四迷の愛犬マル探し

 休日に長男家族と多磨墓地、小平霊園へ墓参りにいった。道中、長男に「うちの猫がネコジャスリを気に入っている」と報告すると、あのプラスティック製のやすりは、猫のざらざらした舌を再現したものなので、猫は他の猫になめられているような気分になって気持ちがいいらしいという。

 それなりの発想からうまれたグッズなのだった。

 

 

 二葉亭四迷の愛犬について、その後さらなる情報を得た。単に、日記を見落としていただけなのだが、明治26年3月6日の鎌倉材木座村の奥野広記宛の手紙に詳しく記されていたのだった。(「二葉亭四迷全集 第7巻」65年、岩波書店

 

 名無しの愛猫と違って、犬にはマルという名があった。

 

去る一月十七日正午ごろ愛犬マル人に窃まれて行方不知と相成候」。

 

 小正月も過ぎたころ、マルが盗まれてしまったと、いの一番に奥野に書きだしている。

 

それより月一杯牛込本郷ハ申迄もなく神田浅草上野等凡そ心当の方角といふ方角ハほとほと残る隅なく相尋ねそう候へども遂に不見当(みあたらず)

 

 四迷は、2週間にわたって、牛込―本郷―神田-浅草-上野と探し回ったのだった。今でいう新宿区-文京区-千代田区台東区と4区を歩き回ったことになる。

 

 秋葉原近くの和泉橋で、四迷は犬を見つける。が、違う犬だった。

和泉橋辺にて似たる犬をみかけそれに物買ひて喰はせる時之心中御察可被下候

 その似た犬に、四迷は食べ物を買って与えたと記している。その時の心境を察してくれともー。

 その時生まれた句が、「その声のどこやらにして風寒し」だったが、他に2句作っていた。

 

 似た犬を見てもどる夜のさむさ哉

 犬うせて世は木からしの吹くのみぞ

 



 手紙によれば、マルは僅か9か月しか飼えなかったという。「その朝(1月17日)縁側にて抱き上げたるが遂に一生のわかれと相成候」「マルの事は終身忘るまじう被存候也」。

 

 手紙には、おめでたも記していた。「一犬を失ひたる代りに一男を得申候」。2月28日に長男が誕生したのだった。

 一般的には、手紙の書き出しは、マルではなく、長男誕生だろう、と私は思うのだが。

 四迷はもちろん、長子の誕生を喜んでいる。

家内中正月が再び来るやうの騒ぎに候へどもかかる間に身をおきながら尚ほマルがゐたならバといふ念は心の底にひそまり居候 誠にあやしき縁と申外有之まじう存候也」この幸せの中で、四迷はマルの不在を嘆いているのだ。

 

 愛犬を探し歩いた半月の事を、「紀念のために書付けおき度存候へども俗事蝟集して未だ意に任せず候」という一節がある。

 探索行を記念に書き残したいが、俗事で忙しくてままならぬ、ということらしい。結局それは、書き残されたのだろうか。私は、四迷についてはよく知らないので分からない。

 

 四迷の愛猫探しのつもりが、愛犬のマル探しになってしまった。

 

四迷に付いてきたノラ犬

 日記や書簡を頼りに、二葉亭四迷の猫の情報をさらに得られないか、と思った。

猫でなく、犬が出て来た。

 

 日付のない、伯父の後藤有常宛ての手紙の末に、発句が4つ添えられていて、

「愛犬を失ひて」と題して

その声のどこやらにして風寒し

 と、失った愛犬への思いを俳句にしていた。(「二葉亭書簡」昭和7年、尚徳堂叢書)

 

 この手紙は、結婚の報告なので、つねとの一度目の結婚(1893年)直後のものと推測されるという。当時四迷は小説の筆を折り、内閣官報局の官吏として、役所通い。英字新聞や露字新聞の翻訳の仕事をしていた。

 

 内田魯庵の回想記を頼りに、その愛犬を調べると、犬は家を出たまま行方知れずになっていた。

留守中、お客が来て格子を排けた途端に飛出し、何処へか逃げて了って夫(それ)切り帰らなかった」。(「おもひ出す人々」)

 

 魯庵によると、愛犬は四迷が仲猿楽町に住んでいた頃、「役所の帰途に随いて来た野良犬をズルズルベッタリに飼犬として了った」ものだという。

 犬は、「ポインターとブルテリヤの雑種」で、器量はよくなかったと魯庵は記している。狐のような容貌で、家族は嫌がったが、独り四迷は可愛がり、犬も四迷だけによくなついたという。四迷が役所に出ると、「留守中はションボリして時々悲しい声を出して鳴いてゐた」とも。

