真珠湾攻撃の8か月前に探察していた記者たち

 今日は真珠湾攻撃の日。
 古本を読んでいて興味深い箇所に行き当たった。
 
 4人の日本人記者が、攻撃の8か月前の4月上旬に、パール・ハーバー周辺を視察していたのだ。欧州に向かいハワイに寄港した同盟通信の欧州特派員斎藤正躬氏、毎日新聞のニューヨーク支局長高田氏、同盟通信のサンフランシスコ支局長秋山氏、日布時事の案内役。
 
 斎藤正躬氏が「北欧通信」(1947年、月曜書房)で、回想している。
 
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 のんびりした雰囲気のホノルルで日布時事のスタッフに歓待された斎藤氏は、観光地への案内を断って、米軍基地周辺の案内を頼む。米国駐在の2人の支局長が参加した事情は書かれていないが、真昼に4人は米陸軍の哨戒点ダイヤモンドヘッドに立った。
 
 日本の要塞なら警戒され誰何されるのに、ハワイの開けっ放しの防備に、斎藤氏は驚く。
「頂上には、物憂げな陸軍の哨兵が、たった一人で岩の上に腰を下ろしていた。
 ―何を見ているんです。
 私は人の好さそうなこの青年に問ひかける。
 ―する事がないから海を見ているんです」
 「―飛行機が飛んで来たらどうするんです。
 ―あのバラックへ行って報せればいい。しかし米国の飛行機以外には飛んでくるものなんぞありはしない」
 
 斎藤氏は、この時点で、日本のハワイ攻撃があることを予想していたかのような質問をしている。ついで、一行は、夕刻に建設中の米空軍のヒツカム・フィールドを観察した後、海軍の根拠地真珠湾を見渡たす丘に車で向かう。
 
夕陽を逆に受けた海軍基地の水は、キラキラと美しい金波をたたえて、静かな夕暮の大気を呼吸していた。逆光の中にシルエットとなって見えるのは、素人の眼にも明かな戦艦、巡洋艦の群……」。
 
私は真珠湾という湾が意外に小さいものだと思った。そしてこの二列に並んだ艦隊が、急に動こうとすれば、湾内は忽ち大混乱になると感じた」。
 
一体日本の航空隊なり、潜水艦なりが急襲を敢行したら、この大根拠地はどうなるのだろう
 と斎藤氏は思ったと記している。
 
 斎藤氏はさらに、日本の艦隊が太平洋を米側に知られずハワイ水域まで来られるか、と考えたと書いている。
この至難な行動を前提とする「真珠湾急襲」を果たして慎重な日本海軍が行い得るだろうか。私の頭の中の或るものが「大丈夫、出来る」と答えているのを認めざるを得なかった
 
 斎藤記者は、かなりの極秘情報を手にいれていたのではないか。1941年4月初旬。日本海軍で真珠湾攻撃計画はどこまで進んでいたのだろうか。
 
1月に山本五十六連合艦隊司令長官が、大西瀧治郎第11航空艦隊参謀長に立案依頼
2月に大西は源田実第1航空戦隊参謀に作戦計画を指示
3月初めに、大西は山本長官に完成した計画書を提出
 
 斎藤氏が横浜を出航したのは3月25日。一連の動きを、海軍担当記者から得ていたのだろうか。山本長官の計画とは別に動いていた特殊潜航艇の攻撃計画も「潜水艦なりが」と、承知していたような書き方をしている。
  
一人の記者の本能的な予感とでもいわうか」と斎藤氏は、日米開戦は避けられない、と予測していたからだという。だが、4人の記者が得たハワイの米軍情報は、当時の海軍にとっても貴重な情報だったろう。
 
 米国側からすれば、スパイ行為と疑ってもおかしくない。この情報を記事にはできまい。なら、記者たちは、誰にどのように伝え、どのようにいかしたのだろうか。
  
 当時、記者の関心が国際情勢にあり、政治、軍事指導者たちの視点とさほど変わらなかったことが判る。
 8か月後の開戦をしらず、ゆったりと暮らしていたハワイ在住の日本人、文章に出て来るのんきな米国陸軍の若い哨兵が気の毒に思えてくる。