寿司作りと俳人小泉迂外

 

 休日の朝昼は、必ず食事を作っている。大体は細に好評なのだが、パスタ、そば、うどん、ソーメンの麺類や、炒飯、オムライス、親子丼などに限られた狭いレパートリーなので壁にぶち当たってしまった。

 和食に挑戦か、寿司はどうか。ネットの寿司レシピをみると、刺身を買ってきて握るというだけだった。これではやりがいがない。

 

 明治生まれの俳人小泉迂外(清三郎)が、「家庭 鮓のつけかた」(明治43年、大倉書店)を書いていて、国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができるのを知って、覗いてみた。たとえばー。

 

 さばの項(しめさば)

「材料 さば すし飯 山葵

 道具 毛抜

魚の作方 一尺程の腹部の脹れ過ぎぬ材料を撰み、頭を斜に落し、三枚に卸し、腹皮をそぎ、強く塩をふりかけ、一時間程経ちて下酢にくぐらせ塩を落し、毛抜にて中骨を抜き、上部より尾へかけて指先を酢で濡しながら亜皮をむき、尾の方より庖刀を入れて、七切位にへぎ、新酢に一時間程浸します。

握方 皮付の方が表に出るやうに、山葵を挟み両端を曲げて握ります。」

 

 こんな具合だ。やってみるか。

 迂外は、明治に握り寿司を大成した両国与兵衛鮓の四代目小泉喜太郎の弟だった。初代が華屋与兵衛。寿司に詳しいはずだ。

 

 「家庭 鮓のつけかた」には、付録で、鮓の歴史も書かれていて、俳人らしく江戸の宝井其角の寿司の句にも触れている。

 明石より雷晴れて鮓の蓋

 難しい句だが、すらすらと迂外は解いている。

 

 「晋其角が永代橋で夕立に遭ひ、水茶屋に寄つて雨宿りをした時の即興で鮓の蓋には明石傘の紙を用ゐたから一寸明石よりと江戸座一流の洒落を遣つたのです

 

 明石傘は、岐阜傘のことらしい。1639年、播磨明石藩から岐阜の美濃加納藩に移った松平光重が明石から傘職人を連れてきて、岐阜の産業に育て上げた。一年50万本を生産し、武士の内職でもあった。

   元禄のころ江戸では「明石傘」と呼んでいて、また、鮓の蓋に頑丈な傘の紙(美濃紙だろう)を用いていたことが知れる。

 道端の茶屋で雨宿りして、茶と共に鮓を注文したのだろうか、鮓の蓋の明石傘の紙を外すと、ちょうど雨も雷もやんだよー。

 

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 神田神保町の古本屋Y書房で、箱の中の古雑誌を探していたら、「やまと」という昭和10年の見知らぬ俳句雑誌があって、小泉迂外が文章と俳句を寄せていた。

 

 ヴァガボンドの群れの椅子にも散る桜

 

 不況下、桜の下の浮浪者を描いた句で知られているらしい。迂外に興味がわいた。