明治28年の「訂正中学日本地誌全」は、改訂版のようなので、その前に「中学日本地誌全」が発行されていたのだと思われるが、詳しくは分からない。
著者・三宅米吉は、歴史学者、教育学者として知られるが、若きころは、『方言取調仲間』を作って、全国の方言の調査、保存の活動をするなど、明治の中央集権の流れの中では、自由な考えを持つ偏見の少ない学者だった。法隆寺所蔵の獅子狩文錦が、西アジア起源のものと、指摘したことでよく知られている。
そっくりだと思う。下のhpを参考に。
調べた限りでは計4枚の中山門の写真があった。うち2枚が、門の脇に電柱が立っていた。
沖縄に電気が通ったのは、大阪の才賀電機商会によってで、1910年12月とされる。明治41年(1908)に、中山門が壊されたということになっているので、つじつまがあわない。
才賀商会の沖縄の支所が08年に設立されていたので、1908年に工事が進んでいたといことだろうか。
琉球新報、明治41年5月31日付に、こんな記事があった。
《首里旧都の遺跡中山門は柱木ことごとく朽ちそのため傾斜し居たるを昨年は支柱を成したるにより潰倒を免かるに至りしも、昨今はこの支柱もついに役にたたず、さらに屋上の瓦落下するより、いよいよ危険となり同区役所において入札に付することとなれるが、開札は明後2日正午12時なりと。》
区役所(なんという区だったのか)は、修繕という選択もなく、危険を理由にいそいで、入札の措置をとっているようにも思える。思い過ごしだろうか。
電気を通した才賀電機商会は、2年後の1910年鉄道事業を開始する。通堂ー大門前ー首里間に認可が下り、1914年大門前ー首里間で開業した。首里にいたる駅は、坂下ー観音堂前ー首里。ちょうど中山門に出る坂道だ。
どうだろう、区と才賀電機商会との間で、整備計画のようなものがあり、中山門が壊されたのは、鉄道敷設事業を見越してだった可能性があるのではないか。電気が通り、電車も出来る、本土からの新時代の経済活動の中で、首里の文化財がおろそかにされたのではなかったか。
あくまでも、簡単な調べだけの私の仮説だが、沖縄の人が文化財に対して当時関心がなかったとだけで、言い切れるものか、もっと調べる必要がありそうだ。
教科書には真玉橋を背景にした挿絵も