細が朝から不機嫌である。錦織が全米オープンテニスで初戦敗退したためだ。深夜TV観戦して応援したという。
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左利きで、軟式テニス式のグリップが武器だったようだ。大牟田生まれのスポーツマンは、慶應義塾時代、硬式テニス部が創設され、国際的なテニスプレーヤーを目指すことになった。マニラ、上海遠征で力をつけ、大正5年(1916年)米国に遠征。好成績で、いきなり全米ランキングの5位になった。
OBの応援もあってだろう、卒業後も、邦銀NY駐在員となって、米国でテニスを続け、1918年に全米選手権に出場する。準決勝、2-6,2-6,0-6でチルデンに完敗したが、日本人初のベスト4進出をなしとげた。全米ランキングで3位になった。
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当時どのくらい、米国で話題になっていたのだろうか。滞米中の鶴見祐輔(政治家、著述家)が、大正8年(1919)、米国フロリダのパーム・ビーチで熊谷とすれ違っていた。
今はなき伝説のホテル、ロイヤル・ポインシアナ・ホテル(1894年創業)でのことだ。NYからフロリダに、鶴見は3人で旅行した。途中セントオーガスティンで、この豪華ホテルの宿泊を計画した。
「世界で一番大きい木造建築で、収容客の数、千七百を越し、廊下の延長が三哩に及ぶと言われ、米国の金持ちが、一二の二ケ月を、避暑して暮す社交地なのである」「電報で部屋を予約しようかと、三人で鳩首熟議した節、(中略)名も知れぬ我々がうっかり電報をうてば断られる虞れがある。ぶっつけに運だめしをやらう」ということになった。
駅の真ん前にあるホテル。フロントに3人の日本人がおそるおそる立つと、「あなた方は、日本人ですね。テニスの熊谷さんのご一行ですか」と向うから聞いてきた。
口ごもると、≪そうでしょう、どうも、先ほどからそうだと思いました≫。さらに、予約していないことが分かると、「いやよろしい。いい部屋がありますよ。さア、ボーイ、このお三方、八七二番と三番の部屋へご案内!」というサービスぶりだった。
2室は、3階東向きのいい部屋だった。ホテルにはゴルフ場、テニスコートがあり、熊谷は、このコートで試合の調整をすることになっていたようだ。
鶴見の一行は、ホテルの大広間の食堂でも気分良く過ごす。「給仕は、日本人でこのホテルに来る以上は、充分な人物であるにちがいないと、思ったものか、頗る慇懃である。あるひは、矢張り熊谷氏のテニスの余恵であったかもしれない」
海外で活躍するスポーツ選手は、外交官以上に外交官の役目を果たす。前年、ウィルソン米大統領にあって単独インタビューしたほどの鶴見も、理解していなかったようで、残念に思う。日本人スター選手の人気のおこぼれにあずかりながら、文章を読む限り、熊谷や関係者に挨拶にもいかないし、スポーツマンの偉業についての敬意も不足しているように見える。
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HPで見ると、このホテルのすばらしさが伺える。