雑誌「改造」-大正14年のケース

 総合誌「改造」を発行した改造社について、理解が足りないので、松原一枝改造社と山本実彦」(2000年、南方新社)を手掛かりにしてみた。

 大正8年(1919)に発刊された雑誌「改造」は、政治家を志望していた鹿児島・薩摩川内出身の山本実彦が、政界進出のために始めた政治評論誌だった。ロシア革命直後のシベリアを調査し、依頼主の鉱山王・久原房之助から得た6万円の大金の残りが元手だったとされる。

 貧しい家に生まれた山本は、警察官僚で内相になった同郷の大浦兼武の庇護を得、やまと新聞記者として英国特派され、大浦の憲政会の仲間後藤新平の資金で「東京毎日新聞」(今の毎日とは無関係)を買収、台湾富豪からの資金集めに、板垣退助と同行して台湾訪問を行うなど、政治家に重宝がられて動く存在だったようだ。

 34歳にして、東京毎日新聞の仲間だった連中と創刊した「改造」は、個人的野望を越え、大きく化けてゆく。後年、執筆者だった作家広津和郎は、「創刊当時、山本氏を助けた編集者がスバ抜けていた」と書いている。「横関愛造氏、秋田忠義氏その他の人々のジャーナリストとしての鋭敏性、時代を掴む正確な感覚、この雑誌を守り育てようとしたその情熱。山本氏の直感的な実行性を、こうした緻密なジャーナリスト達が補佐したということは鬼に金棒であった」(「感無量の二十年」)と辛口の作家が褒めている。  

 「改造社と山本実彦」によると、やり手の山本は、同郷など縁故入社社員の給料を安く、引き抜いた腕利き社員には高額な給料を出した。一流の学者、評論家、作家を、ライバル誌「中央公論」以上の原稿料を出して常連執筆者とし、世界的学者に目をつけ、バートランド・ラッセルや、アインシュタインを高額ギャラで招聘。講演会を超満員にし、最先端の欧米文化を紹介した。

 

 最初の苦境が、大正12年(1923)の関東大震災だった。会社資産が灰燼に帰したが、翌年編集者を公募し、新しい編集頭脳を取り込んだ。その藤川靖夫が、昭和2年に定価1円の廉価本「現代日本文学全集」のアイディアを出し、空前の「円本」ブームを巻き起こして、巨大な収益を上げ盛り返した。

 

 この間の苦しい時代に出版されたものの一つが長谷川如是閑「犬猫人間」(大正13年)だった。新村出「南蛮更紗」、阿部次郎「北郊雑誌」などのほか、スポーツを扱った「改造社運動叢書」「現代代表自選歌集」のシリーズ本など、苦しい時期の改造社の旺盛な出版に驚かされる。 

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 当時の「改造」が手元にある。大正14年(1925)7月号。編集人は平田貫一郎だった。如是閑や大山郁夫も寄稿しているが、興味深いのが、「小田原事件」(大正10年)で絶交状態にあった谷崎潤一郎佐藤春夫の小説が仲よく掲載されていることだ。

 谷崎は妻の千代を、佐藤に譲ることを約束したが、再婚するつもりのせい子(千代の妹)に断られ、谷崎が発言を撤回した「事件」だ。

 この号で掲載されたのは谷崎の「赤い屋根」。谷崎とせい子(女優の葉山三千子)との赤裸々な関係を小説にし、せい子に新しい男が出来、それを見せつけられるのに満足するマゾヒスティクな自画像を描いている。

 佐藤は「この三つのもの」の連載第2回。谷崎、千代、佐藤だと分かる登場人物の、小田原事件のやり取りを淡々と描いている。

 「細君譲渡事件」は、5年後の昭和5年(1930)に3人連名挨拶状で、世間に知れ渡ったが、早くも大正14年の「改造」が生々しい現在形のスキャンダルを同時掲載していたのだった。

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 編集後記には、「『赤い屋根』は近来の力作だ。また幸田露伴氏の『観画談』は雨の夕に静読するにふさわしい」と記されている。露伴の名作は、このスキャンダラスな小説の「創作欄」とは別の「堺利彦自伝」、添田唖蝉坊「演歌流行史」の欄の筆頭に置かれていた。

 面白いのは、雑誌に通しのページ数がなく、ページが三部門に分かれていることだ。したがって1ページが3つあり、「巻頭言」、露伴「観画談」、潤一郎「赤い屋根」がそれぞれ1ページになっている。編集者が露伴、谷崎に気を使っているのか、あるいは、これが当時のやり方なのか、調べないといけないか。

 

 ただ、この号だけでも「改造」の胃袋の大きさがよくわかる。