ミカンを食べながら沖縄のクネンボを思う

 与那原恵さんの「首里城への坂道」の中に、宮古島の子守唄「東里真中(あがずさとんなか)」が出て来る。
 
蜜柑木(ふにりあ)が うが如んよ
香ばしゃ木が     うが如んよ
島覆い   照り上がりよ
国や覆い  照り上がりよ
 
 蜜柑の木が成長するように、香ばしい木が成長するように、島を覆い、国を統べる立派な人におなりなさい、という歌だと書いてあった。
 
 この蜜柑ってなんなのだろう。気になった。今の沖縄では、タンカン、温州みかん、あまSUNなどが主として栽培されているようだが、明治、大正の頃はどうだったのだろうか。
 
 1916年発行の伊波普猷監修「琉球語便覧」を開いて蜜柑に関する言葉を調べた。
「柑」        ミカン
「香橘(クネンボ)」 クニブ
「仏手柑」      ブッシュウカン
「橙」        デーデークニブ
の4種類が載っていた。
 
  宮古の子守唄では、蜜柑木をふにりあ、と呼んでいる。宮古島では蜜柑のことを、「ふにず」というのだという。
「H」音は「K」音と交代することが多いから、「ふにず」は「くにず」。
沖縄本島で、タクシーの運転手さんと「南風平=こちんだ」の話になった時、「ほちんだ」と発音していたのを覚えている)
「ブ」と「ズ」は違うが、クニブと似ている。
 
 クニブは、九年母=クネンボ。原産は東南アジアで、室町時代に渡来し江戸時代に紀州みかんが登場するまで、日本の主流だった。家康やら秀吉やら大名たちが好んで食べていたのは、このクネンボだったという。
 沖縄の主要産品だったが、1919年に害虫「ミカンコミバエ」が発生し、本土への移出が禁止(解禁は60余年たった1982年)。生産が激減し、やがて本州産タンカンや温州みかんに主役を譲ることになった。
 
 クネンボを食べたことがない。
 石田波郷の句「九年母や我孫子も雪となりにけり」を最近見つけた。
 戦時下の昭和17年(1942年)の作だ。首都圏でクネンボが普及していたのだろうか。ミカンコミバエのせいで、沖縄産のクネンボは手に入らなかったはずだ。
 波郷の故郷松山から届いた愛媛産のクネンボだったのか。
 
 この冬、紀州有田みかん、愛媛みかん、周防大島の青島みかん、浜松の三ケ日みかんを食べているが、クネンボを食べてみたい。
 沖縄産は名護市の羽地が有名な産地だったが、いまも簡単に手に入るのだろうか。
 
 島覆い、国覆う、めでたい蜜柑木であれば、なおさら。