謎めいている朝倉彫塑館の砲丸少年

イメージ 1
 
 改装工事後初めて、谷中の朝倉彫塑館へ。屋上庭園から、暮れかかる谷根千、上野界隈の眺望をたのしんだ。
 屋上に据えられた少年像は、一か所をじっとみつめていた。家主だった彫刻家朝倉文夫(1883-1964)の「砲丸」という作品。なんでまた、屋根に? 不思議な彫刻だと思っていた。大正13年(1924)、帝展への出品作という。
 
 東京を焼き尽くした関東大震災の翌年。震災では、東京府だけで7万人が死亡した。上野の界隈も上野駅松坂屋など大半が焼け落ち、避難者が上野公園におしよせた。谷中や上野の山は火災被害が少なく、朝倉は上野の東京美術学校で、粉々に破損したロダン「青銅時代」の修復にあたったという。
 
「砲丸」はそんな時期に生まれたわけだ。
 
 少年は、左に置かれた砲丸を、左手で抑え、右足を球体までのばして、足の裏で持ち上げている。いつでも動いて、砲丸を投げる態勢に入れるような姿にみえる。
 
 彫塑館の前身の朝倉邸は、震災6年後の昭和4年(1929年)から10年(1935年)にかけて作られた。その間に、砲丸は屋上に置かれたのだろう。玄関から見上げると、少年は、西洋建物の奇怪な生物、ガーゴイル、グロテスクのように、館を護る役目を持たされたようにみえる。砲丸で、寄せて来る「魔物」を退治してみせようぞと。

イメージ 2
 
 時代は、ほどなく太平洋戦争に突入。米軍機の爆撃で東京が焼き尽くされた時も、朝倉邸は空襲から免れ、谷中界隈もまた被害が少なかった。となれば、この砲丸少年のおかげか、というと、疑問が残る。戦時下の金属類回収令によって、400作もの朝倉作品が回収されたという歴史的事実だ。世間の目に触れるこの彫刻が例外となったと考えにくい。
 調べるしかないようだ。