ハイタカやコノリを用いた放鷹楽

 
  暑いなか、忙しない生活を送っているけれど、合間を縫って、「鷹狩り」の探索を続けている。
  
 「放鷹楽」について。
 
 奏楽に、鷹狩りを表現したものがあった。村戸弥生さんの「遊戯から芸道へ:中世における芸能の変容」を読んで、「放鷹楽」の存在を知った。
「放鷹楽」は、帝王が鷹狩りを終えた後、宴会を開いて奏したもので、日本では嵯峨天皇9世紀に唐の「放鷹楽」を真似て始めたという。実際に鷹を腕に止めて舞う、鷹狩りの技術を必要とした難しいものだったらしい。そのせいか、平安末期にもう行われなくなった。
 
 唐から入ったものだから、曲も舞もそのままだったろうが、ひとつだけ、違うところがあった。そう、鷹を止める左右の腕の違いだ。教訓抄」という後世の書(1233年)には、その時の様子が「左手ニ鷹ヲ居テ、右手ニ楚ヲ持チタリ」と、書かれている。村戸さんは「大陸では鷹は右手に据えられているので、その点は和風化されている」とさりげなく書いている。
 
 10世紀に醍醐天皇が御所・清涼殿で行った「放鷹楽」では、左手に止める鷹の種類が出て来る。「鹞」あるいは「小鹞」とある(「西宮記」)。ハイタカ、コノリ(ハイタカの雄)だ。
 
 平安時代は、オオタカより、ハイタカが好まれたことがここでも伺える。
 
イメージ 1 信西古楽図から。これもコノリかハヤタカか
 
 
 注目すべきは、この時の放鷹楽には、鷹犬の犬飼も登場することだ。犬は登場させず(不随犬)、新羅琴師の船良実が「犬飼装束」をつけて小鳥を取り付けた菊の枝を持って立ったという。
 実際に鷹を舞台で飛ばし、小鳥を捕まえさせたので、却って、鷹犬を登場させるわけにはいかなかったのだろう。混乱するから。
 
 平安時代の鷹狩りで、犬飼が活躍したことを想像させるとともに、逆に、鷹犬が日本でその後発達しなかった理由も伺わせるものだ。
 
というのもー。
 
(続く)