猫恐怖症の猫怖ぢ大夫

 私の姉は、子どもの頃、激しい鳥恐怖症だった。鳥の翼が怖いらしく、小鳥でさえ見ると逃げるのだった。私にはその怖さが理解できなかった。ある休日の朝、親戚の男性が、撃ちとった雉を持って現れた。私は思いついて、それを手にすると、まだ寝て居た姉のところに行って、雉を顔に近づけた。

 恐怖で叫び声をあげた姉は飛び上がって逃げ惑い、私は親にこっぴどく叱られた。

 

 精神医学には鶏の恐怖症、鴨の恐怖症など、鳥への恐怖症のほか、「猫恐怖症」というのがあるのだという。私も蛇は怖いし、高所恐怖症でもある。しかし、猫が怖い人がいるのはちょっと驚きではある。Ailurophobia アイルラフォウビアという用語もちゃんとある。

 

猫のどこが怖いのだろうか

 

 私は、「猫怖(お)ぢの大夫」という日本の平安時代後期の説話を思い出した。「今昔物語」(巻28)に登場する11世紀初めの藤原清廉(きよかど)という人物をめぐる笑い話だ。

 清廉は山城、大和、伊賀と三国に荘園を持つ大蔵大夫だったが、猫を恐れ、大事な仕事の最中でも猫を見かけると、顔を覆って逃げてしまうので、「前世は鼠だったのだろう」とからかわれ、「猫怖ぢの大夫」のあだ名がつけられた。

 

 都に顔が利き、力を持っていた大夫は、長年年貢を払わず、三国の国守からの取り立てにも応じなかった。しびれを切らしたのが大和守の藤原輔公。清廉を呼びつけ、壺屋という狭い部屋に誘い、部下に引き戸を閉めさせた。対面した輔公は清廉と差し違えるつもりだといって、年貢の最後通告をした。それでもタカを括った清廉は理屈を滔々と述べて先伸ばしをはかる。

 国守は意を決して部下に合図をすると、引き戸があいて用意した猫が部屋に放り込まれる。

灰毛斑なる猫の丈一尺余ばかりなるが、眼は赤くて琥珀を磨き入れたる様にて、大声を放ちて鳴く」。30㌢超の背丈で、コハクを磨いたような赤い眼の、大きな鳴き声の灰色の斑の毛の猫(キジトラ猫か)が、閉じ込めた空間に投げ込まれた。

 これだけでない。「同様なる猫五つ、次きて入る」。似たような猫5匹が次に放たれた。

 たまらず清廉は、大粒の涙を落し、国守に手を合わせて懇願する。猫が袖を嗅いだり走り回ると、顔色が真っ青になり、卒倒寸前。猫の大きな鳴声を聞くと、汗がどっと出て、眼をぱちぱちさせ、息絶え絶えになった。

 

 潮時だと見て、輔公は部下に猫を引き戸の脇に縄でつながせた。国守は清廉に年貢を支払う約束をさせ、「今後も壺屋に閉じ込めて猫を入れる」と脅しを入れて、その場で証書を書かせることに成功したのだった。

 猫恐怖症の者にとっては、想像を絶する恐ろしさだったのだろうと気の毒に思えるが、説話は猫怖ぢを笑って終わっている。

 

 清廉を懲らしめるのは当然だとしても、猫を拷問の道具に使ったことは決して褒められたものではない。

 ただ、6匹もの猫をよく準備したと感心する。野良猫は当時いなかったと考えられる。(12世紀中ごろになって、野良猫はようやく和歌に登場するのだ)

 輔公は貴重だった飼猫(唐猫)をどこからかかき集めたのだろう。猫を借りに行かせたり、あるいはこっそり拝借もさせたのだろうか。清廉を怖がらせるために、部下たちが必死になって猫集めする様を想像すると、コミカルでありまた別の笑い話が出来るように思われた。

 

 

 

 

 

 

 

 

猫遊軒と嵐雪・烈女の猫

 講談師に猫遊軒伯知(びょうゆうけん・はくち。1856-1932)という人物がいるのを知った。結構知られているらしい。「猫遊軒」などと名乗るのは、猫好きだからだろうと思うがはっきりしない。確かめようと、「小幡小平次」の講談が残っている(大正10年、博文館)ので、目を通してみた。

 

 小平次は、旅先で殺された歌舞伎役者が幽霊になって、妻やその愛人に化けて出る話だが、彼の講談は、初代市川團十郎を登場させ、猫の活躍シーンが設けられていた。

 

