上代日向研究所のこと

 球春、プロ野球のキャンプもたけなわ。テレビのスポーツニュースをぼんやりと眺めながら、幾度か訪ねたソフトバンクジャイアンツの宮崎キャンプを思い出す。
 サク越えの当たりを連発する野手を見て騙されたものだ。ブルペンで速球を投げ、仕上がりの早い投手を見て、騙されたものだ。彼らはシーズンインして、全く活躍しないことが多かった。
 
 元選手の評論家に聞いてみたことがある。キャンプではどこを見れば、活躍する選手が分かるのか。
「僕らも全く分からないよ」との答えだった。
 ただ、面白いことを言った。「トレーナーのところへ挨拶に行くのよ。誰が体調がいいか、どこか悪い個所を抱えている選手がないのか、なんとか聞きだして、シーズンになってから情報を役立てるのよ」
 
 見物の合間に宮崎市内の古レコード屋や、古本屋などを探し歩いたのも思い出深い。格調ある店構えの古本屋を見つけたが、残念ながら今はもう廃業してしまった。
 
 イメージ 1
 
 その古本屋で買った本に、見知らぬ研究所の印が捺してあった。
上代日向研究所之章」(「章」は自信がない)。調べると、宮崎市に、昭和16年に開所した研究所の印章だった。
 
 宮崎県は、昭和15年の神武天皇即位2600年を祝う「紀元2600年奉祝行事」に向け、日本建国のふるさと宮崎をアピール。13年には、有力ライバル、奈良(橿原)、鹿児島(高千穂)に対抗し、3つの構想を打ち出した。
 1   八紘之基柱建立、2 神武天皇聖蹟保存顕彰とともに、発表されたのが、3 上代日向研究所だった。
 
 いずれも実現した。「八紘之基柱」=写真下=は、彫刻家朝倉文夫の弟子だったが、離れてわが道を行った日名子実三に委嘱した。
 
イメージ 2
 研究所には、地元の人材を集めた。県立宮崎中学校校長の日高重孝を主事に置き、日向郷土会を主宰し、宮崎高等農林学校教授だった日野巌を民俗部主査に。
 宮崎師範を出た郷土史家瀬之口傳九郎は、遺物部主査。
 日向市生まれで専大で学んだ石川恒太郎は特別委員といった具合。
 
上代日向研究所」は、こういった成り立ちから、時代の流れにそった皇国史観に則った歴史研究所と思い込んだ。
「研究所報第2集」など、国会図書館アーカイブで読んでから、自分の思い違いかもしれない、と思い始めた。骨のある人材が揃っていたのではないかと。
 研究所のモットーはこうだった。
私見ニ泥マズ、公正ニ尋究ス。地方的偏見ヲ去リ、学的良心ニ終始ス。独断ヲ慎ミ、結論ヲ急ガズ、精査明解ヲ期ス」
 
 宮崎キャンプで活躍する選手が見えなかったように、上代日向研究所を第一印象で見誤ってしまったようなのだ。
 (続く)