隼人の鷹犬は百済の渡来犬か

 鷹狩における鷹犬の存在。古代日本でも、鷹と犬がセットだったことを伺わせるものが残っている。
 
 奈良時代天平十年(738)筑後国正税帳」にこう記されている。
貢上鷹養人参拾人・・・貢上犬壱拾五頭」。
 大宰府に、税として鷹匠30人、犬15頭が献上された。
 
 続きがある。この鷹匠と犬は、大宰府鷹匠10人、犬5頭を受け取り、残りの鷹匠20人、犬10頭は、同年10月、奈良の都に届けられた。
 御鷹部領使の筑後国従六位上、日下部宿祢古麻呂が3人の従卒とともに都に届けたと、周防国正税帳に記されている。
 
  天平時代に、鷹狩で鷹犬が大きな役割を持っていたことが分かる。鷹犬は調教されていたのだ。
 では大宰府に納められた鷹や犬は九州のどこから届けられたのだろうか。九州には、鷹を育てた地名と考えられる「鷹屋郷」が2個所ある。大隈国肝属郡薩摩国阿多郡だ。(倭名類聚抄)。
 
 大隅隼人、阿多隼人と隼人が住んでいた土地だ。前に推定したように、隼人が鷹犬を育てていたことを、示しているようだ。
 
 では、いかなる犬種だったのだろう。ヒントになるのは、2010年に、発掘された5世紀の犬の骨だ。『河内の牧』があったとされる大阪府四条畷市の蔀屋北遺跡で体長52㌢(弥生犬は46㌢程度)の犬の骨が見つかった。
 遺跡には、百済の渡来人を想起させる土器、馬具が出土した。また韓国の勒島遺跡(BC1世紀と古いが)でも、似たような犬の骨が出土していることから、犬は、百済からの「渡来犬」と考えられている。
 
 クチという「ハヤブサ」の鷹狩りが百済から移入した(日本書紀)のと同様、鷹犬も、百済から移入されたということではないか。52㌢だと、四国犬くらいの大きさだという。薩摩犬や、その元祖とされる甑山犬を想像してみる。
 
 縄文犬、弥生犬が鷹犬に育てられたのか、或は古墳時代の渡来犬が各地で鷹犬として育てられたのか。鷹狩りのことを調べて行くうちに、どんどん深かみに入り込んでしまった。
  
イメージ 1 西郷隆盛の愛した薩摩犬のつん、つんも鷹犬の末裔か