 登場する猫は、初代團十郎の飼猫。役者の小平次を殺し、その後も悪事を重ねる太九郎が、金欲しさに團十郎の家に忍び込む場面で出て来る。

「白い猫が一匹、前足を揚げて太九郎を睨んで行く手を塞いだ」。猫は、恐ろしげに金の目を光らせている。太九郎が脇差に手をかけると、猫がパッと飛び付いたので、太九郎はあっと云って倒れた。

 物音に気付いた團十郎が現れると、男は斬りつけようとするが、「猫がサッと飛び付き曲者の右の腕に喰付いたから、ポロリと脇差を落した」。

 白猫が團十郎を守って大活躍するのだった。

 

 あろうことか猫遊軒は、この猫を松尾芭蕉の弟子、服部嵐雪の妻烈女から貰い受けた設定にしていた。

團十郎の友達で有名な俳人嵐雪、此女房のお烈と云ふが変わり者で、大層猫を愛します、それで白猫を飼った、毛に艶があって目が金色をして大層綺麗な猫でございます、其を団十郎が貰ひ受けて、玉や玉やと可愛がって居た

 

 初代團十郎 1660-1704

 嵐雪    1654-1707

 

 同時代に生きた両者ではあるが、ちょっと無理がある。

 

 烈女の猫は竹窓玄々一「俳家奇人談」(1892年、今古堂)に詳しい。元々遊女だった烈は、嵐雪と結婚後も、猫を溺愛し、敷物器物も人並み以上のものを用い、身を清めるべき忌日にも生肴を与えた。嵐雪は懲らしめようと、妻の留守中に、猫を遠くに遣ってしまった。夕方戻った烈は、猫がいないので、憔悴し、泣き叫んだ。この狂乱ぶりに、隣家の女が経緯と猫の行き先を教えたのだった。烈は夫の行為に怒り、門人が駆けつけてなんとかなだめたというものだ。

 此の時の烈の悲嘆の句が、「猫の妻いかなる君の奪ひ行」であり、猫をめぐる正月の夫婦喧嘩と仲直りの様子を、嵐雪は「悦ぶを見よやはつねの玉はばき」の句にしたという。(はつねの玉はばきは、正月初の子の日に、蚕室を玉をつけた小さな箒=玉はばき=で掃く招福行事。嵐雪は、鈴玉をつけた小猫を、玉はばきに例えたのではないか)

 

 こんな大事にしていた猫を、團十郎に譲ったというのは創作でも通りにくい。

 

團十郎は大層猫を愛し、外を歩いて宿なし猫を見ると、連れて来ては飼って置いた」。

(講談の團十郎のセリフ)「此奴は面白い奴だ、優しい声を出して人に馴れて、間があると膝の上へ乗って眠て居る、眠て居るかと思ふとガタリと云って目を覚まして其方を睨む、油断して居るやうで油断をしねえ」「野菜は好まず魚ばかし食べたがる、それに隙を窺っては泥棒をする、こんな人を馬鹿にした畜生はない、それで俺は好きだ」

 團十郎「まあまあ此奴が居ると鼠が出ない、可愛いものだナ、来いよ」

 猫「ニャー」

 團十郎「古風な啼き方をするな、ワンと云へ」

 

 團十郎でなく、猫遊軒自身のことを講談にしているようだ。「猫遊軒」は「烈女」にまさる愛猫家ではなかったか。

 

 

 

 

 

正午牡丹と眠り猫

 洋画家の中川一政画伯が、「正午牡丹」という文章を書き、著作の表題にもしているのを知った。

 

 前に、牡丹と猫の取り合わせの画題に触れ、本来は正午に咲きほこる牡丹を表すために、時計代わりに猫の目を添えたのが始まりではないか、という鶴ケ谷真一氏の文章を紹介した。



 中川画伯は、「猫の眼は昼になると瞳孔が細くなる。支那には正午牡丹といふ画題があるが、牡丹と猫を組合わせてそれは昼の満を持した静かさを描くものである。/正午牡丹とは何とうまく命名したものだろう」と、昭和9年にこう書いていた(武蔵野日記)。

 中川画伯も、正午の静かさを表現する、猫目時計のアイディアに関心を持ったことが伺われる。

 

