ピエール・ロチがまず登った八坂塔

 京都の八坂塔(法観寺五重塔)は、今も二層までは、上がることが出来るという。以前には最上階まで上がれたようだ。
 
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 明治18年(1885年)秋に、フランス海軍大尉ピエール・ロチが五層までのぼったときの文章が残っている。「秋の日本」(村上菊一郎、吉永清訳、角川文庫)で読むことが出来る。
 
 トリオンファント号艦長だったロチは、単身、停泊地の神戸から京都まで汽車で向かい、円山公園の奥にあった「也阿弥ホテル」(明治14年開業)で一服し、体をぬぐった後、2人牽きの人力車で八坂の塔に出かけた。
 
 以下ー。
番人の二人の老婆が、わたしに入場料一銭を請求する。もちろん菊花と怪龍のマークのあるニッポンの一銭を。それから、愛想のいい素振りで彼女たちはいう。
― お一人でお上がりになってもよろしゅうございます。わたしたちは信用いたします。昇り口はこちらですよ。
 で、ひとりになれることをうれしがって、わたしは攀じ登りはじめるのである。人々の手で永いあいだ磨かれた竹の手摺のついている垂直な階段を伝って
 階段をのぼりながら目についた梁材は、「落書き」で下から上まで覆われていた。
 
一番上層の部屋には、片隅に一つのarmoire-à-boudha[厨子]がある。わたしはそれを開く、そこに棲んでいる神様を見ようとして。神様は、御自身の蓮の花の中に衰弱しきって、大そう年を召して、耄碌なされているようである。埃の層の下に神秘な微笑をうかべたまま
 
 ロチは勝手に厨子をあけている。仏像に対して、衰弱した神様だの、モウロクなされていると、言いたい放題だ。寺院が明治18年、まだ廃仏毀釈による荒廃から立ち直っていなかった様子がしれる。
 
 5層からの眺めは、「天翔っているときのように、坦々たる平野の上にむらがりひろがった広い都が、その周囲の、松林や竹藪がすばらしい緑の色合を投げている高い山々と一しょに見下ろせる。最初の一瞥では、ほとんどヨーロッパの都会のようである。故国の北部地方の町々のスレート屋根に見紛う、暗灰色の甍を載せた小さな屋根」と記述している。
 
 故郷を思わせる碁盤の目のような街並みに、ロチはおもわず教会や鐘楼をさがすが、低い小さな家並みからは宮殿、寺塔の「奇妙にねじまがった」高い屋根屋根が浮き出て見えるばかり、だった。
 
 高層ビルもなく、派手派手しい色彩もない、当時の静かで落ち着いた美しい都が想像できる。
 
「日本の塔」の川添登氏も昭和39年に許可を得て最上層に登っている。「驚いたことには、ちゃんとした階段がつけられ、各層にはりっぱな床が張られてある。それもやや狭くなった一番上だけは一つだが、他は、昇り降りのために二つづつ階段がつけられている」「比較的に気楽に人を上げているらしく、内部に火の用心のポスターが貼ってあった
 
 八坂塔では、古くから、町家の人々に、最上階からの眺望をたのしませていたようだ。江戸時代、江戸の町民は二階建ての建設が原則許されず、塔など高みに登ることは禁じられた。京では、江戸時代にも、独自のルールを作っていたのだろうか。
 
 祇園にある大雲院が特別拝観された時、伊東忠太設計の「祇園閣」(昭和2年)に登ったことがある。ご近所で聳える八坂の塔もよくみえ、夏の京の俯瞰をたのしんだ記憶がよみがえった。