琉球資料の東博の解説を解読する

 東京国立博物館の「空海密教美術展」は、仕事の合間を縫って、平日を選んで出かけたものの、人出の多さに驚いた。見終わって、一階で通常展示を見ていたら、沖縄・壷屋焼厨子甕の見事なものが2点展示してあった。
 うち一点は、下のHPで、小さいが写真が掲載されている。
 
 
 昨年には「琉球工芸展」が開催され、多くの出品があったようだ。うかつであった。東博HPには、情報アーカイブの画像情報検索があって、「厨子甕」で検索すると、素焼きの立派な厨子甕が数点保管されていることが分かった。
 
 これらの琉球民俗資料について、東博のHPは、
明治17(1884)年に当時の農商務省沖縄県から購入したものが基本となっています。また、明治15(1882)年にドイツ人類学会が研究用の参考資料として琉球の民俗資料の収集を農商務省に依頼してきており、当館にはドイツに資料を送られた後に東京へ送られてきたもの、複数ある資料の一方を東京に残しておいたものが移管されました」と書いてある。
 
 理解しにくい文章に、頭が痛くなってしまい、ネット検索して調べたら、ヨーゼフ・クライナー法大特任教授の分かりやすい文章に行き当たった。
 欧州に所蔵されている沖縄の資料を述べたもので、ドイツのベルリン民族学博物館の初代館長バスティアン(Adolf Bastian)のコレクションが中心です。1884年,バスティアンは日本政府にお願いして,沖縄の紅型など500点のコレクションを体系的に収集しました。当時の沖縄県令は非常に頭がよく,ドイツに送るものと同じものを日本のためにも集めました。それが東京の国立博物館に収蔵されています
 
 
ドイツ人類学会(当時は民族学会)のバスティアンが収集し、東博に保管されたのは、沖縄の県令の機転のおかげ、ということになる。
 
 この沖縄県令は、あの「上杉県令巡回日誌」の上杉茂憲なのだろうか。上杉は、最後の出羽米沢藩主で、英国自費留学から戻った1881年に2代沖縄県令になった。交通網が未発達のなか、沖縄の全島を視察し、教育に力を入れ、謝花昇らを県費で東京留学させた人物だ。
 
 しかし、バスティアが依頼した1884年には、上杉は県令の職を追われていた。1883年4月に政府と対立して解任されたのだ。1884年当時は、西村捨三が県令を務めていた。
 
 このあたりの事情も知りたい。東京国立博物館も、過去の寄贈者の遺徳を記しつつ、詳しくしらべてほしいものだ。