サク越えの当たりを連発する野手を見て騙されたものだ。ブルペンで速球を投げ、仕上がりの早い投手を見て、騙されたものだ。彼らはシーズンインして、全く活躍しないことが多かった。
元選手の評論家に聞いてみたことがある。キャンプではどこを見れば、活躍する選手が分かるのか。
「僕らも全く分からないよ」との答えだった。
ただ、面白いことを言った。「トレーナーのところへ挨拶に行くのよ。誰が体調がいいか、どこか悪い個所を抱えている選手がないのか、なんとか聞きだして、シーズンになってから情報を役立てるのよ」
その古本屋で買った本に、見知らぬ研究所の印が捺してあった。
宮崎県は、昭和15年の神武天皇即位2600年を祝う「紀元2600年奉祝行事」に向け、日本建国のふるさと宮崎をアピール。13年には、有力ライバル、奈良(橿原)、鹿児島(高千穂)に対抗し、3つの構想を打ち出した。
いずれも実現した。「八紘之基柱」=写真下=は、彫刻家朝倉文夫の弟子だったが、離れてわが道を行った日名子実三に委嘱した。
研究所には、地元の人材を集めた。県立宮崎中学校校長の日高重孝を主事に置き、日向郷土会を主宰し、宮崎高等農林学校教授だった日野巌を民俗部主査に。
宮崎師範を出た郷土史家瀬之口傳九郎は、遺物部主査。
日向市生まれで専大で学んだ石川恒太郎は特別委員といった具合。
研究所のモットーはこうだった。
「私見ニ泥マズ、公正ニ尋究ス。地方的偏見ヲ去リ、学的良心ニ終始ス。独断ヲ慎ミ、結論ヲ急ガズ、精査明解ヲ期ス」
宮崎キャンプで活躍する選手が見えなかったように、上代日向研究所を第一印象で見誤ってしまったようなのだ。
(続く)