うれしい立石鐡臣展の知らせ

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 昨年5月、銀座の泰明画廊で画期的な「立石鐡臣展」が開かれて1年、また5月に府中市美術館で「立石鐡臣展―麗しき故郷『台湾』に捧ぐー」が開催される。5月21日から7月3日までと長期間なので、多くの人たちの目に触れる機会となる。なんだか、とてもうれしい。
 
 台湾では記録映画「湾生画家 立石鉄臣」(藤田修平、郭亮吟監督)も完成し、台北で上映されたのだという。
 
 
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 やっと、立石さんのことが日本でも正当に目が向けられ、また台湾でも、評価が一段と高まっている気配を感じる。
 
 こんな時、ちょっと立ち止まって、立石さん自身が台湾時代の活動をどう見ていたか、確認したくなる。「民芸手帖」1965年7月号に、立石画伯が参加した座談会が掲載されていた。
 テーマは「台湾の民俗と民芸を語る」。
 
 西武百貨店で「台湾民芸展」が開催されたのに合わせて、台湾民芸に詳しい立石さんらが語り合ったものだった。
 
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 立石さんの言葉だけ、少しつまんでみると、
 
生まれたのがだいたい台湾なんですよ。しかしずっと小学校1年の時から東京に来ていましてね。そういう関係から昭和十四年に向うに行き、終戦後の二十三年までいたわけです。だから壮年時代を台湾で過ごした」
「おやじが台湾で官吏をしていたものですから、だから生まれ故郷です」
 
「台湾に行ってた日本人は、役人とその家族がいちばん多い。その連中は台湾のものに親しもうとするよりも、日本の生活様式をそのまま堅持していましたからね」
 
「ですから台湾の人は自分たちの作ったものに誇りみたいのを持っていなくて、日本人らしい生活様式をとるほうが生活が上がるんだという観念を植え付けもしたし、むこうがまた持ちもした」
 
「それを目ざめさせたいちばん大きなものは、やはり昭和十八年に台湾にいらした柳(宗悦)先生が大学で講演したり、全島を歩かれたりして、これが台湾の人たちにある自覚をもたらせる大きなきっかけになった」
 
「そのあくる年ですよ。金関丈夫さんと私とが台湾で博覧会をやって、文教局から委嘱されて全島を調べて歩いたんです。その目的は、そのときの文教局長というのが柳先生のお話やなんかに非常に影響されて、台湾にあるものを生かして、もっと台湾人のかつて作ったものを新しく見直そうということで、博覧会に出すものを選定して歩いたわけです」
 
「それまで台湾の人たちには、自分の意見なり主張なりを発表する機関はほとんど閉ざされていた。それがこの雑誌(民俗台湾=昭和16年創刊、主な編集者は金関、池田敏雄、立石の三氏)ができて、有名、無名を問わず、だれでもが書いていいんだと。それが台湾の人たちには大きな喜びだったようです」
 
 画家としての活動のほかに、皇民化運動の空気の中でそれに染まらず、人類学者金関丈夫氏らとともに、雑誌編集の仕事をしていたことがうかがわれる。