朝倉彫塑館が気に入っている。内庭に湧水池があり、池を取り巻く和室と廊下。2、3階の広間。一方では天井の高いアトリエ、庭園屋上。数寄屋造りと洋館と一体になっていて、こんなに住みたくなる家屋はほかにない。
それとは別に、この館には、謎めいたことが沢山あるのだ。屋上には、砲丸の少年のブロンズ像のほか、もう一体、肖像が街並みをながめている。
朝倉文夫が昭和22年に制作した「ウォーナー博士胸像」。66歳になっていた 博士(1881-1955)は、同年4月から9月まで、進駐軍の仕事で来日した。その時、自らモデルとなって制作されたのだろうが、経緯は調べていない。
東洋美術の専門家で、岡倉天心の手伝いをしたこともあるウォーナーは、大戦中は連合軍の美術品管理組織の仕事を行い、戦後来日したのも文化財を管理する米軍の組織顧問としてだった。進駐軍の文化財行政では、多大な力をもっていたことになる。
しかし、京都は原爆投下地として予定されており、実際に原爆投下から京都を守ったのは、陸軍長官のスティムソンだった、という説が有力となった。「ウォーナー伝説」は「伝説」にすぎなかったとされている。