昭和10年の「やまと」1月号は、フクロウの絵の表紙で40頁だて。小泉迂外の句は「初日集」の3番目に掲載されていた。
臼田亜浪「元日を飼われて鶴の啼きにけり」
加納野梅「元日のたちまち暮るる献酬や」
とのどかな新年の句が続く中、迂外は年の暮れの町の情景を3句したためている。
落葉掻く老園丁の夫婦なる
だしぬけに握られし手の冷めたかり
寒い寒い朝の職業紹介所
句が作られた昭和9年暮れは、どんなだったのだろう。
海外では、ドイツのヒトラーが総統になって数か月たち、ソ連では12月に独裁者スターリンによる大粛清が始まった。日本では、1月にオープンした東京宝塚劇場が前年完成の日劇とともに賑わい、大リーガーのベーブ・ルースらの銀座パレードと華やかだったが、東北地方は大凶作に襲われ、欠食児童、身売り、行き倒れ、自殺者が増大し、悲惨な状況に見舞われていた。地域格差、都市部の生活格差は相変わらずだった。
当時の空気を伝えているのは、断然迂外の句だろう。
職業紹介所には、日雇いや、地方から働きに出た婦女子の専門のものも開設された。寒いなか長い列が出来ていたのだろう。手を握られて、冷え切った相手の手を迂外は感じている。
そんな中、庭師が奥さんと一緒に仲良く落葉を掻いている光景に出くわして、心を和まされている。
迂外は「俳人の食味」という文章も寄せていた。松尾芭蕉、正岡子規、伊藤左千夫、内藤鳴雪、尾崎紅葉、巌谷小波、水落露石、河東碧梧桐、久保田万太郎などの食事ぶりを紹介していた。
藤堂家の料理方だった芭蕉はさておき、俳句革新の子規も病気の前は健啖家で、洋食を上野の青陽軒(精養軒でない「せいようけん」があったのだろうか)から取り寄せ、左千夫の影響で懐石に関心を持ち、八百善から料理人を招き、門人たちに「俳句が下手なのは、粗食の故だとまで極言していた」と書いている。
また河東碧梧桐は、昭和4、5年ごろ銀座に「俳諧庵」という料理店を計画、九分九厘まで開業が決まっていたが、マネジャーが脳溢血で倒れて立ち消えになったとしている。全国行脚で酒が強くなり、料理にも関心を持つようになったとのことだ。
食にありつけない人たちがいる世情に目をやりながら、一方では食への関心を綴っている。この時、迂外は50歳だった。