 

 四迷は、この犬への思い断ちがたいものがあったようだ。1907年、小説「平凡」でこの愛犬をモデルにした「ポチ」を登場させる。

悲しいにつけ、憶出すのは親の事…それにポチの事だ」「ポチは言ふ迄もなく犬だ!」「私に取っては、ポチは犬だが…犬以上だ。…第二の命だ。

 

 

 小説の犬は、主人公が子どもの頃に、家の玄関に彷徨ってきた生後一か月たたない小犬という設定になっている。両親の反対を押し切って飼った犬は、「育つに随れて、丸々と肥って可愛らしかったのが、身長(せい)に幅を取られて、ヒヨロ長くなり、面も甚くトギスになって、一寸狐のやうな犬になって了った」と、行方不明になった愛犬の狐のような風貌にしている。(トギスは、かまきりのこと)

 

 誰にでもなつく人懐っこい犬に成長したポチは、近所の犬たちと親しくなった。ポチの食器を狙って、首をつっこむ犬にも黙って食べさせてやるような犬になった。

 ところが、ある日。少年が学校から戻るとポチは居なくなっていた。近所に野良犬の捕獲員がやって来て、ポチも捕まったらしい。目撃によると、道端で寝て居たところ、鼻先を棒で叩かれて死んでしまったのだ。ポチは最後まで相手に尻尾を振っていたという。

 少年はポチがどこかで生きているのではないかと心の整理がつかず、悲嘆にくれるーといった内容だった(始めて読んだ)。

 

 魯庵は「仲猿楽町時代の飼犬の実話を書いたものである」としているが、どこまでが実話なのかは知れない。

 

 こうしてみると、四迷の飼猫に対する異常な可愛がり方は、この愛犬を失った心の傷が大きく影響しているのではないか、と思えて来た。

 

 魯庵によると、四迷は、猫のさかりの季節には、飼猫の相手を気にして、「酒屋の三毛は癖が悪いとか、桶屋の斑は悪相だとか、乾物屋の黒は毛並が良くないとか、頻りに近所の猫の噂をした」。

 猫が妊娠すると「親がドラ猫だらうが泥坊猫だらうが、大変な騒ぎだ。愈々産気づくと、行李の蓋かに何かに襤褸(ぼろ)を敷いて産褥を作ってやった

 子猫の「縁付け先が心配であった。鼠が暴れるから猫でも飼はうかといふやうな家には遣りたくない」と言い張る。ある時、貰い先がやっと決まったところ、四迷の猫愛を知っている魚屋が飛んで来て、「アスコの家の児供(こども)は評判の腕白ですからおやりになるのはお考へものです」と言ってきたという。

 

 遠い存在であった二葉亭四迷が、飼犬、飼い猫の話を知ると、なんだか、身近な人間に思えてくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねこじゃすり」から二葉亭の名無し猫まで

 母の日ばかりか、父の日も、長男夫婦が毎年ちょっとしたプレゼントを用意してくれる。ちょっと面はゆい。

 今年の母の日は、ガーデニング用の日よけ対策クリーム一式、(早めの)父の日は「ねこじゃすり」だった。

 私は「ねこじゃすり」を知らなかった。

 

 プラスティック製のヘラで、これで猫を撫でると猫が気持ちよくなり、体がとろけるようになるのだという。広島県呉市にある老舗のプラスティックやすり製造者が、猫用に開発したのを見つけてきたらしい。

 

 ヘラの太い方で猫の背や腹、細い方で顔、後頭部などを撫でる。わが家の猫も横になって、まんざらではなさそう。

 

 最近、わが家の猫は、甘えがひどくなり、ニャアニャアと遠くから人を呼びつける様になった。洗面所で横になり、撫でろと甘え声を出す。左側面を撫で、首を揉んでやると、裏返って右側面を撫でろという仕草をする。

 満足すると、急に私の手を噛もうとして、じゃれてくる。おかげで手に生傷が絶えない。この一連の行為に、今後「ねこじゃすり」が一枚かむことになりそうだ。

 

 細は、喜んでいる猫を見ながら、「父の日というより、猫のプレゼントみたい」というが、猫が喜べば私もうれしい。

 

