漱石熊本時代の猫の名は平凡な・・・

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  漱石の熊本時代の猫について、さらに調べてみたー。
 熊本での暮らし(明治29年~明治33年)で、漱石は3度目に転居した大江の家で、猫と仔犬を飼った。
 
 漱石の鏡子夫人が思い出を振り返った「漱石の思い出」(夏目鏡子述、松岡譲筆録)に、詳しく述べてあった。猫が夏目家にいたいきさつは、大江の家に鼠が出たためだった。
 
「家に鼠が出て仕方がないのでその話をしますと、ちょうどそこへ女中の姉さんが来合わせていて、それなら家の三毛猫で非常に鼠捕りのうまいのがおりますからそれをあげましょう」ー。
 
 猫は、女中テルの姉の飼っていたものだった。書生の股野義郎(「吾輩は猫である」の多々羅三平のモデル)が、母屋の別棟の離れに住んでいたが、そこでも「鼠が出てしかたがないから猫を貸してくれといって」、猫を連れて行ったことがあった。
 
 そのときのことを鏡子夫人はこう語っている。
 
「三平先生猫を連れて参ります。部屋へ行って障子をぴしゃりぴしゃり閉める音がすると、やがて『玉々々』と猫を呼ぶ声がします。そのころはたしかに抱いて行って部屋の中に監禁したはずの猫は、いつの間にやら台所でテルの足に背をなすりつけながら、にゃんと鳴いているという徹底した間の抜け方です」
 
 股野は猫を「玉」「玉」「玉」と呼んでいる。「タマ」という名前だったようだ。
 
 漱石命名したものでなく、前の飼主(テルの姉)が付けていたと想像される。お膳の食べ物を盗んでしまう「はしっこい猫」で、客用の小鯛なども銜えて逃げるので、ついに、捨てられるはめになった。
 
 「とうとういまいましくなって、みんなが腹を立てて捨ててしまえということで衆議一決しまして、その捨て役が書生の土屋さんに決まりました」とある。
 
 大江の家には、新婚の夏目夫妻、書生(股野君、土屋君)、女中テルの5人が住んでいた。衆議一決とあるからには、漱石も賛成したのだろう。
 
 土屋君は、五高へ通学の途中に猫を捨てるが、玉は何度も帰ってきては、悪さをする。ついに土屋君は目隠しして捨てれば戻らないと思いつく。猫を探す土屋君は、「おおおお、そこにいたのか」と家に戻って客人の膝の上に居た猫を捕まえ、懐から古靴下を出して猫の頭に巻いて連れて行った。
 
 そのとき、猫が座っていたのは、なにも知らず来宅していた元の飼主(テルの姉)の膝の上。夫人たちは、猫を捨てるとは伝えていなかったので、ヒヤヒヤしたと述べている。
 
 漱石の熊本時代の猫は、鼠対策用の貰い猫で、名前は平凡な「玉」だったということが分かった。猫のその後は書かれていない。半年ほどで転居した井川淵町の第4の家では、飼われていないから、可哀そうに本当に捨てられてしまったようだ。
 
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 上の写真は、第5の家、内坪井の漱石旧居の庭の句碑。
 「我に許せ元日なれば朝寝坊」
 
 鏡子夫人の「漱石の思い出」によると、朝寝坊の常連は鏡子と、女中のテルだったと書かれている。