首里の中山門は明治の教科書にも載っていたのに

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 明治28年に発行された「訂正中学日本地誌全」(三宅米吉校、東京・金港堂書籍)の三版=明治31年。
 
 明治時代の中学生の地理の教科書だ。
 
琉球」の項を探した。
 
 挿絵があって、やはり、この頃から「守礼の門」が、沖縄のシンボルになっていたのか、と思ったら、違った。似ているが「中山門」(ちゅうざんもん)だった。
 
 こんな門があったっけか。
 調べてみると、琉球王国の初代国王、尚巴志首里で都作りをし、1428年に作った第一の門が、この中山門だった。建国門と言ったが、明国が「中山」の額字を送ったので、「中山門」と呼ばれたという。

 首里高校の近く、首里観音堂前の坂を登り切った辺りにあったが、現存しない。
 
 守礼門は第二の門として、100年以上経ってから作られたそうだ。中山門は明治41年(1908年)に腐朽を理由に競売され、取り壊されたという。残っていれば、「守礼の門」でなくて、こちら、或は2つの門が、首里のシンボルになっていたに違いない。
 
 明治31年に教科書で沖縄の代表的な建築と理解されていたものが、10年後の明治41年に、破却されたわけだ。このあたりの事情は、もっと突っ込んで調べてみたい。