 さて、明治時代の猫好きナンバーワン作家の二葉亭四迷(1864-1909)を調べていて、きょう6月6日(114年前の1908年)、上野の精養軒で、四迷のロシア特派員壮行会が開催され、「猫」の作家夏目漱石(1867-1916)も出席したことを知った。2人は仲が良かったらしい。この日が最後の顔合わせとなった。

 

 四迷の猫愛は漱石をはるかに超えていた。明治27年(1894)ごろ皆川町(内神田)の家に迷い込んだ白猫を年寄るまで大事に育てた。飯田町、東片町と猫も一緒に転居し、「白いムクムクと肥った大きな牝猫が、いつでも二葉亭の膝の廻りを離れなかったものだ」と内田魯庵は「二葉亭余談」で振り返っている。東片町の時代(明治30年~32年)には、猫はだいぶ耄碌し、居眠りばかりしていたが、四迷の顔をぺろぺろ舐めるのを喜んでいたという。

 

 実は、この猫はあまりかわいい顔つきをしていなかった。「毛並から面付までが余り宜くなかった」(内田魯庵)。訪問客は猫の顔つきをズバズバといってのけたようだ。

 二葉亭はむきになって、「人間の標準から見て、猫の容貌が好いの悪いのというは間違ってる。この猫だって誰も褒めてくれ手がなくても猫同士が見たら案外な美人であるかも知れない」。その証拠に、さかりが付いたオス猫が大勢やって来る、と言い張ったという。

 

 ただし、こんなに面倒を見たのに、猫に名前は付けなかったのだという。

 

 交流のあった漱石と四迷の猫好き同士、猫の話もしたのであろうが、調べていないのでわからない。名前がなかった「吾輩」の猫と、名無しの四迷のメス猫との関連もなんだか気になってくる。

 

 四迷は、翌1909年5月10日、ロシアからの帰国途上、ベンガル湾を航行中の客船で客死した。45歳。シンガポールで荼毘に付され、遺骨は日本に運ばれた。雑司ヶ谷漱石の墓で一緒に眠っている猫のように、四迷の猫もどこかに葬られたのだろうが、魯庵はそこまで書いていないようだ。四迷の白のメス猫についても、知りたくなってきて、私自身もう収拾がつかなくなっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

川端康成とペンギン検印紙

 ペンギンのような検印紙が気になったので、新聲閣発行の他の書籍を取り寄せた。

 

 

 おなじペンギン風の検印紙だった。書籍発行の昭和15年当初から新聲閣の検印紙の図案だと確認できた。

 



 思いがけない発見は、ペンギンのような動物に捺された検印が、記号だったことだ。

 

 大きな△の中に小さな▽。あるいは△が3つ積み重なったもの。一体何か。

 

 著書は「正月三ケ日」(昭和15年)。著者は川端康成

 

 「正月三ケ日」扉。装幀は芹沢銈介


 5分ほど考えてたどり着いたのは、ひょっとして家紋ではないか。

 

 WEBは便利だ。川端康成の家紋がすぐ分かった。鎌倉時代の執権北条家が用いた「北条鱗紋」だった。

 まさに△を三つ組合わせた「三つ鱗」の一種だった。(川端家のような、白い△からなるものは「陰三つ鱗紋」「陰北條鱗紋」というらしい)

 

 川端康成は、家紋印鑑を検印に用いていたのだった。

 

 ほかでもそうか。本棚に、川端が2年後に甲鳥書林から上梓した「高原」(昭和17年)があるので、取り出して奥付の検印を確かめた。

 

 

 平凡な「川端」印だった。川の字の左のノが跳ね上がっているのが、特徴的ではあるが。

 

 なぜ、北條鱗紋の家紋を川端は択んだのだろう。

 

 彼の美意識が、この稚気あふれるペンギンの腹には、「川端」でなく「△」からなる紋章印が相応しいと、判断させたのではなかろうか。

 

 たかが小さな検印紙ではあるが、デザインの力は、堀辰雄ばかりか、川端康成の遊び心をも擽ったのではないかと思った。

 

 

 

 

ペンギンのような不思議な検印紙

 前に京都の甲鳥書林の特色ある「検印紙」に触れた。

 森田草平の猫の絵の印や、堀辰雄の一琴一硯之楽の印が捺された同社の検印紙は、大きさも4.8cm×5.5cm の見事なものだった。 

 最近になって、4.3cm×6.0cmと、タテがもっと長い検印紙と出くわした。

 新聲閣発行の高浜虚子「霜蟹」(昭和17年)だ。

 

