知らずの隣席の男性に「この子たちは大阪まで行きます。どうぞよろしくお願いします」と声をかけたのを覚えている。

 

 何十年も前、俳優の北大路欣也さんが、子供時代に体験した東海道本線の話をしたのを聞いたことがある。昭和20年代の「つばめ」だったのだろう。東京-大阪間の中間、浜松駅に着くと、車掌が乗車している子供たちを集めたという。ホームに降ろして、一緒に体操し背筋を伸ばしたそうだ。それほど、東海道線の旅は長かったことが分かる。浜松駅の停車時間もたっぷりあったのだろうなと想像できた。

 

 明治35年(1902)の東海道線の旅の記述を見つけた。池邉藤園、増田村雨畿内めぐり」(明治36年、金港堂書籍)。出発時間は書いていないが、朝早いのを敬遠して、新橋から3番列車で出発したとある。午前中ではあったようだ。

 2人は静岡で駅弁を買っている。「名にし負ふ鯛飯弁当購ひて食ふに、その甘きに似ず、その体裁の猫の飯然たるもをかし

 猫のめしとは、キャットフードが普及する前の猫の御飯だった「残飯を連想するような混ぜご飯」をさしているのだろう。当時、鯛の混ぜご飯が珍しかったようだ。「わさび漬も名産なればとて、すこし打ち食ひて」とある。

 

 夜の8時半に名古屋に到着し下車。「名古屋ホテル」で宿泊している。翌朝8時50分に名古屋駅を出発し、午後2時20分に「京都七条駅」に到着。鴨川べりの宿、東三木本の「月波楼」へ向かった。2日がかりの京都までの汽車の旅なのだった。今から見ると、逆に贅沢な旅に思える。

 

 のんびりした京都入りだが、その後の2人の旅は実に精力的だ。京都-奈良―三輪―畝傍―吉野山―奈良―富田林―金剛山―柏原―大阪―有馬―箕面―京都―笠置。26日間、関西を飛び回っている。

 

 興味深いのは、吉野山に向かう記述だ。

葛にては生花楼といふ温泉に休ひ、荷物ども預け、直に車を雇ひて吉野山に向ひぬ。犬二疋各々へ綱曳す」。

 犬の力車に乗っているのだ。葛は、御所市にある、近鉄吉野線の葛駅の辺りだったろう。そこから山麓まで犬2頭が車を曳いたのだった。

この道中の人車には、大方犬を附けたるが、その犬は跡を見ずに走り、車とどめて客おるれば、直にその車に乗りて疲を息(やす)む

聞けば、成年未満の男子などよりも反て力勝れ能く働きて便なりといふ」が、犬たちは運び終えると、すぐ車の中に入って休んだ、というからに、犬にとっても坂道はきつかったようだ。

 国文学者、歌人の池辺は、欧州旅行先のベルギーで、ミルク売りの犬を実見していた。「牛乳を運ぶ、犬車を見たることありしが人を曳きて走るはこの辺の発明なるべし」と書いている。

 

 池邉の記すオランダやベルギーの犬車ばかりでなく、欧米では20世紀の前後から、犬を運搬に盛んに使いだしていた。市場まで車で肉を運ばせたり、鉄道レールの貨車を7、8頭の犬に引かせた(犬ぞりを思い出させる)アラスカの例も知られる。日本でも森林伐採のトロッコに犬を用い、行きは空のトロッコをひかせ、帰りは木材とともに犬も乗って戻ったという。一時、流行していたのだった。大正時代(1912-1925)になると、トロッコも機械式に変り、「犬トロリー」も消えたそうだ。

 

 葛―吉野山入口間の犬車も、この流行の中で位置付けられるのだろう。

 

 適した犬種、過重労働でない、首輪、ハーネスの整備。3点が管理されていたことを願いながら、葛の働く犬たちを想像した。

 

 

 

 

 

 

 

 

二代目團十郎の猫

 猫好き講談師、猫遊軒伯知(1856-1932)について触れたが、猫の講談では、桃川如燕(ももかわ・じょえん、1832-1898)という先輩の大物講談師がいた。

 鍋島藩の化猫など猫をテーマにした「百猫伝」の講談が評判を呼び、明治天皇の御前で口演したという。夏目漱石も如燕の講談に親しんだようで、「吾輩は猫である」の中で如燕の猫について一言触れている。

 

 如燕の「百猫伝・市川團十郎の猫」(明治18年、傍聴速記法学会)を読んでみた。口演を速記で写したので、発行元が傍聴速記法学会だったようだ。

 この市川團十郎は、猫遊軒の描いた初代團十郎でなく、二代目團十郎だった。ただ、こちらも妻に殺された歌舞伎役者小幡小平治の幽霊話に登場する共通点があった(猫遊軒は、如燕の講談をもとに、再構成したのかもしれない)。

 

 「團十郎の猫」といっても、こちらは小幡小平治の飼猫なのだった。

 小平治と猫の出会いは、まるで浦島太郎と亀。永代橋付近で子供が大きな三毛猫を荒縄でぐるぐる巻きに縛り上げ、川に投げ込もうとしていた。

「ニヤアニヤアと左も哀しげに泣き立て」ている猫を見て、小平治は「飛来り小供を賺(すか)し物を与へて、漸く猫を助け」た。猫は喜び纏わりつくので、家に連れ帰り、玉猫と名をつけて可愛がった。齢の行った猫だったが、大きな猫はさらに大きく育った。

