日比野士朗と舟橋聖一

「東北文学」で座談会をした両作家舟橋聖一、日比野士朗との戦時下の接点が気になって、石川肇「舟橋聖一の大東亜文学共栄圏-「抵抗の文学」を問い直すー」(2018年、晃洋書房)を読んでみた。舟橋のしたたかな生き方が描かれていた。

 

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 大政翼賛会によって、昭和17年5月、日本文学報国会が結成されたことは前に記した。このとき、翼賛会文化部副部長として、岸田國士部長のもとで仕事をしていたのが日比野だったことも書いた。

 

 一方、中堅作家であった舟橋は、同16年12月から、「男」を東京日日、大阪日日新聞で連載を開始。菊池寛会長の文芸家協会の理事に名を連ねていた。だが、昭和17年5月、文芸家協会は文学者愛国会議の決議で解散させられ、日本文学報国会に「改組」された。菊池寛会長も降り、舟橋理事も解任された。

(前に紹介した、作家の広津和郎が、岸田國士に噛みついて、報国会の会長の選任方法に疑義を呈し、菊池寛を推薦したのは、こういった事情があったのだ)

 

 近衛文麿首相の国民運動の流れに乗った大政翼賛会側の日比野と、それによって改組された文芸家協会理事だった舟橋。相対する立場だったことがわかる。

 

 当時の雰囲気は、戦後、舟橋が「私の履歴書」で綴っている。報国会結成直後の昭和17年11月に開かれた「大東亜文学者大会」に、一会員として出席したときのことだ。

 

「私は役付ではなかったが、議席だけは与えられたので出席した。私はいつもの雪踏に着流しで入って行ったところ、エレベーターの中で、ゲートルを穿いた一人の委員に、/「何という恰好だ。相変わらず吉原の朝帰りみたいな風俗をしているな」/と言われた。/「文学者はこれでいいのだ」と反駁すると、彼は、/「何がいいことがあるか。若しここへ敵の爆撃があったとしても、そんな見苦しい恰好では、死ぬにも死ねんじゃないか」/「中国の詩人は、支那服で死ぬ。俺は着物で死ぬのが文学者としての本望だ」/と、理屈にならぬことを言って、エレベーターを出てからも、いがみ合ったのをおぼえている」

 

 ゲートルと着流しという対照的な服装を取り上げて、舟橋は効果的に自分の立場を主張している。さながら、日比野もゲートル組だったということになる。

 

 この後、昭和20年の敗戦直前、舟橋は「悉皆屋康吉」を上梓。五・一五事件を批判的に描いていることなどから、戦後、永井荷風谷崎潤一郎とともに、「抵抗の文学」として文芸評論家・平野謙らに激賞され、戦時下の抵抗文学者として知られることになった。

 石川は、昭和16年10月から始まった文士徴用(多くの作家が、戦場に報道班員として向かった)に舟橋が応じなかったことについて、綺麗ごとではなく、国策文学を受け入れて書くので、代わりに戦争に行かないですむように、情報の当局と駆け引きをして実現したものだった、と明らかにしている。その国策文学が、昭和16年末の「戦時体制下日本の最も待望する逞しき男性の型を創造した」と前宣伝された小説「男」だった。

  抵抗文学とされる「悉皆屋康吉」も決して、体制批判でも抵抗でもなかったことを詳細に追っている。戦時中、積極的に大東亜共栄圏の考えを持つに至ったことも挙げて、石川氏は、舟橋の定説を根底から見直そうとしていた。

 抵抗の文学者で解釈しては理解できない、「抵抗と国策、そして愛人。その処世術は「したたか」としか言いようがないが、あの戦争を懸命に生きた」作家として、別の光を当てている。戦時下の文学というと、「抵抗・韜晦・迎合」で解釈される戦後の類型化を切り崩したいと石川氏は述べている。

 

 そういえば、戦後の文芸評論家として活躍し、舟橋を評価した平野謙だって、戦前は「情報局」で仕事をしていたことを、杉森久英は「大政翼賛会前後」で明らかにしている。一筋縄ではいかないのだ。

 敗戦後のマッカーサー体制下、多くの文学者が、自らの戦時下のありようを隠し、変身して再出発した。隠し切れなかった者や、隠したくない者は別の人生を生きた、ということなのだろうか。

 日比野も舟橋も、戦時下の行動や思想に今から思えば、大した変わりはないように思える。敗戦後の新時代をも「したたか」に生きた舟橋と、そうでない生き方の日比野とが、それぞれの戦後の軌跡を描いたのだ。

 

 日比野の死後出版された、遺作ともいえる「芭蕉再発見」を読んでみたー。