 中川画伯がこういうからには、正午牡丹について、先人が触れたものがあるに違いない。辿って行くと、天保5年の原双桂「過庭紀談」に行き当たった。

 原双桂は、

世上に牡丹の下に猫の眠り居る図をゑがける多し、是亦彼図の元来の起りに相違せり」と、牡丹に眠り猫を配した絵を注意するものだった。幕末ごろ、牡丹に眠り猫が添えられたものが多かったことが伺われる。

 続けて、

唐の時、或人さる能画師の正午の牡丹を図してくれよと頼みしに、右の画師牡丹をゑがくは易きことなれども日中正午の趣をいかがして書き写さんやと、色々工夫をめぐらして思ひ付き牡丹の傍に猫をあしらい、その猫の眼を正午の眼にゑがきて、それにて正午の牡丹と云ふ処をあわはせしなり

 唐の画師の創意から生まれた「正午牡丹」の逸話を記し、「眠猫にゑがきては何の面白きこともなし」と、猫の瞳孔が描かれない眠猫では意味がない、注意喚起しているのだった。

昭和33年「正午牡丹」

 

 さて、中川画伯は「正午牡丹」で猫はそもそも好きではないと書いている。飼っているうちに猫の奥深さに気づいて「ねこの魅力にだんだん惹かれて来るやうだ」と文を締めているが、少し無理しているように見える。

 それよりも、「正午牡丹」に書かれた、猫をめぐる画伯の子供たちの様子が大変面白い。

 昭和9年ごろ、中川家では、鼠が増え、猫を飼う必要が出て来た。子供たちは祖父母の家に迷い込んだ三毛猫を連れて帰った。抱いたり、紐をつけて牽いてかまっていた。

 よほど嬉しかったのだろう、6歳になる子が、翌朝起き抜けに祖父母の家に行き、「お祖母さん、昨日の猫はとても利口な猫だと見えるよ」と報告したという。

 訳をきくと、「今日僕が起きると鼠を三つもとったよ。そして一匹口にくわへ二匹を両脇にかかへて戸棚から出て来たよ」。

 祖母は感心して、祖父にも伝えたが、伝え聞いた母親が調べると、事実でない。「六つの子は空想で物を話す癖がある」ので、こんな報告をしたのだった。

 祖父は「俺も後で変だと思ったよ。一匹口にくわへ両脇に一匹づつ挟んで猫はどういう風にして歩くだろう」と。

 六歳の子の空想とは違って、三毛猫は一日中寝てばかり。一匹も鼠を捕らなかったため、一か月後捨てられてしまったという。

 

 文章には書かれていないが、六歳の子供は、捨てられたことを知って、相当悲しんだろうなと、想像できた。

 

 

 

 

 

名無しの猫を追いかけて

 二葉亭四迷が溺愛した名無しの猫は、その後手掛かりがないので、一旦探索は終わりにすることにした。

 



 二葉亭が猫を愛する一方で、俳句も盛んにつくっていた発見もあった。猫と俳句、夏目漱石とこの点でも似ていた。

 ベンガル湾航海中に客死してから5年後、二葉亭の俳句草稿を高浜虚子が目を通した時の文章が残っていた(「二葉亭主人の俳句の草稿を見る」大正2年6月)。

 二葉亭全集4巻に収録する俳句草稿を事前に見て、その印象を綴ったものだった。四迷、虚子と双方と親しかった漱石が介したのかもしれない。

 黄の表紙が付いた赤い罫のある唐紙の小本(草稿)には、薄墨で200句たらず俳句(連句もあり)が記されていたという。

 さらに、芭蕉「猿蓑」「続猿蓑」の連句の一部を注釈したものを発見した虚子は、四迷の俳句に対する熱意に驚いている。「露の文学の紹介者たる主人が意外にも俳句に対する斯んな深い興味を持ってゐたという事を面白く思ふ」と。

 

 簡単には他人の俳句を褒めない虚子は、四迷の俳句についても、「私はここに二葉亭主人の作句の技倆や註釈の当否を論じようとは思はぬ」と、距離を保っている。

 

 むしろ、「俳句以外のものをも見逃すことが出来なかった」と次のような書付を紹介している。

 

 をかしき人(こころ魅かれる人の意だろう)

    むざうさ(無造作)に あぐらかきたる人

    つくねんと うずくまりたる人

    我事をわすれたる人

    をさな児と無心にあそぶ人

    妻めづる人

 おもふことなくてゐたる一時ことにめでたし

  

