「大和路」に描かれた文学報国会

 作家・日比野士朗の大政翼賛会のころの様子を知りたい。少しだけだが、杉森久英が「大政翼賛会前後」で触れている。愛想のいい人物で、岸田國士大政翼賛会文化部長に就任した時、さそわれて、副部長に就任したと記している。岸田は1940年に部長になっているので、日比野が昭和17年(42年)に副部長に就任したとしているのとは、年代が合わない。岸田は42年には辞任しているので、日比野は40年に副部長になって、42年にはともに辞任したのではないか。

 

 岸田のそのころの気負った様子は、広津和郎が戦後「大和路」でK・Kのイニシャルで描いている。

 

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 昭和17年ごろ、奈良を旅行する主人公=広津のもとに、夫人から速達が届く。情報局に出入りしている夫人の弟が、「兄さんは少し言葉を慎まなければいけない、情報局で大変評判が悪い」と忠告したという。日本文学報国会の準備の会合で情報局の役人と相談した際、「あなたの名が出ると、K・Kさんが立上がって、『あんな時局をわきまへない不穏な事をいふ人間は困る』と云ったのださうでございます」

 夫人が心配して「ツマラヌ事は何処でも一言もおっしゃらないやうお願ひいたします」と連絡してきたのだった。

 広津は、その前、文学報国会の準備の会合で、大政翼賛会の部長K・Kとやりあったのだった。定款に、「一つ、われわれは此処に集まって日本文学報国会を作る」「一つ、われわれは日本及び大東亜の文化の振興のため、ひいては世界の文化の振興のために努力する」と、主格がわれわれで始まっているのに、会長推挙の條だけ、われわれでなく「会長は監督官庁及び大政翼賛会に於いて銓衡委員を選び、その銓衡委員の手によって推挙させる」とあるのは、おかしい。「会長を文学者でない何処か他のところから持って来る魂胆が隠れてゐさうでそれが気になるのだ」と発言する。

 

 反応したのは、座長のM・K(久米正雄)。「文学者以外から会長を持って来たいんだよ」

広津「何故?」

久米「何故って、もっと政治力のあるものを持って来なければ、監督官庁から経費が貰へないんだよ」

広津「経費?—-金の事を云はれると、僕なんかどうする事も出来ないから困るが、併しK・K=菊池寛=などに会長になって貰ったら、監督官庁との話がつくんぢゃないか」

菊池「僕なんて出たって駄目だよ」

 とやり取りがあった。

 広津への援護もあった。T・Sは「何処までも会長は文学者から出さなければいけないよ。痩せても枯れても文学者の会なんだから」。T・Sは、里見弴(さとみとん)ではないかと思われる。

 

 K・Kは「はっきり申しますと、情報局からこの際幾つかの文学団体を解消して、一つの団体に纏めて貰ひたいといふ話があって、これで僕等が乗出したのですが、音楽の方やその他幾つかは情報局の手で上から統制してしまったのです。それを文学の方は何とか下から盛上るやうにしてくれといふ意向なのです」「そんなわけで、どうしてもこの会を作り上げてしまひたいと思って、実は今日は情報局の△△君、××君にも此処に列席して貰ってゐる次第なのですが」

 主人公は、もっと、いいたいことがあったが、情報局の前で言わなくてよかったと思うのだった。

 

 広津はK・Kがその後、部長職を辞退したのを知ってむしろ同情する。「彼が文化部長を辞めたと聞いた時には、しみじみ彼に同情した。彼の理想主義で突っ切れるやうなそんなナマやさしい機構でない事が解ってゐるからである。彼がどんなに幻滅を感じてゐるかが想像できたからである」岸田は、組織が官僚化するのに不満を表明したのだった。

 

 むしろ、大御所の久米正雄に対して憤っている。主人公は、久米の「無力倶楽部」の生き方に納得してきた。「この際何も云ってはいけないのである。何か云ふのはオッチョコチョイなのである。唯われわれは心に思ってゐれば好いのである。そして時々集まってひそかに飯でも食ふ会をやらう。その名は無力倶楽部。」

 「日本の文化人の例の「積極」好きや「成長」好きの間に立って、彼は敢然とその「無力」を暴露してゐるのである」と、そんな無力を標榜する久米を広津は認めていた。それが、「積極」好きに変わって、情報局の片棒を担いだ発言をしたことに腹を立てたのだった。

 その後文学報国会の会長は、幸田露伴が選ばれたが辞退。徳富蘇峰に決まった。広津の考えに一応沿った結論だった。広津には会長銓衡委員の依頼状が届いていたが、無視し、返事も書かなかった。K・Kが憤慨したのは、あの時のやり取りでなく、意見を取り入れて広津に応えたつもりなのに、無視されたからではなかったか。

 久米を批判したこの「大和路」は、久米が社長を務める「鎌倉文庫」から出版されたものだ。

 

 この年、昭和17年、岸田は52歳、広津、久米は51歳、菊池と里見は54歳。この場にいただろう、日比野は39歳だった。当時の雰囲気が伝わってくる。