 大きいばかりか、ちょっとユーモラスな動物のデザインに目を惹かれた。お腹に「虚子」の径1.0cmの小印がちょうどいい具合に捺されているではないか。

 

 検印紙は出版社が用意するから、発行者の新聲閣・大悟法利雄が考えたのだろう。

 

 新聲閣に関する文献は少なく、しばらく手がかりがつかめなかったが、「日本古書通信」(2013年7月号)に、石橋健一氏の「新聲閣本と大悟法利雄」が掲載されているのを知った。

 

「一九四〇年代初めに、新聲閣という小さな出版社があり、2年4か月の間に15冊の文芸書を刊行した。経営者は歌人でもあった大悟法利雄(一八九八-一九九〇)で、若山牧水の高弟として生涯を牧水の歌業の顕彰につとめたことでも知られる。出版社としての活動は短かったが、出版した図書はすこぶる特色あるものだった」

 

 石橋氏によると、大悟法は昭和15年に初めに刊行した横光利一「秘色」の帯文で「最近のあまりにも粗雑な書籍の氾濫を慨く私は、さういふ意味で最も良心的な出版をやって行きたいと思ふ」と宣言し、続く第二作の川端康成「正月三ケ日」の限定本の帯には「校正、印刷、用紙、装幀、製本、その他、現下の情勢が許す範囲内での最善を期したつもりである」と書いているという。工芸品としても見事な本作りらしい。

 

 こういった大悟法の意気込みを知ると、存在感をもった検印紙の理由もまた伝わってくるように思う。

 

 状況が悪化した2年後の「霜蟹」の装幀は、洋画家の中川一政が担当。黄地に茶色の壺を配した大胆なデザインは、表題作の上海から送られた壺入りの霜蟹の随筆を受けてのものだった。函には「洋紙本」と記され、用紙にも気を遣っていることが伺われる。

 

 この検印紙は、他の本でも使われているのだろうか。興味が湧いてくる。

 この不思議な動物については、中川一政作ならば合点が行く。ひょっとしてペンギンではなかろうか。「ニト」とも読めるサインは、あるいは、「一政」を半切した左側の「一正」かもしれない。新聲閣についても知りたくなってくる。

 

  扉絵



 

 

 

 

20年代パリの美術品収集

 石井柏亭「巴里日抄」を読んで、1923年当時のパリに沢山の邦人画家がいたのに驚いたが、おおきな要因は円高だったようだ。第一次世界大戦(1914-1918)の終結後、連合国側の日本は好景気で、円相場が高騰した。

 

 当時パリに遊学していた文学者成瀬正一をテーマにした関口安義氏の論文で次の文章に行き当たった。

 

第一次大戦戦勝国日本の円は強く、大戦前は1フラン39銭内外の為替ルートが、たちまち20銭台に、成瀬がのちフランス滞在中の1923(大正12)年には13銭を割り、以後も円高は続いた」(「成瀬正一の道程(Ⅱ)松方コレクションとのかかわり」2006年3月、文教大学文学部紀要)。

 

 円が対フランで、大戦以前より3倍の価値があったことが分かる。22年に船川未乾画伯が夫人同伴で渡仏できた背景も、これで納得できる。

 

 上記の論文では、成瀬の興味深い松岡譲宛書簡を紹介していた。

 

先日出かけて絵を二枚買ひました。二枚で千七百フラン、即日本の二百五十円位です。日本人の油絵よりは上手で安いんだから面白いぢゃありませんか」(1921年4月30日付)

 

 石井柏亭の日記にも、画家たちの美術収集について書かれていた。洋画家より「懐具合がいい」日本画家がとくに買っていると。

 

 土田麦僊  ルノワル(ルノワール)、ルドン、セザンヌ、ヷン・ゴオグ(ヴァン・ゴッホ)、アンリー・ルーソー(アンリ・ルソー

 菊池契月  ビシエール、ブラック

 石崎光瑶  エジプト美術

 

    柏亭は画家たちが手に入れた作品をチェックしていた。

 

 洋画家にも珍しく懐具合のいい人がいたらしい。「硲君が相当なものを買ってゐる」と、硲伊之助がドラクロワの水彩、ピュヴィス(シャヴァンヌ)のパステル画、アンリー・ルーソー(アンリ・ルソー)の2作品を買ったと書いている。