 二葉亭主人が、ぼんやりと時を過ごしている人に心惹かれ、思い煩うことのない無私の境地に至福の時を感じていたことが伺える。(これも、漱石の「則天去私」と通ずるのではないか)

 

  我上ばかり物語りて人の話を耳にも入れぬ人うるさし

 

  自己顕示の激しい、心づかいのない人を嫌ったようだ。

 

 さらに続けて、

 よろづの事を打忘れて吾妻とさしむかひて罪のなき事をむつまじく物語りゐる、はたより見ても羨ましきものなり、… と夫婦愛をうらやんでいる。

 

 草稿は、晩年の7、8年間(1902-1908年)のものらしい。

 

 二葉亭四迷全集の校正係は、若き石川啄木だった。その後、「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買い来て妻としたしむ」と、妻をうたった啄木は、二葉亭の精神の後継者だったのかもしれない。

 

 俳句より、こういった書き記しを見逃さなかった虚子もまた、二葉亭主人のよき理解者であった。

 

 二葉亭が「ほしきもの」として記したメモも紹介している。

 

 紅葉「金色夜叉」 初  中   後 三篇

            40銭 40銭

 西鶴文粋       三十銭

 鴎外 「玉匣両浦島」 十五銭

 明治新俳句類題集   春夏秋冬 各一冊廿五銭

 福地老桜痴人著    赤穂浪士  四十七銭

 紅葉著        しば肴   五十銭

 

 「金色夜叉」「赤穂浪士」など、ほしい本から察すると、ごくごく庶民と変わらぬセンスを持った人であり、15銭などと本の価格を記しているからには、おそらく小遣いも自由にならない暮らしぶりだったことが伺える。言文一致の小説の創始者として教科書に出てくる二葉亭は、偉そうな態度の連中とは縁遠い、ごく普通の感覚をもった愛すべき猫好きであり、愛犬家であったのではないか。

 名無しの猫を追いかけ、マルという犬を探し出しての感想である。

 

 

 

 

吏登の暑苦しい句

 京都の知人らと夜、久しぶりに事務所近くの店で食事した。夏の暑さで知られる京都からやって来た知人は、「東京は暑い。京都より暑い」と、連日の猛暑日が続いている6月末の東京の暑さに唸っていた。

 

 

 最近、「人はどういふ場合に炎熱を感ずるか」と、江戸時代の俳句を通して探った国文学者藤井乙男の文章に出くわした(「炎凉一味」=「史話俳談」昭和18年、晃文社=所収)

 

 たとえば、寝苦しい暑さを描いた句の比較。横井也有の句と、桜井吏登の句を並べている。

 

A 「福者(こぶくしゃ)といはれて蚊屋のあつさかな」(也有)

B 「角力取と並んで寝たる暑さかな」(吏登)

 

 A 我が子らと「卍巴に入り乱れてころがって居る蚊帳の内」と、

 B「小山のやうな大男のそば」とどちらが寝苦しく暑さを感じるであろうかと。

 

 たしかに一昔前まで、子沢山の家が多く、蚊帳のなかで一緒に寝て居たものだ。

 角力取の脇で寝たことはないが、若いころ、柔道家の大男の上司と社内旅行で同室になったことがあり、彼の大いびきで眠れなかった記憶がある。相撲取の寝姿は汗まみれだろうし、いびきも聞こえてきそうである。私には、Bがより暑く感じられる。

 

 江戸と違って、令和ともなると状況は一変していると、つくづく思う。

 A 子福者が減った。会食したもう一人の知人は、政治にかかわるバリバリの働き手で「コロナ禍のリモート勤務で家庭での時間が増え、出生率が上がると期待していたが、前年比3.5%減。経済的な先行き不安で子どもを産めない状況が続いている」と深刻に話していた。

 B 角力取も暑苦しくなくなった。7月の大相撲名古屋場所二所ノ関部屋の宿舎は、サウナ、水風呂用浴槽完備とのニュースが流れた。安城市の住宅展示場が提供したもので、2面の土俵、2階には大部屋と4つの個室があるとのこと。新築された茨城・阿見の同部屋ともども、力士の環境は様変わりしている。

 

 私は、Bの作者の桜井吏登(さくらい・りとう、1681―1755)を知らなかった。「俳人桜井吏登の貧乏も、有名なものであった」(山田仁平「奇人奇話」大正15年、忠誠社)とあり、相当貧乏だったらしい。

