五重塔に登った人のこと

 もうずいぶん昔のこと。母と兄と3人で奈良旅行をした。
 どこかで塔を見上げていた僕たちに、寺の関係者が声を掛けてきた。ちょうど、三重塔だか五重塔に誰かが登るところだったので、ついでに、声がかかったのだと思う。幼かった僕を見て「ちょっと無理かな。お兄ちゃんどうですか」と、中学生の兄が中に入っていったのだ。
 
 随分待たされた。下りてきた兄の第一声は、「怖かった~」。暗い中、ハシゴを使ったらしいが、大人が登るような幅だったのだろう。
 
 兄がうらやましかったことを覚えているが、どこの寺だったか記憶がない。母も兄も今は亡く、確かめようがないと思って居た所、
 
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 川添登二川幸夫「日本の塔」(64年、淡交社)に、「つい最近までは、入場料をとって五層まで観光客を上げていた」という記述があった。
 興福寺五重塔(高さ50m)だった。
 
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 折も折、上野の寛永寺で執事長を務めた浦井正明氏が、寛永寺五重塔に上った時の体験記のコピーが抽斗から出てきた。上野のれん会のタウン誌に書かれた随筆。1980年~90年ごろの記事だろう。当時のO編集長から頂戴し、面白かったのでコピーしたものだ。
 
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寛永寺五重塔の謎」。要約すると、寛永寺五重塔寛永8年(1631)年に建立され、同16年(1639)3月20日に焼失した。現存するのは、同年10月に再建されたもの、との記録が残っている。
 或る時、浦井氏がメンバーだった「上野の杜の会」で神奈川大の西和夫氏から、疑問が出た。果たして、3月に焼失して、10月に再建できるのか。たった半年しかない。
 
 有力な仮説は、塔が燃えたのは一部だったのではないか? あるいは、塔の上の伏鉢の銘文を誤読しているのではないか、というものだった。伏鉢には、寛永16年7月上棟、10月竣工と記した銅板銘があった。
 
イメージ 2  矢印が伏鉢(西福寺三重塔)
 
 
 というわけで、浦井氏に白羽の矢が立ち、五重塔の屋根に上り、銘文を確かめる役目を負った。興福寺の様なハシゴはなく、苦労して、複雑な木組みの間を抜けて上がったという。
 
 成果があった。内部には火事で焼けた痕跡はなかった。また、最上層で、命綱をつけて、銅板葺の屋根を上って確認したところ、銅板銘は、間違いなく7月上棟、10月竣工とあった。
 
 露盤に腰かけて見下ろした上野の町が美しかったというが、「屋根の出入口にある小さな足がかり一つを頼りに、滑る銅板の屋根をつたって降りた時のあの恐ろしさは生涯忘れられない思い出となった」と随筆を締めくくっている。高さ32m。屋根の辺りでも、20m以上あるだろう。
 
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 寛永寺五重塔を見る際は、最上階の屋根と相輪の伏鉢辺りを見逃すまい。ただ、半年で再建された、という素朴な謎は残ったままだ。