 

 土田麦僊については、最近の研究でクールベ、シャバンヌ、ドーミエも購入し、作品名も判明しているのだった。(豊田郁「土田麦僊の欧州遊学をめぐって」2015)

 ルノワール「婦人像」、クールベ「男のパイプを咥えた肖像画」、ゴッホ静物画、シャバンヌの素描、ドーミエの素描、ルドン「若き仏陀」、ルソー「風景」、セザンヌの水浴の画。

 

 この直前に、西洋美術を大量に収集した人物がいた。実業家松方幸次郎だ。日本から流出した浮世絵8000点以上を買い戻し、西洋美術も3000点以上購入した。

 柏亭の日記の前年まで、松方はパリを中心に2回目の収集事業(1921年4月から1922年2月)を行なっていたので、日記にはその余韻が伝わる箇所も出てくる。

 

1923年2月20日 ボアシイ・ダングラの町のマヌリイと云ふ画堂に其主人と会って、彼れが東京美術館(ミュウゼ・ヂュ・トウキャウ)に売りたいと云ふユウジェエヌ・カリエエルの画を三枚見た。成程その二枚は単色的ではあるが、よく仕上げられたカリエエルである。こちらの人はミュウゼエ・ヂュ・トオキョウと云ふけれど、そんなものは存在して居ない。それは多分松方氏の集を指すものであらうが、松方氏は既にカリエエルを持って居られるだらうと私は云った

 

 松方は「東京美術館」を名乗って大量の購入をしていた様子が知れる。松方の収集を手伝った上記の成瀬は「松方さんが来て方々絵を買ひに歩いてゐる。ゴオガンが十五六枚、セザンヌ四十八枚、クウルベ十枚を筆頭に沢山買った。矢代(幸雄)君も一緒だ。日本で展覧したら立派なものだらう。世界の大抵の美術館には劣るまい。八百枚以上の名画があるんだから」(松岡宛書簡、1921年9月5日付、関口論文から)

 

 これらの3000点以上のコレクションは、散逸、焼失。戦後フランス国内に保管してあった400点分が、フランス政府に没収された後、上野の国立西洋美術館建設を条件に日本に370点返還された。今私たちが見ることができる「松方コレクション」だ。

 

 柏亭の日記には、もう一か所、東京美術館が登場する。バスクの画家スビアウレ兄弟の個展を訪ねた時の記述。

見ごたへがあった。スビアウレの名と其画の写真とは知って居たが、原画を観るのは今度がはじめてである。其画の二つに『東京美術館買上』と云ふ札がついて居た。松方さんが買はれたのかと思って見た

 

 スビアウレ兄弟は、スペインの音楽家ヴァレンチン・スビアウレ(マドリッド音楽院教授)の息子たちで、ともに生まれながらに耳が不自由だったため、父はすぐに絵画を学ばせ、才能を伸ばしたのだった。兄弟はパリでフランス美術に触れ、故郷にもどって地元バスク地方の風物を描き、20年代にはスペイン国内で知れ渡り、米国でも個展が開かれるようになった。

 1923年に小規模の個展がパリで開催され、柏亭が関心を持ったのだが、その前に松方が購入していたことが分かる。

 

 日本にあるスビアウレ兄弟の作品は、兄ヴァレンチンJr(1879-1963)の2点が長崎県美術館の須磨コレクション(2次大戦中、駐スペイン外交官の須磨弥吉郎が購入し寄贈)、弟ロマン(1882-1969)の「オンダロアの港」が大原美術館に所蔵されている。国立西洋美術館の松方コレクションにはない。

 

 1923年に柏亭が目撃した「東京美術館買上の2点」はどうなったのだろうか。

1 ロンドンに保管された900点に含まれ、1937年に焼失したのか。

2 日本で保管された1000点に含まれ、世界恐慌の1927年に散逸したのか。

 

 世界恐慌で打撃を受けた松方は、日本保管分のコレクションを手放したが、そのうちの一部は大原美術館にも渡ったという。あるいは、柏亭がパリで見た購入作品2点のうちの1点がこの「オンダロアの港」なのだろうか。興味は尽きない。

 