 蕉門の服部嵐雪の高弟で、欲のない清貧の俳人だったという。老後に住んだ深川の庵は2畳一間きりだった。

机を置き、書物を積むと殆んど膝を容れる余地もなかった。偶(たまた)ま客があって、対談の折など、後から来た者は、入ることが出来ない」(「奇人奇話」)ので、外で待っていたという。

 俳句にも執着のない人で、年来記しておいた句稿を火にくべてしまい、「人間万事、皆これぢゃ。すべてが灰になり、烟になる」と語った逸話も残る、興味深い御仁だった。

 こんな断捨離の境地の俳人が「角力取と並んで寝たる暑さかな」の句を作っていたのだ。

 二畳の庵にもし角力取がやって来たら、並んで寝るどころか、庵の中にも入れないのではないか、と勝手な想像が膨らみ、なんだかこの俳諧師に涼風を感じる心持ちになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

ミサゴずしと和蘭陀人ヅーフ

 前に、松原さんという鷹匠が、魚を捕る鷹、ミサゴと出くわして、驚いたミサゴが咥えていたクロダイを磯に落としてしまい、松原さんが刺身にしておいしく食べた話を紹介した。

 みさごずし、という言葉があるのを最近知った。ミサゴが捕って岩陰などに置いた魚が、海水がかかって発酵し鮓のようになったものだという。みさごは、よくよく獲った魚を地面に落としてしまうようだ。

 それを待ち受ける鳥が、信天翁アホウドリ)。「和漢三才図会」には、信天翁は魚が獲れないので、ミサゴの落とす魚を浜辺で待って拾って食べる、と記されている。実際は違うのだろうが、江戸時代までそう思われていたのだった。

 

 仙台の俳諧師、大屋士由が撰んだ文化13年刊行の発句集に「美佐古鮓」(みさごずし)がある。序文で、自分は信天翁で、ミサゴの落した発句を拾い集めて、本にしたと書いている。当時、みさごずしやら、アホウドリのことは一般に知られていたことが分かる。

 驚くべきは、この「美佐古鮓」に、和蘭陀人のヘンデレキ・ヅーフが跋文を書いていることだ。

 爰ノ浦の久松熊十郎ノ曰ク、ミサゴト云フ鳥、石間ニ鮓ヲ貯フ、其味ヒハナハダ佳ナリト、今仙台ノ士由ガツケタスシモ、ナンボウウマカベイヤ、一ヒラ食ウテ見タイモノジャト、瓊ノ浦ノ旅ノ舎(やど)リニテ和蘭陀人 

                       ヘンデレキ ヅーフ跋ス 

 千八百十六年四月十三日

 

 みさご鮓が美味いのはここの浜の久松熊十郎に聞いて知って居る、仙台で士由が漬けた俳句の鮓も、なんぼうまかべいや、ひとつ食ってみたいものだ、と方言を交えて書いているのだった。

 

 瓊ノ浦は、長崎のこと。出島商館の甲比丹だったヅーフは、自らを「瓊ノ浦ノ旅ノ舎(やど)リの和蘭陀人」と記した。18年間英船、露船の長崎来航の危機にも対処して出島商館を守ったことで、和蘭陀国王から名誉の勲章を得、幕府からも銀五十枚を贈られ表彰されたこの人物は、翌年11月長崎を発っている。帰国前年に、仙台の俳諧師に「跋文」を送ったのだった。

 


 この集に収められた一句が、前に紹介した「春風やアマコト走る帆かけ船 和蘭陀人」。

 この句の後に、

あまこととはあれこれという事じゃといふておこす」と、方言を交えて記されており、この句はヅーフの作品で間違えないようだ。

 

 前に記したヅーフの「稲妻のかいなを仮らん草枕」の句は、士由と交流のあった白川芝山の「四海句双紙」に掲載されていて、「Inadsma no kaijna wo karan koesa makoera.」の後に、

これは京祇園二軒茶屋にて女の豆腐きるを見て其手元のはやきを感じてしける句なり」と記されてあるのも、今回分かった。(藤井乙男「俳人外の俳人」昭和18年「史話俳壇」収録)

 京都八坂神社の表参道にあった二軒の茶屋は、「二軒茶屋」と呼ばれ、人気メニューが田楽豆腐。それを調理する模様を見せ、京の名物になったという。(中村楼HP)

 ヅーフは、京都で、田楽豆腐の豆腐を素早く切る女性を見て感心して句にしたのだった。

 

