上代日向研究所について(3)

 ロサンゼルス、シアトル、バンクーバーなど海外から贈られた石材も活用して建立された「八紘之基柱」の紀元二千六百年奉祝事業と違い、上代日向研究所の開所は手間取り、開所式は翌昭和16年8月8日に行われた。
 研究所は、宮崎県立図書館内に置かれた。その日のスケジュールを、「上代日向研究所報第1巻」で知ることが出来る。
 
 午前8時半宮崎神宮神前で開所奉告祭
 同9時40分宮崎図書館で開所清祓式
 同10時半宮崎県教育会館で開所式。
 
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 式には県内の市長村長ら80人余りが参集し、所長に就任した長船克己宮崎県知事が式辞を読み、近衛文麿・紀元二千六百年奉祝会長、内相、文相の祝電が披露された。
 研究所の指導にあたることになった常任相談役、東京帝国大学教授宮地直一は欠席した。
 
 所長(知事)、副所長(県学務部長)をトップに、顧問は24名(貴族院議員、陸軍中将、海軍大将など)、参与28名(宮崎市長ら県下の市長、朝日、毎日、日向日々新聞などマスコミ)。
 研究調査を行うのは、6名の主事、主査、125人の委員、各郡委員だったことが分かる。
 8月8日の開所式の後、副所長、主事、主査、委員による打ち合わせ会が開かれた。研究方法、範囲など意見を交換し、その結果を日高主事が取り纏め、発表した。
 それが、先に示した綱領だ。
 
一 私見二泥マズ(なずまず)、公正ニ尋究ス。
一 地方的偏見ヲ去リ、学的良心ニ終始ス。
一 独断ヲ慎ミ、結論ヲ急ガズ、精査明弁ヲ期ス。
 
 4か月後の12月には真珠湾攻撃が待っている。全体主義の空気の中で、意外なほど冷静な綱領だと思う。前に紹介した廣田孝一委員の論文も、この綱領に沿った内容だった。
 
 主導的役割を果たしたのは誰だろう。実務部隊の4人の主査が考えられる。
 遺物部 瀬之口傳九郎
 文献部 若山甲蔵
 伝説部 日高重孝(主事と兼務)
 民俗部 日野巌
 
「動物妖怪譚」で知られる日野は、翌17年陸軍司政官として南方転出。主事であり、宮崎県立宮崎中学校校長でもあった日高重孝を中心に方針が決定したのだろう。廣田孝一委員は日高が校長を務める宮崎中の教諭であり、人物を見込んで2論文を依頼したのだと想像される。
 
 翌17年5月17日、上代日向研究所は宮崎市内の委員、県下中学校の歴史研究会員40名余りを集めて、阿波岐原で、弥生式土器の採集を行った。戦時下だ。今はフェニックス・シーガイア・リゾートが建っているが、そのすぐ西にある江田神社周辺。
 
 朝8時に同神社に集合して、日高氏が、イザナキノミコトが阿波岐原で禊をしたという記紀の伝説を話し、瀬之口氏が参集者とスコップで砂丘遺跡の土器を探した。なかなか見つからなかったが、場所を移動し、たまたま見物していた児童が弥生式土器を発見し、皆で完形の甕形土器を掘り出したという。
 
 研究所の主な事業として、所報の発行、県下の考古遺跡の一覧の作成とともに、こういったイベントも行っていたことが分かる。
 
 一見、のんきにも思えるが、瀬之口氏はこの時、宮崎に関する陸軍の決定を知っていたのだろうか。研究所を巻き込む大掛かりな事態が起こることになる。 
 (続く)