 こういった「懐具合のいい」人たちの美術収集の流れのなかで、未乾画伯は美術品など買って帰る余裕も、意志もなかったことは間違いない。

 パリからは版画のエッチング機械を買って帰った。版画制作に意欲を燃やし、この機械で童話作家の尾関岩二と版画100枚入りの「イソップ画集」を計画したのだった。それなのに病魔に襲われて逝去。本当に惜しいことだと、あらためて思うのだ。

 

 

 

 

 

 

未乾のパリ滞在と石井柏亭「巴里日抄」

 船川未乾画伯夫妻のフランス留学の様子を知りたいと思っているが、たどり着けない。

 滞仏の時期が重なる画家の石井柏亭の2度目のパリ訪問の日記「巴里日抄」(「滞欧手記」大正14年)を見つけた。

 石井の1923年1月から2月の日記には、画家など沢山の在留邦人に会ったことが記されていた(こんなに留学生が居たのかと驚くくらいに)。

 

 画家=藤田嗣治、小山敬三、正宗得三郎、坂本繁二郎、児島虎次郎、平岡権八郎、大石七分、長谷川路可、田邊至、齋藤豊作、黒田重太郎、矢崎千代二、坂田一男、山本森之助、跡見泰。

 京都の画家では、土田麦僊、菊池契月、川端弥之助、国松桂渓、霜島之彦、中井宗太郎(美術評論)らと会っているが、船川の名はない。

 

 柏亭の巴里スケッチ「サンシュルピース広場」

 

 ただ船川画伯とつながりがある人物が出てきた。朝香宮鳩彦親王と画家ロオトだ。

 

 朝香宮鳩彦親王

 

 1月18日の日記。石井は、朝香宮が宿泊していたホテル・マジェスティックで開かれたレセプションに出席した。「軍事研究」を目的に渡仏した親王は、前年12月11日にパリ到着、随員2名とともに、ホテルの8室を借りて豪勢に暮らしていた。

 

朝香宮殿下のレセプションがあるのでそれに出席した。御傍の人は私の誰であるかを問はうとしたが、殿下は微笑されながら『知ってる知ってる』と仰せられた。/画家仲間の出席者は児島君と藤田君、それから正宗君、平岡君位なものであった。平岡君は殿下と御同船した関係があって既に御馴染になって居た。同じ出席者である大住君の誘ふままに、帰途同君の宿へ寄って夕飯を御馳走になった

 

 朝香宮は、石井と顔見知りだったようだ。巴里で活躍していた藤田、児島の両画伯が招かれている。「大住君」は哲学者大住舜氏、気の毒なことにこの年の11月パリで客死している。

 実はこの数か月後の4月1日、朝香宮は交通事故で瀕死の重傷を負ったのだった。一足先にパリで生活していた従兄弟の北白川宮成久親王からさそわれて、同房子妃らとともにドライブに出て大事故にあったのだ。

 パリ西方140キロ辺り。運転していた成久殿下は数時間後に死亡。後部座席に乗っていた房子妃と鳩彦親王は、複雑骨折などの重傷を負い長期の入院生活を強いられた。

 

 船川未乾氏の甥・港井清七朗氏が、「鮭の人生―間人より出でて間人に帰る」のなかで、帰国後の京都での船川夫妻の生活を回想し、パリの宮家の事故について記している(富士正晴「榊原紫峰」)。

 

叔父の渡仏中日本から行っておられた数人の宮様方が交通事故でパリの病院に入院され、叔父夫婦がよく見舞に行き、知遇を得ていた。わけても北白川宮大妃殿下の思召により、大作を買って頂いた話等聞かされた

 

 入院していた朝香宮鳩彦親王北白川宮房子妃を、船川夫妻が度々見舞い、とくに房子妃と懇意になって、画伯の大作を買ってもらうほどになった、ということになる。

 どういう経緯で見舞に行ったのかは皆目見当がつかない。

 

 北白川宮房子妃は明治天皇の第7皇女で、母は権典侍・園祥子。京都の公卿園家の血をひいている。夫を亡くし、心細いパリで治療を受ける同妃にとって、京都言葉を使う船川夫妻の見舞いに癒されたと想像できる。女性同士、咲子夫人の役割が大きかったのだろう。

 7か月入院生活を強いられた朝香宮親王の方は、事故を知った允子(のぶこ)妃が、6月にパリに駆けつけ看病にあたった。允子妃は、房子妃の実妹で、房子妃にとっても心強い来訪だったと想像できる。

 

