立石鉄臣さんへの勝手な思い

 立石鉄臣画伯は、台湾生まれの「湾生」だったが、1913年に8歳で家族とともに帰国し、東京で育った。明治学院中等部卒業後、絵の道に進む。小石川にあった川端玉章の川端画学校で日本画を学び、油絵にも関心を持ち、岸田劉生梅原龍三郎に学んでいる。
 
 1933年に台湾写生旅行。帰国後、作品を発表し、認められて国画会会員になった。画像は悪いが、絵葉書となった画伯の「古都台南」が手元にある。
 
 赤嵌楼を描いたもので、梅原龍三郎の影響がよく分かる。
 
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 画伯は、この頃、「美術新論社画廊」(場所が分からない。初めは大阪の朝日ビル5階の画廊と考えたが、台北にあったのかもしれない)で、「立石鉄臣氏洋画展覧会」を開いている。
 梅原は「立石君の個展に寄す」と題して、次のように書いている。
 
君の個展が美術新論画廊で催される事を聞き、僕は君の為に大いに喜ぶ。然し君の素質の面白さは急に多くの人に理解されないかとも思う。然しいつかは理解される為には矢張り見せるより他に手はない。
 (中略)
 君の純粋に絵画的な熱情、気合のかかった色彩、そんな生きたものを持ち合わせた青年画家が今日幾人あるか」
 
 随分と梅原が、若き画伯を理解し、多くの期待を寄せていたものだと思う。
 
 立石さんは、息苦しくなってきた東京より、生まれ育った台湾の空気を好んだのだろう。34-36年も台湾で過ごし、油絵のほか、版画、装丁を手がけ、台湾の民俗画の収集を行った。
 
 39年には台北帝大理学部の荒木教授の誘いで、昆虫標本の細密画を描く仕事を得、台湾生活を開始した。そして、41年に結婚。
 
 画伯は、人類学者の金関丈夫と出会い、『民俗台湾』の仕事で、子供時代に育った懐かしい台北の町を、版画、挿絵で残して行く。終戦後も残った画伯は、金関先生、考古学者の国分直一さんと、台湾省博覧会」の仕事をし、国分先生をモデルに台湾山地人の先祖の大壁画を描いた。その様子は、金関先生がユーモアたっぷりに書いている。
 
 帰国後は、画家だけでは、食べていけなかったのだろう。昆虫図鑑等の細密画の仕事に、コツコツと、そして喜喜として打ち込んだ。洲之内徹さんは 「一枚がどれほどにもならないこういう仕事を、机に跼み込むようにして黙々と続け」たと書いている。
 
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 僕の手元に、かみしばいがある。角田光男・文、立石鉄臣・画「あなたはだあれ」(教育画劇、63年)。
児童向けの仕事を沢山していたことが分かる。
 
 しかし、立石さんは、仕事を択んでいたのだと思う。というのも、この紙芝居はクサアリモドキの女王が、トビイロケアリの巣穴に、擬態をして入り込み、寄生し、トビイロケアリの女王を殺して、産卵し、巣にクサアリモドキを殖やしてしまうという乗っ取り屋の昆虫のトンデモ話なのだ。
 
 成りすまし、会社乗っ取り、オレオレ詐欺と、今では、こんなのが蔓延っているけれど、半世紀前の東京五輪直前、子供たち向けに、立石さんもこんな話の絵を、愉しんで描いていたのだ、と思う。
 
 台湾時代の空気を吸い込んだまま、戦後の日本も過ごした画家。肺がんの手術後、声を失った画伯の看病のため、立石夫人は、1回5分しか許されない午前と午後の面会に、自宅のつつじヶ丘から飯田橋の病院まで、毎日1日2往復して通って、献身的看病に当たったと、洲之内さんは書いている。
 
1980年、75歳で逝去。
 
 あの宋文薫先生の文章は、台湾の青春時代を回顧しながら、画伯への涙の追悼文でもあったのだ。台湾以上に、立石さんのことは日本でも、もっと知られていいのに、と随分長い間思っていた。