陛下、鶴が飛んでおります

 モンゴルの鷹狩りについて、アレコレ述べてきたが、モンゴル帝国最盛期の鷹狩りについて、あいまいにしていた。マルコ・ポーロの「東方見聞録」を本箱から出して、パラパラめくった。
  出てくる、出てくる。チンギス・ハーンの孫で、元朝の初代皇帝 フビライ・ハーンの狩り三昧は半端でない。皇帝、貴族らは冬を、大都(北京)で過ごし、3月になるといっせいに大海を目指し、南下したとある。
 (大海がどこかは知らない)。
 
 皇帝は、貴族、将校のほか、鷹匠も家族ともども引き連れた。鷹500余、鷹匠1万余と記される。
 
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  鷹の種類も出てくる。青木富太郎訳では、「セーカー鷹」「ペルグリン鷹」とあるが、「セーカーハヤブサハヤブサのことである。今も中近東で高額で取引される大型の隼、セーカーハヤブサ今も狩りで活躍するハヤブサ、この2種が当時も重宝されていたことが判る。
 
 河畔での狩りのために、「ゴスホーク鷹」も準備したとある。オオタカ」のこと。カモなど水辺の鳥の猟に用いたのだろう。
 
 モンゴル西部のカザフ族が用いるイヌワシなど、大型のタカは出てこない。 
 移動の際、通風に悩む皇帝は、4頭の象を並べ、その上に作られた木造の部屋におさまった。傍に12羽の「大鷹」を置き、付き添いが、上空に鶴を認めると、「陛下鶴がとんでおります」と叫んだ。皇帝は、上部の窓を開けさせ、鷹を放った。部屋の中から、あるいはベッドに横たわって鶴を仕留めるのを眺めたという。
 
 皇帝の最上の獲物は、鶴だった。
 
 鶴は体が大きく、クチバシも長く、強い鳥だ。小さなワシタカ類では歯がたたない。恐らく、「大鷹」はメスのセーカーハヤブサ(全長56cm位)クラスだったと推測する。
 
  日本でも江戸時代の将軍は、好んで鶴狩りをした。徳川綱吉で中断した鷹狩りを復活させた8代将軍吉宗は、内外の文書を調べて、帝王の鶴狩りを重視し、次代将軍から、正月の年中行事に定着させたそうだ。そのときは、オオタカを用いた。野生の鶴は捕るのは難しく、係が飼いならして用意したらしい。
 
  ハーンも将軍も、鶴を狩るのが帝王学か―。「東方見聞録」のマルコ・ポーロの知見が、宣教師を通して、日本に入り、時代を経て、吉宗にも届いたか。あるいは、そもそも、中国の文献に記されていることなのか、ちょっと調べてみる価値がありそうだ。