 実は、石井柏亭も見舞に訪れたことが、「白京雑信」(滞欧手記)に記されていた。柏亭は正宗得三郎とイタリアへ旅行に出、ローマからアッシジへ向かう列車で、イタリア人から新聞を見せられて、事故を知った。パリに戻り、ブリュッセルに向かう時、画家の斉藤豊作宅を訪問し、入院先を知ったのだった。

 

斉藤君の室から新緑の木立を隔てて見えるのがアルトマンのサナトリュームで、其處に北白川宮朝香宮両殿下が入院してゐられるのだと聞いたからお見舞に廻ることにした」と書いている。

私の知ってゐる朝香宮附の武官の藤岡さんは留守だったが、北白川宮附の人に会って御見舞を申上げた」。事故後時間があまり経っていなかったせいか、あるいは簡単に宮様とはお目通りが出来ないものなのか、私にはよく分からない。

 

 船川夫妻は特別だったのだろうか。ふと思ったのは、船川画伯は、京都の美学者園頼三と友人だったことだ。同じ園姓というだけで、なにも根拠はないが、2人の妃とも遠いつながりがあったのかもしれない。

 

 船川画伯の数少ない遺作は、創元社創設者の矢部良策、詩人薄田泣菫とともに、北白川宮家に所有されていたことが分かったが、いずれも現在どうなっているのかは分からない。

 



 アンドレ・ロオト画伯とアカデミー・モンパルナス

 

 石井柏亭は、朝香宮のレセプションの8日後の1月26日に、船川が学んだキュビズム系の画家アンドレ・ロオトの教室を訪問している。

 

朝ロオト氏の教場へ行って見た。モンパルナスの停車場側のリュウ・ヂュ・デパアルにあると聞いたが、其入口があまりに汚いので始めは眼に入らなかった。庭木戸のやうな處に入ると、其處に家畜の小屋があったりする。屋外の階段を昇ってアカデミイ・モンパルナスの教場へ入ると、其處の学生の作品を批評しつつあるロオト氏を見出した。学生は大半を女性によって占められて居る。国松金左氏も其御弟子の一人となって居る。ロオト氏の批評を聴き又其筆をとって正すのを見ると、氏は各個人の性質に関しては頓着するところなく、誰もに対して同じ構成の方則を授ける様に見えた

 

 国松金左氏は、国松桂渓画伯のこと。滋賀県生まれ、京都で活動した。

 石井氏は初め、学び舎の入口の汚いこと、女性の画学生の多さ、学生に対する一様なロオト氏の教え方が気になった様子。耳を傾けていくと、

 

曲線の按排、運動の方向の按排、暖寒色の按排、明暗の按排と云ふ様なことのみに氏は学生の注意を向けさせる。それは絵画の構成上欠く可からざる方則であるが、これは物象の写生に相当の経験ある者が聴いてはじめて有益なる可く、また筆のもち方を碌々分らぬ様な令嬢などが聴いても余り役に立たないのではないかと察せられた。此教場には午後又別にコムポジションのクラスがあると云ふ事である

 

 石井氏は、ロオト氏の高度な内容の授業に気づいたようだ。「相当の経験ある者が聴いてはじめて有益な」ものと理解し、午後のコムポジションの授業にも関心を抱いたように見える。

 

 

 パリの美術界を観察した石井氏は、キュビスムについても詳しく別に書いていた。

以前のやうなキュビズムは今すっかり影を収めてしまった。それはピカソの両面で代表されて居る様に、一方は其単純化を古典的の方向へ運び、他の一方は自然の再現を全く無視した幾何学的形像の調整に向って居る。…アンドレ・ロオトや、ビシェエルや、アクリス…等は後者に属する。(中略)ロオトやビシェエル等は自然物の形象を保ちながら其處に線形色の自由な配合を図ろうとし」ていると、ロオトの目指しているものを捉えている。

 

 船川氏はパリ留学中、この家畜小屋のようなものがある庭先から屋外階段を昇る教場で、ロオト氏から「曲線の按排、運動の方向の按排、暖寒色の按排、明暗の按排」など、貴重な教示を受けていたことが伺われる。「自然物の形象を保ちながら其處に線形色の自由な配合を図ろう」という方向は、帰国後の船川氏の発言と重なっている。

 

 船川画伯は、パリの邦人画家たちとは交流をせず、黙々とロオトの教場で学んでいたこと、そして、事故にあった「宮様」たちの見舞いにも行っていたことがぼんやりとながら分かって来た。