 この猫は、やがて家で不穏な空気を嗅ぎつけた。小平治の妻お勝が愛人の太九郎を留守宅に上げて、夫の殺害を企んでいたのだ。玉猫は主人の危険を知って、お勝に飛びかかり喰い殺そうとしたが果たせない。お勝は、聞き耳を立てる猫を気味悪がって警戒するようになった。

 いよいよ沼での殺害決行を知った猫は当日、何も知らずに妻や太九郎らと魚捕りに出かける小平治を必死に止めようとした。

 

 玉猫は小平治の裾をくわえ、力をこめて引留めるが、主人はうるさい、ふざけるなと振り払う。なおも猫はくわえたまま離さないので、お勝が傍にある芝居刀で叩こうとすると、猫は暴虎のように睨み、お勝に飛びかかろうとした。

 小平治は猫に激怒し、「此畜生め、日ごろの恩を打忘れ、主人に向って敵対なすか、己れ打殺して呉んぞ」と刃を潰した刀を引き抜いた。

 玉猫は怒る主人を前に小く成て、小平治の顔を重々と眺め乍ら涙を浮べ、左も哀しさうに一声高く叫びたる儘何処ともなく、行方(ゆくかた)知れず成ました

 

 小平治が殺害されると、お勝と太九郎の前に、幽霊が現れた。襲われた太九郎は、刀を抜いて振り払うと、奥の間で寝て居たお勝の連れ子がギャーと声をあげた。のどを食いちぎられ、所々に「血に染む猫の足跡」が付いていた。「幽霊の姿を見(る)に、形は全く小平治なれ共、口元より目付の様子は、まごふ方無(なき)猫の相貌、察する所小平治の、怨霊三毛猫に乗り移りて、讐(あだ)を為さんと」したものだと太九郎は気づいた。

 

 やがて、お勝、太九郎らも食い殺され、猫は二代目團十郎=上図=のもとに現れた。かつて、團十郎が小平治を旅興行に追い払ったと恨んでいたためだった。團十郎は、「悪婦」お勝との結婚に反対し、小平治を諭すためにしたことだったと説明するが、なおも出る幽霊に、「側に置し、刃引の一刀抜手も見せず、躍り掛つて斬付れば、ギャッと一声叫びし儘、背へドウト倒れたる…鏡の背を改むれば思も寄ぬ一匹の大三毛猫が、血潮に染て死で居た」。やはり、小平治の幽霊は、三毛猫だったのだ。

 

 團十郎は弟子に言いつけて、「初代團十郎の墓の傍に、手厚く葬りましたが其後に、二代目團十郎が死去した時、丁度猫の墓を間にして、初代團十郎の墓と並べて、葬りましたから今に於て、猫塚の古蹟を存して居ります

 

 成田屋菩提寺は、芝公園の常照院で、ここに初代、二代目の墓もあったという。関東大震災後の墓地整理のため、昭和初めに青山霊園に移転したそうだ。

 

 ならば、移転前の常照院には、2人の墓に挟まれて猫塚なるものが本当にあったのだろうか。猫塚の存在があって、講談で初代、二代目と猫の話が生まれたのだろうか。

 

 講談のトリックにはまり込んで、虚実の境が分からなくなってしまったようだ。

 

 さて、令和の猫たちー。ネコジャスリの続報。

    

 ネコジャスリを贈った神保町の古レコード店の猫=右=からも大変満足しているとのメールがあった。



 

 

 

 

 

猫の目時計の歌があった

 猫の目時計について、金井紫雲(1887-1954)が、興味深い古歌を紹介していた(「動物と芸術」昭和7年、芸艸堂)。

 

六つ円く、五七卵に四つ八つは柿のたねなり、九つは針

 

というものだ。

 

 六つ=午前6時  猫の目は 円

 五つ=午前8時  猫の目は 卵

 七つ=午後4時    〃

 四つ=午前10時 猫の目は 柿の種

 八つ=午後2時    〃

 九つ=正午    猫の目は 針

 

 朝から、猫の目が 円→卵→柿の種→針→柿の種→卵→円 と移り行くさまを歌にしている。残念ながら、古歌とだけあって、明治につくられたか、江戸時代なのか分からない。

 

 柿の種

 

 ただ、元禄3年に、猫の目時計について記した宋代の蘇東坡「物類相感志」を須原屋平左衛門が刊行し、天保11年には、山崎美成が「三養雑記」で引用。江戸時代からわが国でも関心を持たれたことが分かる。

 

 子半線、卯酉円、寅申巳亥銀杏、辰戌丑未側如銭

 

 というもので、

 子の刻(正午)は半線。卯(明六つ)と酉(暮六つ)は円。寅申(七つ)、巳亥(四つ)は銀杏。辰戌(五つ)丑未(八つ)は、則ち銭の如し。

 

 少し日本の古歌と内容が違っている。

 

 山崎美成「三養雑記」

 

 猫の目の表現を比べてみると

 

 円は同じ、針、半線もほぼ同様。日本の柿の種と卵は、銀杏と銭に変り、若干異同がある。

 銭にもいろいろとあるが、蘇東坡の時代の宋銭は、いずれも四角い穴があいている。猫の瞳孔が、午前8時や午後2時頃、宋銭の穴の様に中央で小さくなる、と見ているのだろうか。

 違いを比べてみると

 

       

  柿の種    鶏卵

   

   

  銀杏     宋銭

 

  蘇東坡は、違った観察をしていたようだ。また、謎がでてきてしまった。

 

  銭の如き瞳孔か