大政翼賛会前後について

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 杉森久英の「大政翼賛会前後」(88年、文芸春秋)を読んでみた。なぜ、岸田國士大政翼賛会の文化部の部長になり、また辞めたか、知りたかったのだ。

 大政翼賛会は、近衛文麿の個人的な国策研究機関「昭和研究会」を母体に、1940年に発展的に設立され、総裁に近衛が就任した。軍部の巨大化した権力を抑えると期待された近衛第二次政権の頭脳集団だった。

「その第一着手の人事として、岸田國士を文化部長に起用したことが、人気を呼んだ。(略)劇作家としての名声のほかに、「由利旗江」「暖流」等の長編小説の作家としても、文壇で注目され、この温厚な人柄と相俟って、信望が集まっていたが、翼賛会に迎えられたことで、人気の絶頂に達した」

 

 獄中死した哲学者の三木清が熱心に翼賛会文化部の設立と、岸田部長就任を進言したのだという。文化部員だった酒井三郎の当時の回想記「昭和研究会」(経済往来社)によると、三木清の推薦を近衛の側近の後藤隆之助が諒承して、満州旅行中だった岸田を電報で呼び返した。後藤は酒井に「岸田は自由主義者だといって、反対がある。(略)君すこし各方面に当って、評判を聞いてみてくれ」と依頼したが、酒井は調べたふりをして、「大丈夫ですよ。評判はとてもいいですよ」と報告したのだとしている。

 

「文化部の人事は大体岸田國士の弟子とか子分とかいった演劇関係者、劇壇人といった人たちで固められていた」(杉森)。新劇関係者の中に多数の左翼がいた。文化部の主な活動は地方文化運動の実施だった。「全国の市町村およそ二百五十ばかりに大小の文化団体があって、盛んに活動しているようだった。地方では昔から、市町村の政治は、職業的な地方政治家(主として保守系)が独占して、教員、医師、美術家、音楽家、宗教家、新聞人などのいわゆる知識人は、発言できない状態だったが、それを打破して、知識人も政治に参加できるようにしようというのが、この地方文化運動の狙いのようであった。その発想は、左翼の文化運動と同じである」と杉森。

 

 これに対し、国粋主義蓑田胸喜慶大教授が、「翼賛会文化部は赤化分子に占領されているという世論を煽り立てた」。河上肇美濃部達吉を学匪と攻撃してきた実績のある行動派の蓑田は、翼賛会に乗り込み、岸田と対決したという。

 国会でも衆院予算委で、小泉純也議員(小泉進次郎環境相の祖父)が呼応、「翼賛会の雛壇に並んだ人物を検討するに、天下の人材とは誰も認め難く、むしろ廃人回収との酷評すら世上に行われている。多数の転向者を包含することは、天下公知の事実である」と翼賛会を攻撃した。

 

 杉森は、「翼賛会は赤だという彼(蓑田)の指摘は、当時ブームといっていいほど湧き立っていた翼賛会の人気に、冷水をぶっかけるに充分で、岸田文化部長を退陣に追い込むほどの威力を発揮した」としている。

 岸田の辞職はこういった経緯があった。広津和郎の怒りが、同情に変わったのはこういうことだったのだ。 

 戦後、翼賛会の役職に連ねた人物は、こぞって公職追放された。

 杉森に言わせると、「この頃の若い人たちは、戦争中の空気を知らず、学校の歴史科でもちゃんとしたことを教わっていないから、翼賛会というと、ヒトラーナチスや、ソ連共産党のように、陰惨な、無気味な、妖怪じみた団体だったかのように思っているらしいが、私のいたころの翼賛会は、アッケラカンとした、権力も強制力も持たない、張子の虎のような存在だったのである」としている。

 

 日比野副部長の当時の職務については、杉森は書いていない。岸田部長就任の時に迎えられ、岸田が辞任した後、杉森が文化部に来たのと入れ替わりで副部長を辞任したためだろう。後任副部長は福田清人だったという。