石垣島・牧野清さんに教わったこと

家族3人で石垣島や、竹富島で過ごした夏は、思い出深い。
ビートたけしがバイク事故で重体になったニュースが石垣島にも飛び込んだが、
先島の美しく穏やかな礁湖に身を置いていたので、はるか遠い都会の出来事に思えた。
 
石垣市の土産屋のレジになぜか、一冊地元の古びた本が置いてあって、これ下さいと、アルバイト店員に声を掛けると、これ売り物かなあ、と考えていたので、定価で買いますから、というと昭和50年に発行した当時の価格で売ってくれた。
牧野清「登野城村の歴史と民俗」。
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 村の助役をした牧野さんが、石垣島の中心のこの登野城村のことを書いていた。
 巻末近く、尖閣列島がこの村の所有であると記されていた。
 
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東シナ海に石油資源が存在することに端を発して、1970年夏に台湾の国民政府が、12月に北京政府が尖閣の領有権を主張した。
 あろうことか、日本の学者も72年、親中派左翼の論客、井上清京大教授が「釣魚列島などは、中国領である」と結論した。
 日本国際貿易促進協会も井上論文を引用して中国側を支持したという報に、牧野さんは危機を覚え、「南島領属の歴史―京大井上教授の「尖閣列島は中国に属する」という所論に反論す」という論文をものした。それが収録されていたのだ。
 
「私は結論から先に言うならば、井上教授の主張は根本的に誤りであり、それが延いては国民に大きく誤解を及ぼしているのではないかと思う。さらにこれによってひき起された一連の領土問題の動きは、連鎖反応的に国民の誤解を深め、国際間の解決をより困難な方向に導いているように思えて、甚だ遺憾に堪えないものがある。とくに地許 石垣市 の住民として、その思いは切実なるものがある」
 中国側の学者は、現在も井上論文を、中国の領有権主張の根拠にしている。「罪深い」論文なのだ。
 大学紛争の頃、激しい思想がもてはやされ、手放しで中国社会主義をまつりあげたこの学者が、
学生たちや岩波知識人に一定の人気があったことを知っている。
 牧野さんの文章を読んだとき、あの時代を思い返し、都会に住むものの傲慢と浅薄さを反省したものだ。明治28年までは尖閣列島は、国際法上、無主地であって、明治29年日本領土として魚釣島、南小島、北小島、久場島の4島が編入され、明治35年、大浜間切・登野城村の地番が与えられた。
 無主島であったので、明治28年5月発効の下関条約に基づいた、清国割譲の台湾、澎湖諸島には含まれない。日本の尖閣取得は、侵略でなく、奪取でもないと、牧野さんは根拠を挙げて主張している。
 このとき、もっと僕らは耳を傾けるべきだったのだ。
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中国関係の著書もある、高校時代からの知人にきょう電話した。
 「中国どうなるの」
 「こちらが教えて欲しいよ」
 「先がよめないのか」
 「いやなのは、中国も日本も軍需産業の株式が急伸していることだね」
 「軍事衝突を想定しているの」
 「海でなら、被害は少ないと、中国は考えているんじゃないか」