麦南句集の印

 甲鳥書林の書籍のなか、「人音 西島麦南句集」(昭和16年)は凝った検印紙に動じず、普通の印を捺してあった。

 

 西島は23歳から5年間、「新しき村」に参加した。そのためか、武者小路実篤が装幀を担当して野菜や果物(柿)の絵を描いている。

 

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 目を通すと、俳句より、著者の「序にかへて」が印象に残るものだった。西島の頑固なほどの考えが出ている。それによると、子供時代から画家を目指し、やがて文学にひかれたのだという。プロの作家の道は険しい。やがて藝術で食べて行こうとするのは、間違っていると確信する。

 

「文学をなりはひとすることの困難さを知った頃の私は、また同時に、文学にかぎらずなべての芸術を衣食することに良心のやましさを感ずるやうになった。/詩をつくるより田をつくれ! 恰もそのとき、詩もつくり田もつくり、さうして人と人とが相争ふことなく睦びあひ扶けあふ美しい世界を創ることが唱へられて、私も志を同じうする人達と共にあしかけ五年の間、高千穂の峯の聳ゆる日向の山村に、その生活の苦みと楽みをあぢわつた。しかし私はつひにそこに安住することができなかつた」

 

 実篤の新しき村の運動に参加するが、結局離脱する。

 

「それからの私は、一人の生活者として、広い世の人音の中に生きてきた」。熊本生まれの西島は上京して、出版社の校正係として生活の糧を得る道を選んだ。

 

「人音の裡にあつて、俳句に心を労する楽しさと、苦しさと、それはいともはかないいとなみながら、私の生きの限りにおける唯一筋の心の小径である」と、飯田蛇笏に師事し、会社勤めをしながら「きらら」「雲母」と蛇笏、龍太の親子の主宰する句誌で、一途に俳句を発表しつづけたのだった。

 

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  戦後75歳まで岩波書店の校正の仕事をし、「校正の神様」と呼ばれるようになった。そういう俳人であり、文学者にとっては、「著者検印」などに頭をかかずらわせることなど論外であったのかもしれない。

 

 前に書いた新しき村の詩人加藤勘助が失明したことに寄せた句があった。

「加藤勘助君失明

  春愁のなみだをしぼる眶(まぶち)かな」

 

 猫の句も3句

 春の猫しづごころなき寝耳かな

 春の猫夕づく爐邊にめざめけり

 孕み猫膝にいたはり針供養