昭和18年3月に台湾を訪ねた時のものだ。
「なかなか味の好いものだ。これは始めてのものだ。如何にも建築を建物らしくするやり方だなあ(士林渡口の籾庫を見て立石鉄臣君を顧みながら)これは絵になるね」
穿瓦衫(chon' nga' sam)は、石灰の壁に瓦を貼り付けた建築装飾で、竹釘や鉄釘で止められた瓦の中心を石灰で覆うことで、見た目にリズムが生まれている。
柳が気に入って、「絵になるね」と、同行した画家の立石さんに同意を求めた様子が伝わる。この時、立石画伯は38歳。旧知の金関さん(46)の要望に応えて戦時下に台湾にやってきた柳は54歳だった。
昨年の泰明画廊での立石鐡臣展の図録に、キャプションなしで4人の男性の写真が掲載してあったが、実は、柳と立石さんが一緒に撮影された貴重なものだった。天野朗子さんの「台湾の工芸と柳宗悦」(民藝737、2014年5月号)を、読んで分かった。
「高砂族の織った織物を、美しいと見る人は多い。しかしそれを産んでくれた人々に驚きを感じる人が稀なのは不思議である。彼等を未開人と軽蔑している人は、その布の美しさを知っている人とは思えない。ましてあんな原始人にどうしてこんな美しい布が織れるのかと考えるごときは僭越の至りである。そうしてまた、なぜこんな事が我々に容易に出来ないのかと考えるごときも、うぬぼれから来るのである。我々にはできにくく、彼等にはできる力が当然あるのだと、そこまで考えてくれる人が稀なのは淋しい」
昭和18年6月発行の「民俗台湾24号」に書かれた柳の文章「台湾の民藝」の一節から、立石画伯の驚きを想像してみる。
民藝運動家との出会いが、もたらした影響についてはこれからの宿題としよう。
前述の天野さんの文章によると、当時の台湾航路は米潜水艦に狙われ、柳の数日後に出航した高千穂丸は撃沈されたという。命がけの台湾訪問だったのだった。