昭和19年、広津和郎の日記

 広津和郎の「大和路」には、昭和19年の戦局悪化のころの日記が掲載されていて、これも興味深い。
 1944年6月10日、海軍報道部長・栗原悦蔵大佐から招待を受けて、麻布飯倉の水交社に出かけたときの様子が詳しく書かれている。

 広津のほかに、小泉信三慶應義塾長)、鈴木大拙(仏教学者)、馬場恒吾(ジャーナリスト)、長谷川如是閑(ジャーナリスト)、信時潔(作曲家)、鈴木文史郎(朝日新聞役員)、志賀直哉武者小路実篤斎藤茂吉正宗白鳥小林秀雄ら文学者が呼ばれ、哲学者の西田幾多郎はリウマチを理由に欠席した。

 海軍報道部は、内閣の情報局には、陸軍とともに協力をせず、大本営海軍部の独自の機関として活動を行ってきた。海軍の報道トップであるから、栗原は相当力を持っていたと考えていい。

 副官らしい将校が「どんなことを仰っても決して憲兵隊などに知らせないから、忌憚なき事を述べて下さい」と話したという。

 初めに言葉を発したのが、小泉信三

最近は英国の新聞は手にする機会がなくなりましたが、香港陥落あたり迄は見てゐます。当時のロンドンタイムスにこんな記事がありました。それはチャーチルが議会で香港陥落を報告し、ソ連に対する援助をなさなければならず、正面に独逸をひかへてゐる英国としては東洋を防備する力はなかった。それだから香港陥落は決して軍の責任ではない。それは自分の責任である。自分はどうする事も出来なかったのである。恐らく今後もっと悪い事態が出来するであろう。(これはシンガポールの陥落を予想して云ってゐるらしい)—-それだから若し議会がこの事で自分を不信任と思へば自分は退く。どうか二三日検討した上で、自分に対する信任不信任を決定してくれ」といったのです。そこで議会は二三日議論を重ねた上、再びチャーチルを信任するといふ決議をしました

自信がある国なのですな」と栗原は受け流す。「英国流のフェアプレーに対して、日本の秘密主義のナサケなさが諸家の口から攻撃された」と広津は書いている。

 朝日新聞役員の鈴木文史郎は、「最近の英米軍のフランス上陸は、日本国民に覚悟と警告を与へる絶好の機会だったと思ひます。それを情報局が新聞紙上で目立たなく取り扱へといふので、小さく二段ヌキになってしまったのだが、あれなど国民の覚悟を促す最も良いチャンスだったと惜しいと思ひます」とノルマンディ上陸作戦(6月6日)のことを取り上げる。

 栗原大佐は「さうです。私などもあれは大きく扱わなければいけないと主張したのです。寧ろ全面に取扱へとまで云ったのです。併しそんな事をすれば総理大臣に叱られると総裁(天羽英二か?)が云ふので、ああいふ事になってしまったのです

 鈴木はなおもくいさがり、「独逸の旗色の悪いのを英米が報道してゐるのを、日本の新聞に載せてはいけないといふのは未だ解ります。ところがヒットラードイツ国民に発表してゐる独逸の事を、日本の政府は日本国民に知らせてはいけないといふのです。実際莫迦げてゐると思ひます

 栗原は「そこが六ケ敷いところと思ふのです。それは冷静な知識人には好いですが、無知なものにはなかなか問題と思ふのです。火事だといふと狼狽してしまって消す事も忘れ、箒一本持ってうろうろしてゐる人間が多いのですから

 全員が反駁したという。最初はうろうろしたとしても真実を知らされれば国民は、落ち着きも修練もできるはずだと。

 文学者では、志賀直哉の発言が記されている。「英米がフランスに上陸したといふ重大な報道の出てゐる同じ日の新聞に、日本の総理大臣が大阪で徴用工の小遣帳を調べてゐる写真が載ってゐるなど困りものだと思ふー一体日本の総理大臣は何を考へてゐるのだ」東條英機批判。武者小路が「東條は到るところで評判が悪いね」追随する。

 馬場は「駄目ですよ、いや、駄目ですよ。駄目ですよ」の連発。

 鈴木がインドネシアの体験をもとに、「栗原さんは、この優秀な国民が戦争に負ける筈はないと云はれましたが、日本国民が優秀だといふ証拠がありますか。実は寧ろ反対だと思ひます。僕はジャヴに行ってゐましたが、折角住民の調子がうまく行ってゐたのに、日本から若い官吏が来て、いきなり米を強制的に出せといったので、すっかり民心を失ふ事になってしまったのです

 栗原は「私が申しましたのはさういふ意味ではありません。日本人は最後まで戦ひ、国のために玉砕する。さういふ点を云ったのであります」。と、東條首相がこの年、「一億玉砕」、本土決戦の覚悟を表明していた話を持ち出す。

 これには、出席者は憂鬱に黙してだれも答えなかった。玉砕主義には怯えている様子が伝わる。
 
 チェリストである信時は「あなたが憂国の士である事は、それは解りますよ。併しあなたが御心配になるよりもっともっと重大ですよ。今此処で意見を述べられた方々とあなたの考への間には、まだまだこんなに逕庭(両手を上下に大きく開いて見せる)がありますよ」と語った。

自分は微力でありますが、機会があれば皆さんのご意見を上に向かって進言したい」と栗原はしめくくった。「栗原大佐は飾り気のなく率直な物云ひをする軍人である」広津は近頃珍しい会合と、評価しているのがなんだか悲しい。

 

 どういうつもりで、栗原は話を聞いたのだろうか。文化人の話を聞きながら、戦況の悪化と覚悟を伝えようとしたのだろうか。

 栗原は、この年2月に海軍報道部第一課長に就任すると、毎日新聞の「竹槍事件」の収拾にあたった。新名記者が「勝利か滅亡か戦局は茲まで来た。竹槍で間にあわぬ飛行機、海洋航空機だ」と、壊滅状態の南方戦線の実情を1面に掲載したのだった。本土防衛には航空機が必要で、竹槍では話にならないこと、予算を抑えられていた海軍航空力増強が必要だとする内容だった。

 東條が激怒し掲載紙の発禁、責任者、筆者の処分を命じさせたが、記者は処分されなかった。頭に来た陸軍は新名記者を懲罰召集。これに対して、栗原は、新名を守るために、陸軍と折衝したのだった。そもそも、新名に情報をリークして栗原が書かせたのかもしれない。

 海軍陸軍の激しい対立の中で働き、栗原大佐(少将まで昇進)は手練れの実力者だったに違いない。この後、栗原は終戦工作で力を発揮した。戦後は公職追放されたが、実業家として活躍し、小松フォークリフトの会長を務めたという。