「ねこじゃすり」から二葉亭の名無し猫まで

 母の日ばかりか、父の日も、長男夫婦が毎年ちょっとしたプレゼントを用意してくれる。ちょっと面はゆい。

 今年の母の日は、ガーデニング用の日よけ対策クリーム一式、(早めの)父の日は「ねこじゃすり」だった。

 私は「ねこじゃすり」を知らなかった。

 

 プラスティック製のヘラで、これで猫を撫でると猫が気持ちよくなり、体がとろけるようになるのだという。広島県呉市にある老舗のプラスティックやすり製造者が、猫用に開発したのを見つけてきたらしい。

 

 ヘラの太い方で猫の背や腹、細い方で顔、後頭部などを撫でる。わが家の猫も横になって、まんざらではなさそう。

 

 最近、わが家の猫は、甘えがひどくなり、ニャアニャアと遠くから人を呼びつける様になった。洗面所で横になり、撫でろと甘え声を出す。左側面を撫で、首を揉んでやると、裏返って右側面を撫でろという仕草をする。

 満足すると、急に私の手を噛もうとして、じゃれてくる。おかげで手に生傷が絶えない。この一連の行為に、今後「ねこじゃすり」が一枚かむことになりそうだ。

 

 細は、喜んでいる猫を見ながら、「父の日というより、猫のプレゼントみたい」というが、猫が喜べば私もうれしい。

 

 さて、明治時代の猫好きナンバーワン作家の二葉亭四迷(1864-1909)を調べていて、きょう6月6日(114年前の1908年)、上野の精養軒で、四迷のロシア特派員壮行会が開催され、「猫」の作家夏目漱石(1867-1916)も出席したことを知った。2人は仲が良かったらしい。この日が最後の顔合わせとなった。

 

 四迷の猫愛は漱石をはるかに超えていた。明治27年(1894)ごろ皆川町(内神田)の家に迷い込んだ白猫を年寄るまで大事に育てた。飯田町、東片町と猫も一緒に転居し、「白いムクムクと肥った大きな牝猫が、いつでも二葉亭の膝の廻りを離れなかったものだ」と内田魯庵は「二葉亭余談」で振り返っている。東片町の時代(明治30年~32年)には、猫はだいぶ耄碌し、居眠りばかりしていたが、四迷の顔をぺろぺろ舐めるのを喜んでいたという。

 

 実は、この猫はあまりかわいい顔つきをしていなかった。「毛並から面付までが余り宜くなかった」(内田魯庵)。訪問客は猫の顔つきをズバズバといってのけたようだ。

 二葉亭はむきになって、「人間の標準から見て、猫の容貌が好いの悪いのというは間違ってる。この猫だって誰も褒めてくれ手がなくても猫同士が見たら案外な美人であるかも知れない」。その証拠に、さかりが付いたオス猫が大勢やって来る、と言い張ったという。

 

 ただし、こんなに面倒を見たのに、猫に名前は付けなかったのだという。

 

 交流のあった漱石と四迷の猫好き同士、猫の話もしたのであろうが、調べていないのでわからない。名前がなかった「吾輩」の猫と、名無しの四迷のメス猫との関連もなんだか気になってくる。

 

 四迷は、翌1909年5月10日、ロシアからの帰国途上、ベンガル湾を航行中の客船で客死した。45歳。シンガポールで荼毘に付され、遺骨は日本に運ばれた。雑司ヶ谷漱石の墓で一緒に眠っている猫のように、四迷の猫もどこかに葬られたのだろうが、魯庵はそこまで書いていないようだ。四迷の白のメス猫についても、知りたくなってきて、私自身もう収拾がつかなくなっている。