猫をきっかけに、長谷川如是閑(1875-1969)の文章を少しばかり読んでみると、大変変わった人物であるように思えた。
1. 人間より犬が好きだと公言し続けていたこと。
2.「断じて行わず」をモットーに、決して行動の人とならなかったこと。
一について。如是閑は、亡き飼犬を、亡き友と称して、思い出話を随筆「亡友四匹」に書いていた。
如是閑は「庭を金網で囲って多くの和洋犬を放ち飼い」にしながら、犬と暮らしていた。近所の住人に気を遣わずに、奔放に扱った様子がよく知れる。例えば、そのうちの一匹は、朝の通勤で如是閑を最寄りの「電車の停留所」まで見送るポインターだったが、帰り道、他家の犬と出会うと喧嘩し、庭に入り込んで荒らしたり、畑の中を走り回るような犬だった。
近所で悪い評判が立ったが、如是閑は、苦情を放置していたところ、ポインターは村の何者かに毒を飲まされ、死体で発見されたと記している。
戦後、如是閑は戦争中も態度を変えなかった自由主義者として評価され、文化勲章(1948)、文化功労者(1951)という栄誉を受けたが、犬への偏愛も一貫していた。小田原住まいの1964年ごろの様子を、「シロ子嬢」という随筆に書いている。
「シロ子嬢」は、純白のメスのスピッツ犬のことだ。
シロ子嬢を飼う前に、如是閑は台所に迷い込んだ別のメスのスピッツを飼っていた。その犬が家を出たきり帰ってこない。近所の中学校にスピッツの迷い犬がいると聞きつけ、家人を見に行かせたところ違う犬だった。それを家人は連れ帰って来た。それがシロ子嬢。
「飼ってやったらと、いわれて家に連れて来ると、すぐに家のものに馴染んですこぶる行儀がよく、何も教えないのに、まるで家の子供の様に振る舞うので、そのまま飼犬にした」。
如是閑は、シロ子の訪問客への対応、状況判断に感心してしまう。
「昔の子供が、何ら言語による教訓を与えられずに、自然と家の躾を身につけるという、日本の家の伝統―いまの日本の家にはほとんど失われているーを、洋犬でありながら、立派に引き継いでいるのである」と、戦後の子供たちに欠けている行儀のよさをシロ子が身に着けていることを褒めちぎっている。
おそらく、シロ子の前の飼い主が、躾けたのだろうが、そのことは念頭にないようすだった。
第二については、大阪朝日新聞退社後、同僚の大山郁夫、京大の河上肇の3人を同人として、発刊した「我等」の運営の仕方でも伺われる。編集は大山と如是閑が行い、校正は東京帝大の学生が無報酬で手伝ったが、「そのころ河上、大山の両君は実行運動にはいったが、「我等」の同人は『運動』に関係しないという約束だったので、退社してもらって、私一人になった」。
国家主義とマルキシズムの対決が鮮明になっていく昭和初期の思潮のなか、マルキシズムなどの「『運動』に参加するよう勧誘されたが、一切断って、私のモットーの一つの「断而不行」を厳守して『運動』は一切断って、『時代遅れ』とそのころからいわれていた、自由主義の孤塁を守って、『我等』に立て籠って、ついに十年つづけた」(1963年「行易不行難」)と振り返っている。
「行うは易く、行わざるは難し」のモットーを貫き、時代の熱狂や団体行動を嫌ったのだった。
城大工の棟梁だった先祖から職人気質を受け継いだという人物評があるのも知った。猫、犬の文章から伺える人物は、世間との距離の取り方が独特で、もっと他の著作を読んでみた方がいいかと思った。
事務所の近所に持ち帰りコーヒーの店が開店した。手書きの店の名刺に、猫のスケッチがあったので貰ってきた。