 そうなると、句の滑稽味がわいてくる。旅先の枕に、あの素早い動きの女性の腕をかりたいものだ(でも、はげしい動きで、頭が振動して眠れないよ)、つまり冗談を言って、挨拶の句としているのだった。

 

 蘭日の辞書を作り、日本人学者に蘭学を伝えたヅーフは、俳諧の滑稽味も習得した大した人物のように思えて来た。

 

 

ハルビンで連行された愛犬家四迷

 知人宅の隣家の飼猫が、前から我が家の猫に似ているのが気になって居た。似ていることを話すと、わざわざ抱いて連れて来てくれた。体は大きいし年齢は大分上ではあるが、やはり目つき、表情がそっくり。なんだか、わが家の猫に睨みつけられているような気持ちになった。

 家に戻って、写真を比べると、似ていないわけではないが、そっくりというほどでもない。

 

 さて、二葉亭四迷の猫については進展がない。犬に関してはその後、ハルビンで犬をめぐる騒ぎに捲き込まれて、四迷がロシア警察に拘留されたことが分かった。

 

 明治35年(1902)7月2日付の坪内逍遥(雄蔵)あての手紙に、詳細を記していた。小説家をやめ官吏もロシア語教師もやめた四迷は、実業の世界に関心を強め、同年ハルビンウラジオストックで雑貨商を営む徳永商会の相談役の口を見つけ旧満州に渡った。日露開戦の2年前のハルビンは、ロシア治安当局がピリピリしていたようだ。馬車から寺院を撮影した日本人が10日間拘留されたことなどが手紙に書かれている。

 

 犬の扱いについても、ロシアの警察は住民に布達していた。すべての飼犬は「口に輪を嵌め人に咬付くことの出来ぬやう」義務付け、口輪のない犬は「野犬と見做して打殺すべし」という乱暴なものだった。

 

 就職した徳永商会では、4、5匹犬を飼っていたが布達後、2匹だけ飼犬として鎖に繋ぎ、そのほかは追い出して野犬にしてしまった。そのなかの1匹が巡査を咬んで騒ぎを起こしたのに、四迷は出くわした。かまれた警官は、その犬を「打殺さんとて巡査三四名して追廻て」いたという。犬は、前に飼われていた店内に逃げこみ物蔭に潜んでいたが、巡査が追って来て「店先へ引出し其処にて遂に斬棄申候」。犬は斬り捨てられたのだった。

 

 さらに巡査らは、ここに逃げ込んだからには、店の飼犬に違いない、犬の死骸を持って出頭せよと申し付けた。

 

 四迷らは無視し店を閉めると、巡査らは戸が破れんばかりに叩いて、店内にドヤドヤと入り込んだ。警官を締めだすとは何事か、全員逮捕と喚き、とくに目を着けられた四迷は2、3度突き飛ばされ外に連れ出され、一人だけ警察署に連行されたのだった。

 

 不潔な留置場でシラミをつぶす男や手製カルタに興じる男たちと共に、1時間ほど閉じ込められた後、身請けに来た日本人三人のおかげでなんとか釈放されることになったのだった。

 

 四迷の手紙には、四迷らが巡査たちを無視して対抗したさなか、店の支配人は裏口からこっそり出て、警察署に出向いていたことが記されている。穏便に済まそうとする支配人と、犬を殺されて逆上した四迷の怒りの対照的な行動が文章から推測できる。

 

 この後すぐ四迷は徳永商会を辞め9月に北京に向かった。退職理由は経営者の徳永の人物に失望したとされているが、私からすると、極端な犬好きの四迷であればこの一件が大きく作用したように思われる。4、5匹居た飼犬のうち2、3匹を野犬にしたことにも憤っていたのではないか。

 

 後年の小説「平凡」に描かれる愛犬の描写は、内田魯庵のいうように行方不明になった四迷の飼犬マルがモデルであっても、不当な死の描写は、このハルビンで目撃した野良犬がもとになっているのではないか、と思えてくる。

 

 この短いハルビン時代、四迷は市内に写真館を開業し諜報活動をしていた石光真清とも会っていたことが、石光の文章に記されているという(森銑三「明治人物閑話」

87年、中公文庫)。小説を志すと伝えた時、「くたばってしまえ」と父に言われたので「二葉亭四迷」の筆名にしたと、よく知られるエピソードを四迷の口から石光は聞いたことを記している。