(大海がどこかは知らない)。

鷹の種類も出てくる。青木富太郎訳では、「セーカー鷹」「ペルグリン鷹」とあるが、「セーカーハヤブサ」「ハヤブサ」のことである。今も中近東で高額で取引される大型の隼、セーカーハヤブサ。今も狩りで活躍するハヤブサ、この2種が当時も重宝されていたことが判る。
河畔での狩りのために、「ゴスホーク鷹」も準備したとある。「オオタカ」のこと。カモなど水辺の鳥の猟に用いたのだろう。
モンゴル西部のカザフ族が用いるイヌワシなど、大型のタカは出てこない。
移動の際、通風に悩む皇帝は、4頭の象を並べ、その上に作られた木造の部屋におさまった。傍に12羽の「大鷹」を置き、付き添いが、上空に鶴を認めると、「陛下鶴がとんでおります」と叫んだ。皇帝は、上部の窓を開けさせ、鷹を放った。部屋の中から、あるいはベッドに横たわって鶴を仕留めるのを眺めたという。
皇帝の最上の獲物は、鶴だった。
鶴は体が大きく、クチバシも長く、強い鳥だ。小さなワシタカ類では歯がたたない。恐らく、「大鷹」はメスのセーカーハヤブサ(全長56cm位)クラスだったと推測する。
日本でも江戸時代の将軍は、好んで鶴狩りをした。徳川綱吉で中断した鷹狩りを復活させた8代将軍吉宗は、内外の文書を調べて、帝王の鶴狩りを重視し、次代将軍から、正月の年中行事に定着させたそうだ。そのときは、オオタカを用いた。野生の鶴は捕るのは難しく、係が飼いならして用意したらしい。
ハーンも将軍も、鶴を狩るのが帝王学か―。「東方見聞録」のマルコ・ポーロの知見が、宣教師を通して、日本に入り、時代を経て、吉宗にも届いたか。あるいは、そもそも、中国の文献に記されていることなのか、ちょっと調べてみる価値がありそうだ。