昭和5年のラグビー記事

ラグビーが今日の様に盛んとなり、運動に興味を持っている人々の話題に上り、試合の見物人も萬を以て数へるようになったことは全く驚くより外はない

 

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 古雑誌をめくっていて、こんな文章に出会った。2019年の雑誌でない。1930年(昭和5年)「改造」11月号掲載の宇野庄治「ラグビー漫談」だ。

 

日本のラグビーも今後益々発展して今後十年もすれば野球のお株を奪って仕舞ふだらうと思ふ」と予言している。

 

 確かにラグビーは大正から昭和にかけての1920年代、明治、慶應、早稲田、同志社の大学中心に急激に成長し、全国に1500近いチームが活動するほどになっていた。

 宇野氏も、三高(京大)のラグビー部時代、来日中の英国皇太子の前で、神戸外人団と試合(5-3で三高が勝利)した思い出を書いている。

 

 英国では、シーズン終わりの国際試合に、ジョージ五世がグラウンドにおり、選手と握手して健闘を称えていたが、「我が国でも之れに倣って秩父宮殿下を総裁に頂いて東西対抗試合には大抵御臨席を賜ることとなって居るが、彼我の風習が違って居るから握手を賜る恐れ多いことは思ひもよらぬことである」とも書いてある。

  1926年には日本ラグビーフットボール協会が創立され、秩父宮が総裁となって、皇室がラグビーを支援した。1930年には、日本チームがカナダのブリティッシュコロンビア州に初の海外遠征。2年後は、カナダチームが来日。東京での試合には、2万5000人の観衆が詰めかけた。1934年には、豪州から学生チームが来日し、2万人が早慶との戦いを見に訪れている。「萬を以て数へる」のは、事実だったのだ。

 

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 しかし、大政翼賛会が結成された1940年になると、英語は敵性語とされ、野球ばかりかラグビーのカタカナ表記も許されなくなった。ラグビーは「闘球」に変わる。皇室の支援があっても特別扱いは許されなかったようだ。全国中等野球大会は42年の選抜大会で中止となり、ラグビーも43年を以て試合が中断された。

 

 ラグビーが野球のお株を奪うという宇野氏の予言は外れ、戦後は進駐軍のキャピー原田氏の進言もあって支援を受け、プロ野球が人気沸騰してゆく。略歴を見れば、かく予言した宇野氏も、戦後は巨人軍の代表を務めているではないか。

  曲折あって、今のラグビー人気。

 宇野氏は文章で、横浜外人チームと試合をした思い出を記している。「此の時僕等のフルバックに真鍋三郎と云ふ人がいたがキックにタックルが非常に上手で、外人にグレーテスト・フルバックと云ふ賞讃の辞を貰った事があったが、真鍋氏は腰を痛めた事からカリフェスになって今だに全快しない。全く惜しい名フルバックであり今だにもそのプレー振りが目の前に浮かんで来るのである」と真鍋三郎という名選手を語っている。フルバックだから、もちろん俊足でもあったのだろう。

 いまも語り継がれているのだろうか。