新しき村を訪ねてみた

 武者小路実篤の設立した「新しき村」は今どこにあるのか、調べてみると、知人の住む埼玉県日高の近所の毛呂山町だった。
 
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  台風24号が来る前の日、息子の運転で村の中にある「武者小路実篤記念 新しい村美術館」を訪ねてみた。時計を後戻ししたような静かなたたずまいで、妙に落ち着いた気持ちになった。
 
 息子夫婦は、美術館で実篤の書に興味を持って、「相田みつをみたいだ」とささやいている。私らが若い頃は、「仲良きことは美しき哉」など実篤の書がプリントされた色紙や皿が、どこの家庭にもあったものだったのだが、彼らは知らないのだった。
 私は「桃栗三年、柿八年、達磨は九年で俺一生」という書を見て改めて感心していたのだが。
 はて、今調べている英文学者の工藤好美氏と「新しき村」のつながりのヒントがないものか。美術館の女性が、宮崎県児湯郡に開村された当時の様子が分かる「新しき村の八十年」の冊子を持って着てくれた。自宅でゆっくり調べると、工藤さんの名はないが、同郷の大分県佐伯市出身の詩人加藤勘助の存在が浮かび上がった。
 
 山頭火の研究をされている佐伯市の古川敬さんの文章をHPで見つけたところ、勘助は佐伯市で短歌誌「金盞花」を創刊し、若き工藤青年が投稿し、同人になっていた。文学仲間だった。
 WEBで見つけた古川さんの「盲目の詩人 加藤勘助の生涯」(佐伯史壇、2013年)によると、勘助は大正6年(1917)に、大分県別府に滞在していた歌人の木下利玄とたまたま知り合い、友人の実篤を紹介されたいきさつを記していた。
 その時、実篤は「新しき村」を構想し日光、信州など候補地を考えていたが、勘助が推薦する暖かい宮崎、日向にすぐに決定。翌710月、佐伯の勘助を訪問。一緒に海路を宮崎・土々呂(トトロである!)に出、周辺を歩きながら、村役場に飛び込んでは土地探しを続けたのだという。
 土地は見つかったが、その途中で勘助は失明して脱落。福岡の九大病院で治療を続けた。大正9年に実篤は、失明した勘助を迎えに行き、手を引いて村に招いたのだった。
 
 失明しながらも農耕をし、故郷の佐伯新聞に「新しき村より」と題して逝去するまで寄稿。佐伯の青年たちは、実篤、勘助に会うために、新しき村を熱心に訪ねたという。残念ながら、勘助は入村9年目の昭和4年に風邪をこじらせて39歳で逝去。村では「加藤勘助詩集」を発行して偲んだ。
 
工藤青年は勘助が入村する前の闘病時代に早大入学のために上京している。実際に新しき村を訪ねたのか、分からない。しかし、「白樺派」の運動のごく近くにいたことがわかる。
 
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 毛呂山新しき村売店で、村で栽培する椎茸、新茶を買った。広い食堂があり、祭の時に使うのだという舞台がついていた。大きく村の空気を吸って、村を後にした。